小説木幡記:2010/09/24(金)大津事件と尖閣諸島、テロやヤクザに屈する祖国
1891年、明治も24年に滋賀県大津市で、ロシア帝国皇太子ニコライが、警備の警察官に斬りつけられ負傷した。この事件に関して、日本国内は強国ロシアの反発を怖れた。当然政府は松方正義首相や山田顕義司法大臣が、大審院(現・最高裁判所)に、犯人の巡査・津田の死刑を要求、圧力を加えた。で、当時の司法はそれをルール無視とし、死刑を適用せず、無期懲役とした。
法は守らないと国が成り立たない。法治国家が現代の国としてお互いにつきあえる最低条件といえる。
明治時代の司法は、たとえ相手がVIPでも傷害罪では死刑にできないと、ルールにしたがった。
いまさら三権分立とか、司法への干渉とか専門的な言葉は使わない。要するに、この世は複雑だから、国内であれ国際であれ、一定のルールがあって、そのルールを踏みにじるのはヤクザかテロの手口でしかない。日本国は昔、よど号ハイジャック事件で超法規的な裁定を使ったことがあるが、これはルール無視であって、よほどの理由がないかぎりしてはいけない。当たり前のことだ。
尖閣諸島の船の追突事件で隣国の船長が公務執行妨害で逮捕された。妥当である。
この船長を無罪放免としたこのたびの裁定につき、那覇地方検察の発表では「国内外の状況を考えて」とのことだった。早まったことをしたと思った。首相や法務大臣の、指揮権による釈放ではないとのニュースではあったが、指揮権があったなら首相や法務大臣は後日に、国民の審判を選挙で仰ぐことになり、わかりやすい。検察が単独で行ったことならば、どういう法律の解釈からそうしたのかを、もっと詳しく説明していく必要があるだろう。後者は何年かかっても、無理だと余は想像している。
要するに、日本の検察庁は、斃れたのだろう。国家として司法が斃れるのは悲劇である。今後は、ヤクザの恫喝、群小テロの恫喝にも、日本は警察権もなにもかもが、時と場合に応じて屈していき、立ちゆかなくなる。当然、諸外国からの恫喝には、法も正義も後にするのだろう。
そういうことがなんなのかを、識者や政治家はわかっているのだろうか。本当に、本当に知っているのだろうか、歴史を。
歴史をひもとけば、それがどうなっていくかは、中学生でも理解できる。
悲劇である。
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コメント
『小説木幡記:2010/09/24(金)大津事件と尖閣諸島、テロやヤクザに屈する祖国』を拝見しました。
全くおっしゃるとおりだと思います。
1891年の大津事件の時には、児島惟謙という人物がいましたが、今の日本にはあのような気概をもった人物はいないのでしょうか。
もっとも、それもこれも全て突き詰めれば、私達国民のせいなのだと思います。
「有名人だから」とか「ルックスがいいから」とか「面白そうだから」といった軽薄な根拠で政治家を選んでしまう、そうやって選ばれた政治家は、気骨のある仕事などできない、結果、こうした状況で毅然とした対応がとれない、ということなのでしょう。
これから、何年かかってでも「臥薪嘗胆」の気構えで国家の再建に取り組むべきだと思います。
投稿: 砂押 英文 | 2010年9月25日 (土) 14時08分
砂押さん、はじめまして。
私は政治的な感性が鈍く、訓練も受けてはいないのですが、人生の中で何かを決定する経験は毎度やってきました。しかしそれはほとんど私的なことです。
で、首相とか閣僚は、国全体のことを決定していくことが多いのですから、カッコウ付けや頭のよしあしだけでは務まらないことが多いと思います。重大な決定をするときは一人だし、根性とカリスマ性がないと暗黒の向こうに何も見えないでしょうね。
というわけで、私の記事は検察批判に写ったかもしれませんが、むしろ政治家、さらに、世相がおかしいのだという意味で砂押さんと似た感覚です。
なんとなく、経済交流とか招待渡航とかレアメタル騒動とか、そういうところに目が行きがちな世相もとんでもなく不審です。「利」は百年の後の利を見つめないと、まともな商売もできないと思ったしだいです。
投稿: Mu | 2010年9月25日 (土) 15時23分