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2010年9月29日 (水)

小説木幡記:2010/09/29(水)九月も終わりだな:ジェネリック医薬品

Muimg_1371 今朝宇治市の気温は22度cと出ていた。これはおそらくWindows7のサービスで、PC画面にいろいろな小技(ギミックかな)を見せるうちの、msn天気予報によるものだ。一昨日掲載した「室温」は、自宅の温度計によるものだ。
 こういう細部の説明を早朝からしているのは、それが気になったからにすぎない。

 昨日は伏見の医院に行って、薬を一ヶ月分もらった。血圧が低いと言われて、多くの人が血圧を自分で測ってメモしている話になった。一万円程度の血圧計、それも腕で計る普通のが佳いでしょう、ということになった。医師の机上にはなにやらディジタルなマシンマシンした血圧計があったが、これはプロ級のもので、高く付きそうだ。

 で、106と69と出た。
 実は、自分の血圧がどうなのか、何度聞いてもよく分からない。昔は一度も高いとも低いとも言われなかった。昨年「高い」と言われて、あれこれ処置した。昨日は低いと言われた。しかし実のところ、どう高く、どう低いのかは分からなかった。

 葛野で、秘書さん達と話していたら、彼女らはみんな上が100に満たないらしい。一瞬「低血圧?」と思ったが、それでずっと普通らしい。だから余が彼女らと同じ血圧になったのは、変と言えば変だな。医師の話では、高血圧に比べると危険は少ないが、立ちくらみなどでよろける危険性はあるらしい。そういえば、昨日帰路、四条京阪のホームではよろけないように、そして後ろから押されて転落しないように、足を踏ん張って緊張して電車をまっていた。この時、血圧を測ればきっと高くなっていたことだろう!cat

 あ、秘書さんの一人がジェネリック医薬品の情報をくれた。余が最近ぶつぶつと愚痴を言っていたからだ。要するに毎月6千円程度の薬代が必要で、家計を逼迫させておる。
 一日5錠あるから、一錠あたり40円にもなる。タバコ代よりも高いかな? 一度医師に「毎日5錠もいろいろ飲むのは嫌だ」と言ったら、「もう少し我慢してください」と言われた。~。
 それで、ジェネリック医薬品だな。
 うむうむ。
 再考しよう。
 とりあえず、秘書さんに印刷物をもらって読んだ。別途サイトをさっき確認した。
 というわけで、若い頃に比べて、必要とする情報が随分変化してきたことに、苦笑いしておる、ぞ。

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2010年9月28日 (火)

小説木幡記:2010/09/28(火)昨夕の強い雨:現代の存在証明「実印」

Muimg_11891_2 昨日京都は午後から雨になって、帰路7時頃には雨足が強くなっていた。珍しいこともあるものだ、……。しかし例年秋の台風にはこの程度ではすまない。
 と、雨の話だからそこまでだ。今朝は降っていない。

 今朝は「実印」とか「契約保証人」ということをかたづける予定だったので、早朝から書類を眺めていた。江戸の賃貸契約料、月々の賃料は高額だなと思った。しかし保証人になる余の職責とか年収欄はなかった。余の名前と住所と実印なるものがそろえば、立派に保証人になるのだと気付いた。サインで済ませる風潮がなくて、「印」を使うのはメソポタミア、シュメールの粘土に回転させた円筒印章以来の伝統だろうか、あるいは中国三千年の皇帝御璽の風に染まった習なのだろうか、……。

 それにしても。
 住所と名前と印。これが現代日本人の存在証明・神器なのかもしれない。住所と名前とは戸籍と関連するのだろうか。先頃、養子縁組を繰り返して別人になったふりをして、保険金を盗むという、本籍とか戸籍の改竄悪用が問題になっておったが、少なくとも普通人にとっては「住所、氏名、印、自宅電話番号」があれば、「生きている」と見なされるのだろう。

 自宅電話番号は20代や30代だと携帯電話番号に置き換えられているはずだ。
 最後までわからないのが「実印」だ。
 実印って、何なのだろう? 
 市役所はこの証明手数料で職員のボーナスをまかなっているような、そんな気がした(笑)。部屋を借りるのに実印? それだけ印鑑証明が国内を乱舞すれば、御利益も薄くなるなぁ。

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2010年9月26日 (日)

NHK龍馬伝(39)馬関の奇跡:大政奉還の夢

承前:NHK龍馬伝(38)霧島の誓い:降臨神話

 今夜は第四章、つまり最終章の始まりでした。全部で10回分あるようです。大邸宅に住まいする岩崎弥太郎が新聞記者に「龍馬を格好良く描きすぎだ!」と罵声を浴びせています。落ちぶれたグラバーも書生のような雰囲気でそばに立っていました。三菱財閥の創世時代だったのでしょう。

 さて。
 ところが、私は岩崎が過去を語る場面になると、どうしてなのか涙腺が緩くなるのです。今夜も、龍馬をなじってやまない弥太郎を老いた母親がしかりつけます。「あなたは、昔の龍馬に義理がある。あなたは、なぜ龍馬が殺されていったかを、きちんと伝える義務がある」と、そういう内容でした。それを聞いた弥太郎は我をわすれて咆哮します。心の底からわき上がる叫び声でした。

 ドラマだから、全てをセリフで説明してはいません。なぜ弥太郎が長く長く叫び続けたのか、理由はセリフではわかりません。またそんなことをしたら底の薄いドラマになってしまうでしょう。私が不覚にも落涙したのは、弥太郎の母親の言葉でした。そう、岩崎弥太郎だけじゃなくて、薩摩も長州も土佐も、そう日本も、龍馬に義理があります。その義理は深く、明治維新を成し遂げるために多くの関係者達が龍馬を生け贄にした可能性すらあります。維新政府樹立が確認されたとき、よってたかって龍馬を捧げ物にしたような幕末史でした。

 龍馬伝の関係者(総合、演出、脚本……)達も、近世と近現代との狭間に坂本龍馬という男が生け贄として捧げられた、というような感覚でドラマを作っている気になってきました。
 そしてそういう絵柄が、現在の私にはものすごくわかりやすく、悲しく、切々と胸に迫る模様にみえるから、だから涙してしまうのでしょう。

 というわけで。
 あっという間に終了しました。
 幕府軍が門司で破れたのは、平氏が義経に敗れたのとは少し違いがあります。ふうてんさんが先週あたりコメントくれたのですが、ようするに長州は背水の陣、幕府軍は烏合の衆、そういうことだったのでしょう。小倉の小笠原家の名前はでなかったようですが、この敗戦、小倉城炎上はいささか評判をおとしたようです。

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小説木幡記:日曜の秋と希望(笑)

Muimg_1323 秋だなぁ。今朝室温26度c、湿度が48%だった。日々最盛期の夏には36度前後が常温だった。二週間程度で10度も気温が変化すると、別国に移った気分になる。

 ようやく読書にも手を付け出した。真夏の読書に比べて自然な気持ちが生まれる。夏は克己心とともにページをめくるが、昨夕や今朝は、茶を飲むように読書し始めた。
 ふつふつと日曜作家への復帰心がたかまって来た。
 う~む。

 江田島関係図書を数冊引っ張り出してきて、じっと眺めた。海軍兵学校がことのほか気になりだしたからだ。英語教師ブロックの書いた江田島、豊田穣の江田島教育、~まさか今から大学教育に兵学校を模する気持ちもないが(笑)。江田島町史が古代から現代まであって内容豊かだ。
 そうそう呉の大和ミュージアム。おお、大和!

