小説木幡記:2010/11/10(水)政治談義をもう少し
実は、一年前までは新聞もNHKニュースもほとんど目にしなかった。新聞は、文化欄の小説書評とか、ときどき邪馬台国記事に目を奪われる程度だったなぁ。
急にニュースの政治的な側面に興味を持ちだしたのは、政権が変わったからである。
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一年間随分面白く悲憤慷慨しながらも笑って過ごしてきた。
そして、この頃はまた昔の通り、政治に興味が無くなってきた。
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日本には、政治家が育たなかったのかと、思うようになった。
考えてみれば、今の政治家は余と同年か少し上とか、あるいは一世代下とか、ある意味で親しく、別の意味ではどうしてもアラが見えすぎてしまう、愚かさも賢さも余と似たような者らに、国の行く末を握られているかとおもうと、「もう、どうでもいいや」と、つい思ってしまう。
あの賢こぶった屁理屈、あのどうしようもない目付きの浮遊、あのたまらない高慢ちき、~などと並べ立てていくと、国難を背負った宰相とか、千万人といえども我行かんの根性とか、一身投げて民に尽くすとか~、要するに政治家という特殊な機能を発揮している人がほとんど見あたらない。あれなら、余でも今夜から替われる、なんらのカリスマも訓練も経験も知識も不要な職業だ、と思ってしまう。
論理的整合性の無視、感情激発の許容、金銭感覚の病質ないし違法性の無視、国家反逆罪に該当する国防外交、~これだけ自由勝手に政治を動かせるなら、そりゃ、余でもつとまるよ。
ところで勿論本当は、これは現政権だけの問題ではなくて、明治、大正、昭和前期、昭和戦後以来ずっとそこここで問題があったことの、現代は吹きだまりのような時代なのかもしれない。
戦後で言うと、憲法を自国民で作ることができなかったという事実。
戦後時間が経ってもまっとうな建軍をできなかった事実。
なにもかもが砂上の楼閣、諸国民の公正に依存しすぎ、自律自立しようとしなかった、実に姑息な国家再建を行ってしまったという、痛恨の戦後史が今を形作っている。
そのことで得た物は経済的な繁栄。
亡くした物は建国の本義。その精神。
そして現代は繁栄の衰退、精神性を亡くしたままの荒廃。
結果として、戦後の再建日本は砂上の楼閣だったという事実の露呈。
ということで。
日本は他国の傀儡政権と歴史に残らないことを祈念する。
国是
商売繁栄はほどほどに。
軍備はほどほどに、ただし軍備をアウトソーシング(傭兵)することはやめよう。
警察消防はしっかりと。
世界で最優秀のコンピュータやロボットを作っていこう。
日本史、世界史を高校必須科目に。
お米を主食に、農業を大切に。
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