小説木幡記:2010/12/02(木)神話の中に実在した男:倭建命
来年(平成23年、西暦2011年)の夏に書く論文は、ヤマトタケルノミコトに関する日本文化を描いた古い評論に関してである。
そのことについて時々考えている。
ヤマトタケルノミコトは、古事記では倭建命とあり、日本書紀では日本武尊と表記されている。文学的には古事記の方がわかりやすくせつない。いろいろ論評するには日本書紀の方が細かく描いている。この違いについては過去の古代史関係資料を探ればいくつもあるだろう。しかし現在の余はあまり気にならない。
それで。
問題はヤマトタケルノミコトは神話なのか実在した人物なのか? という問いである。もちろん昔から圧倒的に非実在論が強く、「いろいろな人の事跡を集めて一人に集約し、英雄伝説とした」、というのが現代の普通の考え方なのだろう。
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しかしどうにも、この戦後古代史の通弊というか、絶対に英雄を作らない、すべては権力者側の作った嘘、正当化、~というお題目にはときどき辟易してしまう。ヤマトタケルノミコトというようなスーパースターが大和朝廷、12代景行天皇の皇子にして、14代仲哀天皇の父親として実在しては困る人が多数を占めていたのだろう(笑)。それはそれで、歴史を改竄するものすごいパワーをもっていたと想像する。
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現代はどうなのか、余はそういう業界の消息については知らない。
そこで、来年の夏に向けて、ヤマトタケルノミコトについてときどき自分の立場を定めていこうと思っている。
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しかし英雄伝説・嘘にしても、古事記や日本書紀は念入りに作られていて、お墓まである。三重県の能褒野(のぼの)や、大阪の白鳥陵である。ヤマトタケル伝説は古事記でも日本書紀でも一代記がえがかれており、読後感は短編小説ではなく中長編小説で、もしすべて嘘なら記紀関係者は相当な物語作家だったと言えよう。
……、話が古いことなので、倭建命が実在しても虚構でも、あまり違いはない。古い歴史にたいしては、現代から見てどれだけイメージが豊になるのかどうかで、実在か虚構かも質が変わってくる。現実にこの世におられたとおもえばおられたし、嘘とおもえば全てが大嘘。しかしどちらにしても、倭建命という現実味を帯びた青年は記紀に残され、現代の余にたしかな手応えを与え続けてきた。
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コメント
ヤマトタケル
素晴らしいテーマで論文を書かれるのですね。謎の多いヤマトタケルなんですが、この名前は確か殺害した敵の熊襲タケルから貰った名前ですよね。ヤマト王権にはタケルの名前は無いですね。
出雲タケル、川上タケル、磯城八十タケル、赤胴八十タケル、皆さん、ヤマト王権に敵対した族長の名前ですね。ヤマトは彦(ヒコ)と命(みこと)が族長の名前のようですね。
そこに、ヤマトタケルの謎があると思うのです。ヤマト王権の皇子が何故、死後も朝敵の名前でヤマトの王(ヤマトタケル)と呼ばれたのでしょうか。
この謎が最近気になっているんです。
投稿: jo | 2010年12月 2日 (木) 15時56分
Joさん、久しぶりです。
私の家の近所(数キロ)に菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)さんが眠っておられますが、この方は風土記で宇治天皇と呼ばれています。そして倭建命も風土記では倭武天皇とよばれているようです。
天皇ではなかった方に天皇の称号を付ける理由には、諸説はありますが、宇治天皇さんは明らかに皇位継承で仁徳天皇に破れた方です。倭建命も記紀事跡をみるかぎり、天皇位を継承しても不都合がないばかりか、継ぐべき方でした。継がなかったのはなにか原因があったのでしょう。
可能性としての天皇位。
これがテーマの一つと思いました。
もちろん、天皇ということばは、すめらみことであり、この呼び名や表記の時代変遷は注意する必要があると思いますが、要するに大和王権の大王継承からはじき出された方であった。
その名前に、朝敵の呼称を残すのは~、「強さ」を名にこめたのでしょうか~
(悪魔Muとか、閻魔Muとか、TレックスMuとか、竜王Muとか~)
倭建命は諸国巡歴をしていますから、逆に多数の小英雄派遣部隊皇子を、彼一人にまとめたという従来説は、とってつけたような憶説、珍説と思います。後醍醐天皇の諸皇子の活躍を、護良親王ひとりにまとめるような、無理がありますね。
投稿: Mu→Jo | 2010年12月 3日 (金) 04時33分