小説木幡記:2010/11/13(土)ゆとりある美的生活との落差
気持ちの中で想像する美的な生活を過ごすには、まだゆとりがない。
1.身の回りのこと
研究室や部屋をかたづけて、整理整頓して、こざっぱりとした顔をして日々すごさないと。それとは逆にゴミに埋もれて追われるように次々と雑務に埋没し、余った時間は読書にのめり込んでいたのでは、美から遠い。美を求めることと、心の充実の間に、まだ少し落差がある。
2.読書のこと
精神性の一部の話となる。新しい図書は興味がわいて未知のおもしろさがあるが、美醜の結論に難しいことが多い。心に残って後日にどんなイメージを再現するかは、よく分からない。古い図書は、なんらかの佳いイメージが残っていて、それは大抵は「美」に関わるもので、なにか記憶を刺激する過去に埋もれたものを再現する、あるいは埃のかぶった「美の原点」を磨き上げる気がする。
3.美を求めて
旅にでたり、散歩したり、美術館を回ったり~そして、一直線に車や電車で目当ての「美」を求めたり。
「美」はふと出会ったり、目的と計画の中で美を味わったり。
心身に一番佳いのは普通の散歩をして、そのことがあるいはそのときの想念が「美」であるときだ。
ただ、時々は京都や奈良や滋賀を、目的もって走り回り「美」を追うこともある。
4.美のガイド者たち
この記事を書いたのは、数日前に読んだ松本清張の『球形の荒野』で、登場人物が明日香の古寺を訪れる場面があって、それに触発されたからである。清張の古代史への「美」には不器用なところもあるが、その逆に、わかりやすくて万人になっとくされる「美」への素直な気持ちが表現されている。苔寺の苔や薬師寺から唐招提寺への道のりや、タクシー車窓から見た飛鳥の風景は、鮮明で濁りがなくて、すっと心に入ってくる。
気持ちの中では、別の美の系譜が蘇ってくる。
保田與重郎の聖林寺十一面観音。
小林秀雄の馬子の墓。
白州正子のかくれ里。
それぞれに深層土着的(ネイティブ)な、知的で理屈っぽい、ハイカラな美の系譜がある。
余は、前方後円墳を眺めていると気持ちが「美」で一杯になる。美というのはとらえどころのない想念ともいえるし、眼前にいつも漂っている現実的なオーラだし、あとでなぜか気持ちが安らぐものである。そして時々は美を求める気持ちが高ぶってくる。
やがて、心の綾が外界の美と重なったとき、充実するものだ。
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