小説木幡記:2010/12/07(火)中学生のころ中2病じゃなかった
こどものころの思い出はやけに鮮明なままのことがよくあるが、不思議にも、中学生のころのことは薄まっている。期間が3年間と小学校の半分だったことや、総クラス数が12組以上あったので、修学旅行(東京)もたしか2班に分割して行った。そういう旅の思いでなどもあまり覚えていない。
記憶の少ない理由や事情を、さっきから熱心に(笑)考えているのだが、どうにも覚えがない。
あまりに正常というか、余の人生では異様なくらいに正常だった時期だから、覚えが少ないのだろう。だから、世にいうところの「中2病」という生長期の病というか異変とはかけ離れていたのだと思う。
中学生の頃の思いで。
化学クラブにいた。部長をしていたはずだ。小学校の頃から雑誌『模型とラジオ』を愛読し、その関係もあってやけに化学実験が得意だった。ケミカルガーデンの話を理科の先生に言ったら、「Mu君、それじゃクラブで水質検査の実験をしないか」と指導され、半年ほどがんばって、植物園かどこかの会議室で他の中学に混じって、調査報告をした~(人生とは、ふしぎなものだ)
その理科の先生が同時にハイキングクラブの顧問だった。友達も何人も入ったので余も、ぞろぞろと後について入部した。平隊員だった。その何人かは、高校でも山岳クラブに入った。中学のころは琵琶湖の通称・南アルプスとか、西側近辺では高山の皆子山とか、滋賀県を中心に歩いた思い出がある。
漢字書き取りが極端に苦手だったのに、中1の先生が余を誤認して、市内中学の書き取り選手権に無理矢理出されて惨敗し、相当長期にわたる心的外傷におびえた。
教師は生徒の気持ちをよく理解すべきだと思った(爆)。
中2の担任は、逆たぬき、という若い先生だった。サッカーが上手で、教え方もよかった。余が卒業してから高校の数学先生に転任したと噂もあった。クラスに仲は良かったが相当な不良がいて、数名と浮き上がっていた。体育の授業で彼はたぬき先生に逆らって、激しいやりとりがあった。両方、気に入っていたから余はこまった。
後日不良少年は、北朝鮮に帰国したと噂に聞いた。今頃どうしているのだろう。
それ以外のことはほとんど覚えていない。
中2病と言われる、自我生長期の葛藤のような、世間とのアンバランスというか、かっこつけはまったく思い出せない。ごく普通の、おとなしい静かな少年だったイメージだけがある(本心)。
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