 そこで暗転。
 ああそうだ。
 平城宮跡の残りをまだ見ていない。四方八方関西一円行って置くべきところがたくさんあるが、授業が忙しい脳。
 ようやく体重が2キロ減で、今春以来6キロ増加した分が、4キロ増加にとどまった。この4キロを減量することで、心身はさらに軽快になる。減量のコツは一般常識(足し算と引き算)や、ふうてんさんのアドバイスもあって、昼食を減らし間食を控えたからだ。
 漫歩メータは意外にも、夏季中の2週間(3日間ずつ)の集中授業の間中、日々6~8千歩を確保した。自動車で行き来し、朝から晩まで教室内に居ただけなのに、不思議だ。熊のように工作室をうろうろ歩き回っておった。ちなみに、天橋立研修旅行は一日で1万2千歩あった。旅行すると万歩は軽いな。

 要するに、日々万歩とまでも行かずとも五千歩以上歩き、日々1600Kカロリーに抑えれば、禁煙増加体重はどんどん減っていく。禁煙も減量も、いまやなんのストレスも感じない。

 ところで、長生きしてなんとする?
 山のように読書して、日曜物語を作って、旅行や散歩をして、うまいものを食べて、鉄道模型を完全人工知能ロボット化して、二階建て図書館列車を走らせよう。それをすべて「年金生活者」の収入でできるかどうか不安だなぁ。
 読書したければ、自分の古い蔵書や作品を読めばよい。無料じゃ。
 これからはPCだって、中古3台分のパーツで1台を作るくらいの技術を持たないといかぬな。OSは当然無料のLinuxじゃ。鉄道模型の二階建てやトロッコ図書館列車も、ボール紙で作る練習も必要だ。ボンドがなければ、米粒を練ってノリにしよう。紙粘土なんかは、古新聞をちぎってノリで煮詰めればよい。色がなくなれば、花を摘んで色素を抽出しよう(なんとなく、手間隙がかかりそうな将来じゃ)。
 今から、毎日500円貯金しよう。

 なかなか忙しそうだ。
 貧乏暇なし。
 ふむ。

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2010年9月25日 (土)

鉄道模型のPC制御:(04)JMRIの設定(MacBook)

承前:鉄道模型のPC制御:(03)赤い箱・DP1と731系DCCフレンドリー車(KATO)

04-00 DCCとJMRIについて
 JMRIとは、Javaというコンピュータ言語を使った、鉄道模型をコンピュータ制御するためのインターフェースである。具体的には、DCC:Digital Command Control という世界的な規格・方式にそって作られた鉄道模型(電車や機関車)を、プログラムによって自動運行したり、あるいは手動で自由に動かすことができる。これまでの方式(アナログ方式)で、そういうことが全くできなかったわけではないが、DCC方式ではコンピュータ制御と操作の記憶(プログラマブル)によって、自然で奥の深いシステムが生まれてきた。

 鉄道模型をDCC方式によって動かすのは世界的には随分進んでいるようだ(日本は若干遅れている)。しかし、それをプログラムによって自動制御するのはハードウェアの面と、ソフトウェアの面とで、一般化は遅れている。ハードウェアの面では、動き回る列車の位置情報を適切に把握することが難しく、ロボットに比べて目や耳のセンサーを搭載する事例が少ない。ソフトウェアの面では、利用者人口が少ないことも影響して適切な導入事例が少ないので、個々が自動制御を自由自在にできるまでのアプリケーション利用や、開発言語による人工知能的自動化システムの構築は難しい状態といえる。

 今回は、日本でKATO社のサービスによって普及している米国デジトラック社のDCCハードウェア(DCS50KとPR3)を通して、DCC化したHO車両をJMRIの提供する制御画面(スロットル)によって操作する実験をまとめておく。後日には、JMRI本来の能力を使って、プログラミング=スクリプト(台本)による自動走行に関するまとめを予定している。

04-01 JMRIの制御=スロットル画面
Jmri1065kidou

 この写真はMacBookでの実験で、画面下にJMRIのPanelProタイトルがあり、上部には二つのスロットル(制御板)が並んでいる。
 タイトルによれば、このPanelProは仕様が2.10で(ダウンロードは2010年9月)、DigitraxLoconetという通信方式によるPR3というUSBタイプの周辺装置によって、MacBookとDCS50K本体(DCCシステム主要ハードウェア)とをつなげている。さらに全体を動かすJavaの仕様は1.5.0_22(ja_JP)版(ダウンロードは2010年9月)だと分かる。

 新しいJavaシステムは自動ダウンロードをオンにしているので、時々更新されている。JMRIシステムは以前は別PCでWindowsXP用のをダウンロードしてつかっていたが、今回はMacOSX用のシステムを使うことにした。すべて無料である。

 上部にある二つの制御板(窓か)はスロットルという呼び方をしている。同時操作する動力車の数だけ操作板を画面に展開するのが可能だが、一人で使うには4台くらいが限界かもしれない。左側は、IDが0010番、右側が0065番の機関車で個別に制御できる。ID番号(列車アドレス)は私が以前にDCCの基本システムを入手したとき、2台のHOタイプ機関車に直接、マニュアルに従って命名した。
 (上述で、あえて0010とか0065と4桁表示をしたのは、この制御板に列車アドレスを指示するときに、10とか65とか二桁で入力すると、受け付けないことがあったからである。もともとアドレスを命名したときには、4桁で入力したので、PanelProでは区別しているのかもしれない)

 さて、下部にあるAddressPanelの10番を事例にして簡単に説明する。この操作盤は普通の意味ではプログラマブルではない。一連の操作を記憶するわけでもない。
 左端のタテに細長い区画はスピード制御である。バーを上下させれば変化する。このスロットルを離れて別のスロットルに移ると、離れる直前のスピードや前進・後進、その他機能が維持されている(つまり、別の機関車の操作に移っても、直前の機関車は止まらない)

 上端のFunctionPanelは利用者が一番使用するところだろう。つまり、ベルを鳴らしたり、前照灯や部屋灯を消灯点灯させたり、おおよそ機関車や客車に積み込んだデコーダ(固有のCPU)が持つ機能をすべてここから制御する。今回の私の実験では、実はライトの点滅しかできない(一番安価なデコーダを積んでいるからに過ぎない)

 この写真に現れた機能・方法は、コンピュータ本来のプログラマブルな自動運転は別のこととして、制御板(スロットル)を複数セットし、MacBookに表示し全ての機関車の状況を瞬時に変更できる点で、きわめてディジタルな手法といえる。
 ただし複線レイアウトで2台くらいの動力車程度なら、従来のアナログ方式でパワーパック(制御板)を複数用意すれば似た操作は可能だが、配線などが複雑になる。特に、一本の同一レール上で2台の動力車の方向を逆さまにして、おのおの速度を個別に変更することは、アナログ方式ではできない。

