小説木幡記:2010/11/07(日)悠々自適の日曜日
悠々自適とか晴耕雨読とか毎日が日曜日とかいう古(いにしえ)からの言葉が耳にやさしく語りかける日々である。しかしそれはまた心身枯渇し、収入が途絶え、頼るもの無く朽ち果てていく様とも裏表であるぞ。
いつの時代にも。
老いとか若さとか、加齢とか希望絶望というのはいささか相対的なものであって、余の記憶にはうっすらと20代のころにも上述のような実感を味わっていたことを思い出す。そのころ、20代初期の余は、今からでも「本心だった」と確認した上で、「長く生きた。もう若くはない。後は滅びを待つだけだな」とうそぶいておった。いや、ほんま!
そういう感性を、最近亡くなったドイツ文学系の文芸評論家が、「老いてもいぬのに、若年寄じみたというか、晩年などと自嘲するのは、本当に老いた人に対して申し訳ないではないか」と、叱責していたので、はっとして襟を正した。おそらく太宰治に関する文芸評論だったと思う。
三食たべて好きな読書してうたたねしながら「貧しい。赤貧あらうがごとし」とか言ったり、まだ旅行したり散歩できるのに「心身衰えたるかな、嗚呼、我が生終わりぬか」などというのは、本当に飢餓状態の人とか、病気で長期入院している人から見たら、嫌みでしかないし「ふざけるな!」と座布団や急須を投げつけられる。
心しよう。
と、反省するのは猿でもできる。
で、日曜日を悠々自適と言うには、blogを通して世界に向けて記録を残したり、好きな小説を紙の文庫やiPadで読んだり、近所の伏見港で安いラーメン食べてお茶したり、京阪特急2階建てに乗ったり、部屋をかたづけたり、……。自慢のEH500をDCC制御の超微速でじわじわと走らせたり、~。NHK大河ドラマを見る前に夕べの風呂にじゅわりとつかったり、美味いご飯をいただいて猫ハルキの髭に触ったりして、一日を終える。それが余の晴耕雨読、自適生活なんじゃろう。良しとしよう。
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