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2010年11月 5日 (金)

小説木幡記:2010/11/05(金)死と過食

Amush010127 墓の中には何も持って行けない、という感慨はこの春に味わった。図書もカメラもPCも模型もiPadも、保田與重郎全集や三島由紀夫全集も持っては行けない。身一つでサイナラするわけだ。とすると、昔よく読んだ稲垣足穂さん(『少年愛の美学』とか『一千一秒物語』などなど)は、常日頃浴衣と広辞苑しか身辺におかなかったとの話は、今にして思えば貧乏を売り物にするよりも先に「死」という事象を把握されておったのじゃなかろうかと、思ったね。

 きっとそうなんだろう。
 死と食欲とは実に公平だ。万人、世界中の人間は出身門閥や預金残高や美醜や年齢に関わりなく、一日に楽しんで食べられる量なんてきまっている(過食症とか粗食症とかの病気の人は除く)。これは公平だ。どんなに贅沢しても、一日に3度のフレンチを10度にできても、ちっともうらやましくないし、馬鹿馬鹿しく思われるのがおちだ。

 そして、さらに当然の「死」。
 犬死にだろうが不慮の死だろうが、名誉の死だろうが、ともかく前提としてみんな死ぬ。お迎えが来る。早い遅いはあるが、確実に死す。これほど公平なことはないだろう。その公平さに輪をかけて、棺桶や墓に宝物を持って行っても本人にはまったく意味がない。生者の気持ちをなだめるために式を盛大にあげて、もがりを丁寧にして、地下に水銀の河をながし~

 この世のあらゆる憎しみや悲しみやそねみや恨みに幸せや不幸を静かに包みこむのが万人の「死」である。そして生者の文学は死を生者のためにことほぐことにある。死は死者に何物も求めない。これほどの公平さは、この世にはないだろうな。

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