04-02 D101基本セットとPR3(USBインターフェース)
Muimg_6612 写真下部はKATO社で日本語化しているDCCシステムの、D101という基本セットDCS50Kコントローラ(コマンドステーション)である。上部はデジトラック社のPR3という、本来は音源データを扱う機器で、本稿では純粋に「USBインターフェース」として使っているPC接続機である。両者合わせて私が入手したのは、おおよそ2万数千円で、機関車に搭載したデコーダ(固有化CPU)が数千円なので、合計3万円前後が2009~2010年にかけての日本でのDCC実情である。

 実は、PCとデジトラック社のDCC機器(たとえば、DCS50K)を接続するための古典的手法は、MS100という周辺機器を使うのだが、これはRS232C仕様なので現代のノートタイプでは無理だし、さらにUSB変換をするにも転送速度が特殊なので一般に扱いにくいものである。よって私は、PR3「サウンドプログラマ」というタイトルの付く機器を使用した。

 この場合、MacOSXで使うとPR3はドライバーソフトも不要で、実に簡便である。実は、MacOSXの先代版を搭載したMacBookをJMRI実験に使った一番の理由は、このドライバーソフトが不要だと知ったからである。
(WinXPだと、他の類似アプリケーションと、なにかとコンフリクトが生じている~気がするaries
 なお、初心の場合{DCS50K+PR3+レール}の結線がわかりにくいと思うが、それはJMRIの適切な図版を確認すれば確実である。(JMRI Hardware Guide: Connecting to a Digitrax PR3)

04-03 DCC化したHO機関車
Muimg_6615 写真の機関車は2008年ころに入手したHOのDE10ディーゼル機関車(上部)と、EF65電気機関車(下部)である。
 小さな貨物車のようなものはヨ8000(KATO社記事)という車掌車の一種で、図書館列車の「司書室車」として最適と考えている。
 この三種類の列車はKATO社HO製品だが、いろいろな点で好ましく、愛用している。
 KATO・HOタイプのDE10もEF65も、箱にはなにも書いていないがともにDCC化が即効でできる。もっとも簡単なDCCフレンドリー車といえる。屋根をはずせば受け口があって、そこにピン付きのデコーダを差し込むだけで完了。デコーダは廉価版で十分だが、3000円弱でデジトラック社のDZ125PSを使った。末尾のPSにピン付きの意味がある。
 私は、実はこの単純なDCC化を知らなかった。たくさんの情報をネットや雑誌で目にしたが、ふたをあけて差し込むだけで完了。なのに、箱にもどこにもDCC化情報がない! というわけで、ある種の不思議な雰囲気が現代の日本・鉄道模型DCC世界の状況である。

04-04 JMRIの初期設定 
Jmridccpreface 初期設定を記事の末尾に持ってきたのは、WinXPの時も今回のMAcOSXの時も多少混乱したからである。最初から混乱した状況を記すのはよくないと考えたcat
 最初に機器類をセットして、JMRIのPanelProを起動し、次に「初期設定=Preferences」を見つけ指定すると初期設定の画面が出てくる。

 ここでLocoNetというのは、ディジトラック社が共通して採用している機器間の通信プロトコル(規則)名である。このプロトコルをJMRIに知らせるわけだ。つまり、利用者はどういう会社のどういうインターフェースでPCやDCCを接続したいのかをJMRIシステムに通知する必要がある。原則として一度済ませれば、他に特殊なことが必要ない限り、開けることは少ない。

 最初にDCCシステムの会社名を入れる。Digitrax社。
 次にどういう周辺装置を使うかを入れる。LocoNet PR3というUSB接続機器と入力する。
 Serial Portは、私のMacBookではこの「/dev/tty.usbmodem1d11」でうまく行った。通信が成功するまでリスト内容を試してみた!
 次のDCS50(Zephyr)とは、日本のKATO社サービスならば、DCS50Kというコマンドステーションが該当する。話が逆で、DCS50Kを使っているから、JMRIではDCS50を指定すればよいとなる。
 次のConnectionPrefixは最初からLなので、そのままにしておいた。
 これを「保存」すると、通信の成功不成功が知らされる。不成功が続くようならば、しっかり調査するのと同じく、別のPCでWinXPなどに変えて試してももよいだろう。

04-05 まとめ 
Muimg_6616 JMRIは初心者にとってはとっつきにくいという評判がある。まだ使いこなしていないのでよくわからない点も多いが、おそらくそれはプログラミングが重視されているのも理由の一つだと思う。
 私がJMRIを気に入ったのは、ホームページが充実し、細かなところまで書き込んであったからだ。もちろん無料なのもよかった。さらに、WindowsもMacOSもLinuxも、共通して使えるという点で安心感を持った。
 
 写真は2008年製のMacBook上でJMRIが動いている実姿である。以前はデスクトップのWinXPで試していたが、レイアウトとの距離が不自由になり、Macに変更した。その間にwinノートPCもあったのだが、これが他のアプリケーションと競合して動かず、あきらめた。ワープロのような普及度のあるソフトウェアではないので、いろいろ不備もあるのだろう(笑)。どこに原因があるのかわからないが、うまく行かないときは、最近はまるっきり別のことを試すことが多くなった。

 しかし今回記事はやっとスロットル(車種や速度や方向を制御する)にたどり着いただけで、これからは独自パネル(パネル模様のギャラリーがあった)を作ったり、スクリプトを書いたりと盛りだくさんの試みが待っている。また折々に記事を掲載する予定だ。

参考サイト
  JMRI Hardware Guide: Connecting to a Digitrax PR3
  JMRI Install Guide: Mac OS X
  JMRIを導入:JMRIを使う DCS50K+MS100
  Python初心者のNゲージ自動制御に挑戦:DCC制御ソフトJMRIでPhthonスクリプトを勉強中

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2010年9月24日 (金)

小説木幡記:2010/09/24(金)大津事件と尖閣諸島、テロやヤクザに屈する祖国

Muimg_1204 1891年、明治も24年に滋賀県大津市で、ロシア帝国皇太子ニコライが、警備の警察官に斬りつけられ負傷した。この事件に関して、日本国内は強国ロシアの反発を怖れた。当然政府は松方正義首相や山田顕義司法大臣が、大審院(現・最高裁判所)に、犯人の巡査・津田の死刑を要求、圧力を加えた。で、当時の司法はそれをルール無視とし、死刑を適用せず、無期懲役とした。

 法は守らないと国が成り立たない。法治国家が現代の国としてお互いにつきあえる最低条件といえる。
 明治時代の司法は、たとえ相手がVIPでも傷害罪では死刑にできないと、ルールにしたがった。 

 いまさら三権分立とか、司法への干渉とか専門的な言葉は使わない。要するに、この世は複雑だから、国内であれ国際であれ、一定のルールがあって、そのルールを踏みにじるのはヤクザかテロの手口でしかない。日本国は昔、よど号ハイジャック事件で超法規的な裁定を使ったことがあるが、これはルール無視であって、よほどの理由がないかぎりしてはいけない。当たり前のことだ。

 尖閣諸島の船の追突事件で隣国の船長が公務執行妨害で逮捕された。妥当である。
 この船長を無罪放免としたこのたびの裁定につき、那覇地方検察の発表では「国内外の状況を考えて」とのことだった。早まったことをしたと思った。首相や法務大臣の、指揮権による釈放ではないとのニュースではあったが、指揮権があったなら首相や法務大臣は後日に、国民の審判を選挙で仰ぐことになり、わかりやすい。検察が単独で行ったことならば、どういう法律の解釈からそうしたのかを、もっと詳しく説明していく必要があるだろう。後者は何年かかっても、無理だと余は想像している。
 要するに、日本の検察庁は、斃れたのだろう。国家として司法が斃れるのは悲劇である。今後は、ヤクザの恫喝、群小テロの恫喝にも、日本は警察権もなにもかもが、時と場合に応じて屈していき、立ちゆかなくなる。当然、諸外国からの恫喝には、法も正義も後にするのだろう。

 そういうことがなんなのかを、識者や政治家はわかっているのだろうか。本当に、本当に知っているのだろうか、歴史を。
 歴史をひもとけば、それがどうなっていくかは、中学生でも理解できる。
 悲劇である。

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小説木幡記:2010/09/24(金)月例会

Muyaimg_4121 このごろずっと葛野図書倶楽部2001系の行事が重なる。昨夜は2002~2003~2004の混成ご隠居達による「食事会」があった。余はてっきり婚約発表と思って出かけたら、小声で「その件は後日に正式に」ということで、粛々と食が進んだ(笑)。しかし、そのお店が驚天動地の店だった。まず、ビルの谷間の細い路地にある。その通りにはネオンも商店もレストランも何もない。ただし、京都のビジネス街のど真ん中である。

 店には看板、表札、暖簾、それら一切がなく、ただ「営業中」という札がかかっているだけだった。結論を言うと一階、二階とも満員だった。高齢者とまでは言わないが、社会人が中心だった。カップルも30歳前後、家族ずれ、ともかく一杯で、われら一行も17:30~19:20までの時間予約だった。

 出される料理すべてが、余のメガネにかなった、と言うよりも「他の店なら、この料理一品だけで外に出ないと、財布が空になる」と、そういうのが次々と出てきた。量、味、ビッグだった。そしてコースは2610円。みなみなそこそこ飲んで、恵比寿ビールも、日本酒・冷酒も升にとろとろとこぼして、一人一式~3000円ですんだ。信じられないほどの、費用対効果だったのう。

 もしかしたら昨夜のお店は、ボランティアなのか。
 社会奉仕なのか~。
 京都も、まだまだ何があるか分からない。底が深い。そう思った。

 で、今朝は現役・倶楽部の後期月例会だった。全員が8:50に屯所到着した。節目だったので余も参加して、演説した。書記がぼやくくらいに長い演説だったようだ。
 約、30分かな。
 で、会議全体は1時間ほどで済み、数名が昼食のケンタを買い出しに出、残りは機関誌・Truthの印刷に入った。人事変更で新・副長になった人に聞いたところ、もしかしたら明日までかかるかもしれないとのことだった。延々と夕方まで続くらしい。
 ケンタを皆で食べる前に、全員で1Fに行き、秘書さん達4人に挨拶した。新人が多いので、顔あわせと言うところだ。食事のあと、局長は所用で帰省していった。忙しいことだ。

 いよいよ秋だ。
 後期が始まる。がんばって、いきまっしょ!

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2010年9月23日 (木)

小説木幡記:2010/09/23(木:秋分の日)慈雨

Muisiisiimg_1330_2 今朝、まぶたの奥が白く光ったので目を開けた。5:40だった。しばらくして雷鳴があった。時間から見て4kmほど離れた雷だった。この夏は午前3時ころに目を開けて、なにかと手を動かしていたが、今朝は6時前と目覚めがゆるくなった。一昨日の火曜日に夏期論文を提出し、気持ちが落ち着いたのだろう。

 昨日は会議日だった。会議の流れの中で罵倒を受け、組織内生涯で5本の指にはいるかもしれない屈辱感に打ちのめされたが、夏期論文の重圧に比べると一過的なものだ。研究・教育者にとって研究は必須だが、その重圧は睡眠時間が一挙に数時間変化するほどに、しんどいものだ。それに比べれば、罵倒された翌朝、「よく眠れた」と言えたのだから、まずまずだなcat

 昨日は、市内で葛野図書倶楽部2001の遅くなった納涼会があった。幹事は書記局長2010と新人の経理局員だった。問題なく懇親がすぎた。今年は夏前に5名の3年生新人がはいり、昨夜は新人全員が参加した。異様な盛り上がりに、余は「怖く」なった。余は日頃怪力乱心になじまず、会議などでも無口を通し、研究室で穏やかに論文を書き、書をひもとき、ときどき別室で三次元立体(ジオラマ)による「図書館のある情景」を作る程度なので、あまりにノリのはげしいエネルギーの乱舞を眼前に見ると、恐怖感に打ちのめされる~。幸にして両隣の局長と書記局長、ならびに眼前の編集局長は、静かで穏やかな安定度の高い青年達なので、余は小康を得た。

 さて最近の快挙は、夏期論文完成だけではなく、MacBookによるJMRI(a Jave Model Railroad Interface )の制御だった。これは、今度は写真をとって独立記事の用意を始めたので、後日に公開する。要するに、DCC(鉄道模型のディジタル制御)をPCで操作することの、比較的重要な技術要素の最初の山をなんとか乗り越えたという(自己内)快挙があったわけだ。しかもMacで達成できたことが楽しい。ただ、余の個人的修練の低さもあって、以前の「Macでubuntu」に比べると、複雑で難しいことだった~、いやMacで動かすのが難しいのじゃなくて、JMRIという未知のアプリケーションが多少とっつきにくい要素を秘めていると言うことだろう。

 今朝雷鳴を聞いて起床し、窓の外を眺めると、雨だった。慈雨という思いがした。ようやく旱天(かんてん)の季節が過ぎて、人の住みやすい時期になったようだ。なんだか、心身が蘇った。

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2010年9月21日 (火)

天橋立研修旅行20100909(2)天橋立{文殊堂、阿蘇海、籠神社、傘松公園}

承前:天橋立研修旅行20100909(1)京都→天橋立:タンゴ浪漫1号

2 天橋立周辺観光
 私が数年前に天橋立へ行ったときは(茶六別館:MuBlog)、往復を自動車にして、温泉につかって美味しいものをいただいて~が中心でした。勿論傘松公園には登りましたし、麓の籠神社(このじんじゃ)もじっくり参詣しました。
 今回は、JR天橋立駅からすぐの智恩寺・文殊堂でおみくじを開いて、船に乗って対岸に渡って、籠神社、傘松公園、そして資料館と続いたわけです。幾分丁寧に周辺を観察した研修旅行でした。

2.1 文殊堂
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 智恩寺のことをもっと詳しく知ろうと思いましたが、紀行文としては「知恵の文殊さま」ほどでよいと思い、調べを中断しました。ただ、国宝の「紙本墨画淡彩天橋立図/雪舟筆」には当時(中世室町時代)の天橋立が詳しく描き込まれていて、そこに智恩寺や、対岸の籠(この)神社が記されていると、方々の記事で確認しました。ちなみに、雪舟の天橋立図は最初籠神社に納められたという話を知ったときには、意外な感がしました。要するに、その後流失し、現在は京都国立博物館に所蔵されたという流転があったわけです。

 さて。かねがね思っていたのですが、女性の信心深さは一方で占いに凝りすぎたり、淫祠邪教にはまり込んだりと佳くない面もあるわけですが、他方、彼女たちの心の深さによって宗教心とか情操が長い年月をもって育まれてきたのも事実です。それなくして高くて深い文明、文化はうまれなかったと思っています。
 私は遠くから眺めていたのですが、本当に熱心に文殊堂で手を合わせ、近くでいそいそとおみくじを開いて一喜一憂しておりました。そのひとつひとつの表情や、遊覧船がでる時刻のぎりぎりまで堂内や境内を離れなかった隊員達の深層心に、私はいたく感動したのでした。

2.2 観光船のりば
06funenoriba

 幹事や局長が皆と離れて別行動にでたことを私はめざとく見つけました。実は私もひとりで別の動きをしていたのです。そうです、行き先は「船のりば」でした。幹事達と私の思いは同じだったようです。というのも、私の場合今回の研修旅行の付録として、船で宮津湾・阿蘇海を渡海することが楽しみだったのです。船は大抵時間が決まっています。だから、幹事や局長はリーダーとして、最初に観光船のりばを探したということです。

2.3 阿蘇海の渡海
07funenoue 観光船乗り場からは、知恵の輪や旋回橋が見えましたが、幹事達の作った旅の栞には詳細が無かったので(笑)、無視したことになりました。ただし両者とも、幼児期の記憶にうっすらと残っていました。特に旋回橋を見下ろす旅館に泊まった記憶まであります~。そこでオジから、「橋と箸」のアクセントがおかしいと、矯正されたことまで覚えています。
 幼稚園前後だと思います。

 観光船にはわずかに10数分の乗船でしたが、全員楽しんだようです。笑顔で一杯でした。青空と蒼い海と、気温がそこそこで風もあって、気持ちのよいクルージングでした。
 全員上甲板に上がったままでした。
 ただ、ふと気付くと一人足りないので、船室を覗くと、幹事さんがたった一人で経理作業をしていました。なかなかに、うむ、ふむ、の思いで一杯になりました。

2.4 籠(この)神社の水琴窟
08kono

 この、籠神社はなかなかに由緒来歴が深く広く、数年前に訪れた時以来、多くの資料を集めたので、まとめようと思ったのですが、そのままになってしまいました。今回もいろいろ考えていると頭が痛くなったので、適切に話を打ち切ります。要するに、海部氏(あまべし)系図という国宝があるのです。古い古い話なのです(笑)。伊勢神宮の元々の神社ですから、崇神~垂仁天皇と、ヤマトタケルが活躍したころの世界から始まっていて、気の遠くなるような世界です。

 で、境内に水琴窟(すいきんくつ)があって、新人さんが耳を当てて聞いていました。私も耳を澄ませて聞きました。「と、っぴん」と小さな音がしていました。もちろんこの擬音表示は写真の隊員さんに再確認するなら、「いえいえ、ぱっぷん、でしたよ」と言われるかもしれないので、黙っておきます。
 少し調べましたが、籠神社ではこの水琴窟に関する詳しい話は得られませんでした。作庭の仕様のひとつと思っておきます。

2.5 傘松公園ケーブルカー
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 傘松公園が籠神社の裏手の山上にあって、その登り口の府中駅には徒歩すぐで着きます。山上の傘松駅とはケーブルカーかリフトで行き来するわけです。どちらに乗っても往復で700円前後でした。私も含め、一行の登りはたぶん全員がケーブルカーだったはずです。
 しかしケーブルカーを考えた人は工夫したものですね。大体の山の斜面角度に合わせて車体も斜めに作るわけでしょう? 実に面白い考えです。

 傘松駅に着くとさっそくみんなは股覗きや散歩、写真撮影にかかりきりになりました。私も数名と「かわらけ」投げを試してみましたが、だめでしたね。飛ばずにすぐに落ちました。
 そのころでした、携帯に連絡が入ったのは。
 「いま、リフトに乗っています。もうすぐ着きます!」と。謎の書記局長2010がついに姿を現すことになりましたleo

2.6 昼食:海の幸と現地集合
10hiru もう午後1時まえだったでしょうか、随分空腹でした。幹事に引き連れられてレストランに入りました。「最高で1300円までですよ」と、釘を刺されました。しかし最初は「千円までで」との事だったので、なにかとゆとりができたのでしょうか。
 後日のために結論を記すと、うどんなんかを食べた隊員は「?」でした。海鮮丼系の人たちは、私も含めて「おお、すばらしい!」でした。なんというか、天橋立に来てまでうどんを食べる必要はなさそうです。

 ところが。
 その頃無事にレストランに着いたミステリアス書記局長は、局長と二人で別席に座って、窺い見るとなんと「とんかつ定食!」でした。あははは。いろいろ、好き好きですねぇ。

 ところで。
 今、写真を見ていて気付きました。大型観光バスが写っています。ということは、ケーブルカーやリフト、徒歩以外にバスが走る登山道もあるようですね。ふむふむ。

2.7 リフトからの眺望
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 帰路はほぼリフトで降りました。新人の経理局員さんがケーブルカーに乗ったという記憶があります。少なくとも、リフトで降りた一行は、みんな(3人しか写っていませんが)笑顔がよいです。今回の旅は、この笑顔だけでも百点! でした。
 まだまだ旅は続きます。

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参考
  天橋立 智恩寺
  丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)
  雪舟筆 天橋立図(籠神社)

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2010年9月20日 (月)

小説木幡記:2010/09/20(月)祝日のご隠居さん

Muyoimg_1991_1 今日は老人の日、敬老の日だったが、夏期論文の仕上げ一歩手前のために、葛野に早朝7時に着いた。研究棟の玄関は開いていた。
 うちの学園は、みんな早起きのようだ。
 で、仕上げの一歩手前が完了したのは、実は17:10頃だった。人間とは、そういうものだ。帰り際にやっと完成。それまではぐずぐずだらだらと、~JMRI(鉄道の自動運転)とかPCの調整とか、校正とかのろのろとやっておった。

 まず木幡から持ち込んだ「島図書館モデル」を1人で工作室まで運んだ。ジオラマ自体は60x70の小振りだが、セットしていた複雑怪奇な三層地下有り、海有り、丘アリ、温泉有りのレールやポイントセット、さらに電源や自動運転装置を取り外して、別袋に入れたら、結構重かった。ジオラマを運んだのは、後日に石膏や色付けをして、そろそろ完成させるつもりだ。おそらく余にとって初めての、3編成の図書館列車をストーリー付きで自動運転するジオラマになるはずだ。
 カテゴリー:島図書館トロッコ列車

 さて、それだけですでに9時だった。一体2時間も何をしていたかというと、学生達12人が先週に作ったジオラマのモジュール(未来の図書館情景)を全部あわせて、運転実験もついでにしていたのだ(笑)

