小説木幡記:2010/12/04(土)情報の獲得編成生成発信
日々MuBlogを記していて、ときどきそこに書かれる「情報」の源について思いがおよぶ。もちろん書いているのは余ひとりだが、そのうち余自身が編み出した考えや感性内容や、作り出したものの「情報」はどれほどあろうか。
~
あまり無い。
大抵は本を読んだり新聞を読んだりニュースをみたり映画に感動したり、学生の話に聞き耳をたてたり、会議でぶつくさ言った人の話を思い出したり、~。と、余自身がオリジナルに発信することは実に少ない。ほとんど人様の考えや感じたことに、ほんの少し余の気持ちを込めて、つまり余のフィルターを通して、MuBlogの記事にしてきたものだ。
~
このごろ、傾向として重い「読書感想文」がへってきた。実は、たくさん読んではいるのだ。以前はそのうち気に入ったものはMuBlogに感想文として掲載してきた。ところが、あまり書かなくなった。気に入った図書や映画は一杯ある。どうしてなぜ書かなくなったのか。それは、自分が生み出していない、発信していないという、負い目のような、恥ずかしさのような~、不思議な気持ちにとらわれだしたからだ。ひとさまのことを、ひとさまの考えや感じ方で、余が書いてもしかたないじゃないか、~。との思いがとても重くのしかかってきた。
~
一杯の小説や映画や音楽やニュースや。どれもこれもすばらしい。だからそれを十分味わっている。ところが、それは全部知らない人たちが作ったもので、知ったひとであっても、余ではない。余は人の作ったものをただ読んで、食べて、楽しんでいるだけだ。
~
余は、この世に何を生み出すことができるのだろうか、……。
と、そんな思いが、このごろ深く静かに余の胸裏に渦巻いている。
うむ。
この世を、人々が作った世界を、楽しむだけでもよいのだろうか。
いや。こんなことを言うようになったのは、このごろ、人の作ったものを心から味わえるようになったからかもしれない。わからぬ。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント