小説木幡記:2010/10/11(月)深夜のメール便と文学
日曜の夕方、龍馬伝を見終わって感想を記したと思ったら、眠りについた。
と、思うまもなくベッドの枕元でケータイがごっ、ごっ、ごっと震えながら呼び出しているのに起こされた。ケータイが深夜に夜泣きしたくらいで目覚めるわけではないが、時刻は零時すぎで、4通が数十秒間隔で着信していた。それだけあると、白河夜船状態も打ち破られて、のっそりとベッドから降りた。おもむろにPCに向かい内容を確認した。
~
倶楽部の方で機関誌をご隠居(倶楽部卒業生)達に送付したせいか、二人の別年次のご隠居が別日に葛野にくる手はずだった。一人は来室時間がきまっていなかったので、頭の片隅に入れるだけにした。一人は、授業参観も兼ねてくるので現役助勤も含めて昼食会参加を通知した。その参加、不参加の回答がさっきまとめてあった。参加者は土曜日や日曜の昼に回答があり、さっきの連続ケータイ鳴動は、ぎりぎりの不参加回答だった。
利便性を考えて十年来、主メール着信はケータイ転送にしている。だから余のケータイは着信通知のためだけにある。滅多に携帯からメールをだしたり電話をかけたりはしない。画面が小さくて、文字入力がややこしいので、使いこなしていないのが実情だ。電話といっても、かかってこないのだから、かけることもない。電話は相手がでないし、余も気がつかないことが多いので、年に数回だな。
というわけで、深夜のケータイメール便は、メモ程度の内容で、国家の危機に類するものではない。だから、本来ならまたぐっすり熟睡するはずだが、……。妙に目がさめてしまった。そういえば土曜日の午後も、昨日日曜日の午後も、昼寝がすぎた。よくないなぁ。
と、ここから本題()
日曜日に読書した。髙村薫のレディ・ジョーカー(上)新潮の改稿文庫。改稿文庫というてもファンや関係者以外はご存じなかろうが、髙村さんの作品はメディアが変わるたびに内容が相当に改稿・増補されていく。原稿用紙で数百枚単位の増補となると、こりゃ新作だ!
レディ・ジョーカーは、余は昔にハードカヴァーを読んだし、映画もみたし、既知なのだから文庫を読む必要もないのだが、この春にエドルン君が「読め!」と言って上中下の三冊を木幡において行ったのを、昨日ようやく再読し始めた。
~
よいなぁ。
髙村さんの小説は。本当に感心する。すばらしい、につきる。
被差別部落、在日朝鮮人問題、警察、検察と、髙村さんの描く世界は現今日本の暗部でもある。そういう世界に悩み生きる男や女が眼前をなにげなく通り過ぎていく。
昨日は、数ページを読み出したとたんに、また、涙してしまった。
話は変わるが、村上春樹さんがノーベル賞をとるのとらないのと話題になっていたようだ。ようだ、というのは気にしたこともないからだ。科学分野でのノーベル賞は、なんとなく納得できる物が多いが、文学とか平和賞になるととたんに身を引いてしまう。
川端さんや大江さんがノーベル賞をとってもとらなくても、今から思うとたいしたことでもない、と感じている。
理由は単純で、文学はそんな白日の光のもとで話題になるような代物ではないとおもっているからだ。もともと清く正しい文学なんてーのは、嘘嘘しい。
だからノーベル文学賞をとってマスメディアで多くの人たちに再発見されるということは、~、ということだな。
~まあ、佳かろう。そんなことを書く必要もない。ただ、一言。村上春樹さんは世界に参加しない方がよいと考えた。
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