 結論を急ごう。
 昼前に、ご隠居2人が来てくれた。1人は隣県市の公共図書館に勤め、1人は京都市の某所に勤めている中程度に昔のご隠居さんたちだ。実は先週も突然来てくれた。2人とも月曜日は自由がきくらしい。先週と同じく今週も屯所にこもって、対談原稿を書いていた。
 以前に、機関誌Truthで、少々マニアックな別のお二人が対談記事を書いてくれて、とても面白かった。それに気をよくして別のご隠居にも頼んだのは夏期前だった。

 遠方から、わざわざ休暇をつぶして、二人で屯所に来て先週と、今週、記事を書いてくれた。
 余は感動し、涙がちょちょんぎれたぞ。稿料もないので、今週は来ると分かっていたので、近所で昼食をご馳走した。
 ついでに、二人は後でoperaケーキも食べていた。
 三回目は来月になるらしい。一通り対談できたので、あとはメールファイルで相談するようだ。最終まとめにはまた休暇をつぶして来てくれるようだ。
 ありがたい脳~。

 ところで。
 どんな対談なのか、余はまったく分からない。あははcat
 もしかしたら、最高顧問の罪と罰とか、~。
 あるいは、あのとき、あいつはどうしてた、と学生時代の思い出かな?
 楽しみだ。

 ぐずぐずと夏期論文を仕上げている間に、さくさくと対談が進んでいくのだから、葛野図書倶楽部2001とはまことに自立心旺盛な組織なのだ、……。夕方には、御隠居たちも、余もあらかた完成し、笑顔でサイナラできた。

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2010年9月19日 (日)

NHK龍馬伝(38)霧島の誓い:降臨神話

承前:NHK龍馬伝(37):龍馬の妻:一所不在

 今夜は龍馬とお龍とが仲良く霧島の高千穂に登ったのが主でしたが、他方、亀山社中の池内蔵太(いけ・くらた)が難破し死亡、後に残されたお元がかわいそうでした(内蔵太はお元に結婚を申し込み、龍馬への想いに複雑な心境ながらお元は喜んで受け容れました)。あるいは幕府が十数万の兵を率いてついに長州を攻めます。高杉晋作の率いる軍は4千だったとか。イギリス公使パークスは、その前に薩摩と長州とに援助を申し入れました。岩崎弥太郎は、後藤象二郎から藩の商売(長崎で外国との)を任され、通詞にジョン万次郎まで預けてもらいました。

 同時に沢山のことが起こって、龍馬の人生も一直線ではないことがはっきり分かります。特に西郷さんが黒幕的で、たとえば薩長同盟が明確でも、幕府に攻められた長州へすぐに援軍を出そうとはしません。龍馬がいらだつと、「薩摩は江戸城を総攻撃するために軍を出す」と、言います。このことと長州への援軍との話がよく分からないわけですが、つまりは、薩摩も長州も幕府と話し合う余地はゼロになったと言うことでしょうか。

 それにしても、長州はわずかな兵だけで、雲霞のように攻め来る幕府に立ち向かわねばなりません。結果は来週のようですが、今夜のところは長州が苦戦し、薩摩との同盟の御利益も見えません。特に薩摩の小松さんや西郷さんが速攻で長州を支援しない雰囲気にいらいらします。まだまだ徳川には旗本八万騎の威勢があったのでしょうか~そういえば今から70年近くも昔に、日本には関東軍百万という威勢の良さがありましたが意外な内実だったようです。
 ともあれ、このことはくどいようですが、来週に任せましょう。

 私が今夜のドラマで気に入ったのは二点あって、それはたいしたことでは無いともいえますが、印象が深かったです。
 一つは、タイトルの前に、龍馬が桜島を正面にすえた海岸に立つ姿でした。いや、すがたというよりもそのときの音楽が気にいったのです。まるで桜島や薩摩が未知の、恐竜がすんでいるような異世界を思わせる音楽でした(笑)。そしてまた、「どうして、こんな日本の果てに島津藩がいたのだろう?」という疑問でした。いや、九州を始発駅にすると、東京などは本当に日本の端に思えるかもしれませんがねbeer

 もう一つは、高千穂登山とその山の姿と遠く霞む下界と、雲というか霧の情景でした。何十年も登山をしていないので高山の雰囲気を忘れていたのですが、本当に霧島、その温泉、そして高千穂、九州の山は懐が深いですね。桜島とは違った意味で、異世界に思えました。映像ひとつとってみても、今度の龍馬伝は、大サービスをしてくれているな、とふと思った次第です。

追記:ひがごと
 ところで私は相当に愛国者ですが、あれだけつばをまきちらして「日本、日本のために」と龍馬がシャウトすると、少しく気が滅入ってきました。まあ、ドラマですからしかたないですけどねtaurustaurus

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2010年9月17日 (金)

天橋立研修旅行20100909(1)京都→天橋立:タンゴ浪漫1号

承前:長浜研修旅行20090827

1 今夏は日本三景・天橋立
 これまでMuBlogにまとめた倶楽部・研修旅行は、明治村、飛鳥、長浜、平城宮跡と続きました。今春の平城宮跡は、私が入院し参加できなかった行事でした。リベンジの思いで天橋立行きに期待をかけました。
 もともと天橋立は局長2010が一番推していた研修地だったと思います。私は数年前に個人的に温泉を楽しみました。自動車でも京都から日帰りできる地でしたが、今回は鉄道旅行になりました。

 幹事・経理の話では、ひとりあたり1万2千円を徴収し、個人の土産以外は全額そこからだして、なお一人ずつに返金があるとのことでした。だから、往復特急旅行にしては、贅沢な旅ではなかったようです。もちろん、精神的には、非常に豊かなプランだったと、言い添えておきます。

1.1 京都駅から西舞鶴
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 2010年9月9日の早朝に、葛野図書倶楽部2001の面々が京都駅中央改札口に集合しました。副長補佐が突然来られなくなった以外は、予定通りだれも遅れることなく山陰線ホームから、一路西舞鶴まで特急「まいづる1号」に乗りました。顧問の私を含めて、総勢7名+1(現地参加者)の、倶楽部研修旅行2010「天橋立」の始まり始まりぃ~でした。

 参加者は、局長2010、書記局長2010(傘松公園で参加予定・未定)、経理局員、書記局員、二番隊員、三番隊長、三番隊員、最高顧問。

 天候は日本海を通り過ぎた台風9号の翌日にあたり、それまでの酷暑がほんの少し和らいだ好日でした。早朝の京都タワーが青空の中にすっくと気持ち良く伸びていました。幹事二人がよほど、日頃の行いの佳い人たちだからだと、私は感じ入りました。

 なお研修旅行・幹事長は書記局長2010で、事前に念入りに複雑な山陰本線を読み解き最良のスケジュールを作成してくれました。事情で、集合は天橋立を一望する傘松公園でした。京都駅~現地で細かく一行をガイドし経理を担当したのは、三番隊長でした。2010年の三番隊長はまだ三年生ですが昨年の秋に入隊していますので、倶楽部在籍がすでに1年を経過していまして、旅程をてきぱきとこなしてくれました。

