小説木幡記:2010/10/19(火)TVの中でiPad:メディアはひとつになった
昨夜NHKのクローズアップ現代で、電子書籍について話題があった。津野さんという評論家がコメントをいくつか出していた。
今朝iPadを開いてみて、世間の動きや、出版社に返送された山盛りの書籍が裁断される画面を思い出し、紙も電子も併存すると言った津野さんの話を思い出し、暫くソファで画面に見入っていた。
iPadを触っている限り、iPad で仰々しく読書すると言うのはおかしいと思った。iPadというよりも世間への窓、歴史への窓、世界への窓がiPadであり、それはアップル社製品でなくてもよいわけだし、しかるべきインターフェースを備えた「新しい窓」なのだと考えればよい。
そこで思った。窓と言えばWindow、話がそこへ行くとマイクロソフト社やアップル社やGoogleやAmazonやSONYや富士通の世界になってしまって、けつまずく。余がもうしたいのは単純で、新しいメディアが世界に通じていた、という驚きにすぎない。それを可能にする窓機械がアップルであれ、amazonであれ、富士通であってもSONYであっても、よろし。
iPadで事例をあげる。
読書しているという思いは少ない。ゲームしているわけでもない。音楽を聴いているわけでもないし、地図をみているわけでもない。それらの全部を一緒くたにして自然に無意識に画面に指をそわせて世界と対話している気分だ。
たとえば。あなたごのみのアプリケーション、とかいう画面がある。そういう機構をつかっているというよりも、いつのまにか眼前に世界のアプリケーションがあって、アプリケーション雑誌としてiPadを触っている、ということだ。~ながら、しながら~の世界ではない。コンカレントではない。統合されている。感性がインテグレートされている。ゲームしながら辞書をしらべるのではない。辞書というゲームを触っている~。ふむふむ。
なにかの区別が極めて少ない。
だからiPadで読書、とかいう気持ちがなくなる。もちろんゲームとか、ビデオとか写真を眺めるというこれまでばらばらだったメディア接触が、なにかしら融け合って、iPadという世界に通じる「窓」と話している、それが余のいまの気持ちだ。
やはり、21世紀、平成22年に人類史の革命が起こった。メディアは一つになった、といえる。
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