1.2 天橋立へ行くのに西舞鶴駅
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 山陰本線には、私は幼稚園に上がる前から縁がありました。福井で仕事をしていた父が事業に失敗し京都市右京区に流れくるまでの通過点として、日本海の高浜とか舞鶴があって、今となっては事情が分からないのですが、末子だった私は両親と一緒にひっきりなしに、山陰線を往復していた記憶があるのです。高浜に住んでいた記憶すらあって、そこで次兄が盲腸炎(虫垂突起炎)で入院したことまで、覚えているのです。

 さておき、ひとつひとつの駅名は記憶に鮮やかにあるのに、なにかしらその駅の関係が飲み込めていなくて、今度の研修旅行で「分かっていなかったな」と、思い知らされた次第です。
 要するに、山陰本線は、巨大な本線であるのに、幹線を形作る特急列車が寄せ集めのようなのです。別に悪い意味じゃなくて、東京・京都間の新幹線! とか、富山へ行くにはサンダーバード! とか。博多は山陽新幹線! という単純な構成ではないようです。

 福知山でしたか綾部でしたか(両駅名とも明確に覚えているのに、関係を思い出せない)、列車が突然二つに分かれて、書記局長2010が選んでくれた私らの列車は、西舞鶴に着いたわけです。片割れの列車がどこへ消えたのかは、謎(笑)でした。また、分岐駅がどこだったのかも、時刻表をみないと思い出せません。
 また、天橋立へ行くのに何故西舞鶴なのかも、当日は分からないままだったのです。本当に複雑怪奇な山陰本線周辺地域だったのです。

1.3 西舞鶴からはタンゴ浪漫号
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 舞鶴といえば引き揚げ船、あるいは旧海軍や現海上自衛隊の軍港。参加倶楽部員の数名が発熱しだしました。特に昨年分類の授業で、「軍艦の分類」班の班長を務め、二位にまで引き上げた二番隊員の目元はうるうるになっておりました。申し遅れましたが、今夏五名の3年生新規入部があったのですが、その大半がこの「軍艦の分類」班メンバーだったのも奇縁でした。

 そこで(西)舞鶴でなぜ特急を降りるのかという疑問をもったまま、私は幹事の三番隊長の後に従ったのですが、結論からいうとこの駅から鈍行に乗って天橋立へ向かったわけです。ところがこの鈍行というのが、とんでもなく風変わりな列車(ディーゼル特急車両?)で、観光列車・タンゴ浪漫号という名称でした。2両編成で入り口は真ん中にしかありませんでした。

 要するに私たちは西舞鶴駅から、「KTR北近畿タンゴ鉄道株式会社」という別会社の路線に乗り換えたわけです。勿論、昔の国鉄と現代のJRとKTRとの関係にふと思いを凝らしましたが、「調べないとわからない」、とあきらめたしだいです。KTRと西日本JRのホームは、別のようでもあり、共同で使っているようでもあり、不思議な構成でした。

1.4 風光明媚:日本海の景色
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 私たち一行は先頭車両に乗りました。空いていたことと、先頭車の仕組みに工夫があって、眺望が開けていました。もちろん座席からの日本海も眼下に碧く夏の海をみせていたのですが、先頭車の開放感がすばらしかったのです。
 末尾の地図でごらんになればすぐに分かるのですが、列車は西舞鶴から宮津方向へ走っていました。途中、500mの長さを持った由良川にかかる鉄橋あたりから、私の浪漫、旅心が熱くなってきたのでした。観光列車ですから、名所旧跡をアナウンスしてくれたり、徐行もサービスしてくれるわけです。この橋(↑写真右上)にかかったとたん、倶楽部員一行は一斉に立ち上がって、デジカメをかかえて先頭部に駆け寄りました(笑)。

 それ以降の、日本海の風景は絶景でした。冬の日本海というイメージが松本清張さんの小説でしっかり植えこまれていたのですが、今度の浪漫号では、「夏の日本海」の鮮烈な風景に圧倒されました。
 すごいです!
 局長は例によってフイルム・一眼レフカメラを持参していましたので、上等なフィルムにこの日本海がどのような色を、発色させたのかを知りたい所です。私の安物のカメラでは、せいぜいこの程度のものでしたcat

1.5 かくして天橋立駅に到着
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 途中みなさん、がんがんと写真をとりながらやがて天橋立駅に着きました。京都駅を8:51に出発し、西舞鶴駅で20分ほど待ち合わせして浪漫号に乗り換えて、天橋立到着は11:27分でした。約2時間半の午前旅でしたが、最初は若い新人達のおしゃべりが面白く、後半は日本海の絶景が美しく、あっというまに到着したというわけでした。

 さて、ミステリアスな書記局長2010と、私たちは傘松公園で出会えるのでしょうか? それは次回以降のお楽しみです。

 ◎→次

参考サイト
  KTR北近畿タンゴ鉄道株式会社
  タンゴ・ディスカバリー(KTR車両)

参考地図

大きな地図で見る
↑北近畿タンゴ宮津線

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2010年9月16日 (木)

小説木幡記:2010/09/16(木)今は晩夏か初秋か、はて?

Simage5331 気付いたら九月も半ばになっていた。残暑というのか晩夏というのか初秋というのか、いつのまにか天の川の季語や芭蕉の俳句と重ね合わせて混乱して、「今は夏? それとも秋?」と、今朝目が覚めたときつぶやいた。
 まだまだ夏期論文は脱稿しないが、昨日同僚の先生と話していたら、一つ目の論文は書けて、今は二つ目を書いているとのことで、「がっくりした」。手が早いというか、頭の回転の速い先生もおられる。

 もう一人別の先生には、式典会場から研究棟までのにわか雨で、傘を頂戴した。体格のよい先生なので(笑)、余は雨に濡れずにすんだ。
 話が前後したが、昨日は大学というか学園の創立70周年記念で終日式典があってのう。
 で、その先生と「言葉」や「文学」の話をしながら歩いたら、あとで、とある公式サイトに掲載されたご自身の記事を知らせてくださった。今朝、払暁にその記事を読んだら、言霊(ことだま)とは日本語に対する自負心の現れであるという意味を再確認し、なぜか気持ちがなごんだ。

 余は、言葉や文学は大切なものだと思っているし、思ってきたし、将来もそうだと感じている。昨今、若い人達が日本文学や外国文学からやや遠ざかっていく現状を見て、余は嘆かわしく思ってきた。その傘を頂戴した先生にも、そう悲憤慷慨、天を仰いでなげいた。

 とくに本気で、熱心に、こころから「日本語教育:国語教育」を幼児期からきっちり教え込まないと大変なことになる、と思っている。いや、もう大変な状態かもしれない。~
 
 さて、というわけで、昨日午後の雨や、ここ数日の天候でようやく気温が30度cを切った。暑いのも寒いのも好きだが、あまりに長く高温が続くと脳がとろける。ようやく、プリン程度の堅さをとりもどしたようだ。うむ、安心。しかしながら今夏、あの暑さの中、心身絶好調でも無かった余が、炎天下の皇居前広場のど真ん中を一人でようまあふらふらと歩いた事よのう。我ながら、乱暴なところも少しあるようじゃ。今は、もう秋。

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2010年9月15日 (水)

小説木幡記:2010/09/15(水)DCC再考

Simg_4538 鉄道模型のDCC:Digital Command Control (デジタル・コマンド・コントロール)についてはカテゴリを設けているし、すでにシリーズ化し始めているテーマなので、しっかり書かねばならぬ、と思いながらも日々気力が弱まっているので、メモとして残す。
 なお気力が萎えている理由は風邪でもないし、心身虚弱でもない。夏期論文がなかなか進まぬからにすぎぬ(笑)。
 写真を掲載すればすぐにわかることだが、それも面倒なので他の写真を載せておく。
 要するに、通称「赤い箱」という制御装置は(今は遠い昔の)タバコ箱半分くらいのものだが、これを現代PCに接続すると威力を発揮する。TOMIXの規格レールには半径177mmという小さな円を構成するものもあり、このレールだとぎりぎり20m級の電車が走る。それと243mm半径とを重ね、直線部分ではTOMIX 電動ポイント N-PX-280:ダブルクロスポイントをはめ込み、小さなエンドレス複線レイアウトを机上に造った。このエンドレス複線レール上で2台のDCC電車をプログラマブルに走らせたわけだ。
 ただそれだけの事だが、疲れが吹き飛んだ。電車が(不完全ではあるが)ロボット化したわけで、操作はすべて隣のPC上から行った。勿論この程度の事なら、複数台の制御機によってアナログ方式でもそれらしく走るわけだが、……。PCの画面上に、201とか731と電車IDを指定して制御する快感には及ばないcat。日本の鉄道模型世界ではDCC化について様々な障害が残っているが、将来を考えるとDCCが望ましい。
 いや、だからこそ、規格外れ(ナローなど)の純粋アナログ仕様による小さなジオラマ・レイアウト走行が最後の砦になるのかもしれないが。iPadの威力をさまざまに味わう昨今、DCC操作と古典的なアナログ操作の関係、そのコントラストが目にしみた。

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2010年9月12日 (日)

小説木幡記:2010/09/12(日)MuBlogを休んでいたような

Smuimg_3820 随分長く筆を折っていたようだな。いろいろあって、神経がそちらへ流れてじっくり文章を書く気力や余力がなかっただけ。そうそう、めずらしく夏風邪も引いた。これは長引くものだ。
 学生達のための「自由講義」情景ジオラマの制作は、先週と今週とに分けて集中授業をしていた。今週分はこれからだ。いずれ記録する。
 今夜はiPadで3D鉄道模型のシミュレーションを確認した。450円でなかなか面白い。ついでに、無料のEpic Citadelを試し、その動きや美しさに感動した。
 結論は、iPadはゲームマシンとしての拡張性や奥の深さでも、出色のものだな(笑)。もう、iPadで読書するなんて野暮なことは止めて、余生をゲームですごそうかとも思ったぞ。
 ではまた。

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NHK龍馬伝(37):龍馬の妻:一所不在

承前:NHK龍馬伝(36)寺田屋騒動:お龍奔る

 今夜の龍馬伝は幾分ほっとした45分間でした。先回があまりに逼迫しすぎていて息が詰まりました。
 で、感想としていくつか。

岩崎弥太郎と後藤象二郎
 後藤は薩長同盟の密約情報を、岩崎弥太郎がどうやって得たかに不審を持ちました。弥太郎は龍馬からだったと白状します。当然後藤は「何故捕らえなかったのか」と怒り出します。岩崎は薩長同盟を仲介したのが龍馬であり、「吉田東洋様は、坂本龍馬を認めておりました!」と言い返すところが、岩崎の変化だと思いました。
 史実では、今後龍馬と後藤象二郎は一種の和解をすることになりますが、どうなのでしょうか。
 岩崎弥太郎は、この前後から、これまでの弥太郎とは変わっていくはずです。それも楽しみです。

龍馬とお龍
 京都の薩摩藩邸で、お龍が龍馬を介抱していました。このごろ、お龍の人選(真木よう子)がベストだったと思うようになりました。きつい目つき、物言い。低いドスのきいた声音。きびきびした動き。ふっと垣間見せる美形の表情、……。なによりも声です。この場合、お龍が脳天から落ちるような声だったら、まるっきり雰囲気が壊れますtaurus

 こういう龍馬のような、瀕死の重傷を負った男を、山のような危険を乗り越えて救出に動き、数週間終夜そばにいて介抱するのは、お龍ほどの気力がないと無理だったと思いました。
 あとで、長崎でお龍が気弱なところを龍馬に見せたとき、龍馬が「お龍でなければならない」という意味のことを言いましたが、納得しました。

お龍と長崎のお元
 亀山社中に呼ばれて、お龍と社中の連中がいる座敷にきたお元は、お龍が「船宿で働いている」と言ったとき、なんとも言えない表情を見せました。楢崎(ならさき)龍の家は医師だったわけですが、おそらくお元が龍馬を内心あきらめていたのは、彼が武士だからでしょう。だから、龍馬が結婚するとしたなら、武家であって、自分のような芸者は、身請けしてもらっても妾(めかけ)であると、割り切っていたと思います。

 この場合、長崎の料亭つとめと、京都の船宿勤めでは、身分に違いはなく、むしろお元からすると船宿は長崎の有名料亭に比べて格落ちすると内心思ったのかもしれません。だから、それなのに、龍馬が船宿のお龍を選んで、お元を選ばなかったのは、お元にとっては悔しいことだったのです。

 ところで、お龍は龍馬にきつい声で言います。「あの人(お元)は、龍馬さんに惚れている」。龍馬はたじたじとします。そして弁解し、あげくのはてに、「お龍でも嫉妬をするのか」と、笑いをとろうとしますが、お龍はさらにきつい声で「当たり前です。女ですから」と、龍馬をにらみつけます。
 このあたりのやりとりは、お約束とはいえ、それでもお龍の物言いと、お元のなめらかさに対比があって、際だって楽しかったですcat

さて
 高杉晋作が今夜も出てきました。
 ただ、彼も維新を見る前に病死したわけですから、私は、さびしい思いになります。高杉さんのことは言及しないで、今夜はこれまで。

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2010年9月 5日 (日)

NHK龍馬伝(36)寺田屋騒動:お龍奔る

承前:NHK龍馬伝(35)薩長同盟ぜよ:合従連衡

0.寺田屋・伏見薩摩屋敷・伏見奉行所
Teradayasatumafusimi 珍しく予習しておきます。
 当時の寺田屋と現在の寺田屋は規模や位置で多少のずれはあるようですが、ほぼ現在の「寺田屋」は当時の寺田屋とおもってよいでしょう。
 で、お龍が助けを求めて奔った薩摩藩屋敷は、真北に約1km弱の位置にありました。深夜、真っ暗な中を奔ったのですから最大20分程度はかかったことでしょう。
 そして、当時の薩摩屋敷から寺田屋までは運河がありました。それは現在も地図に見られる運河と想像しておきます(検証していません)。運河というよりも濠川と言った方が調査しやすいと思います。お龍の話を聞いて、続いて、三吉慎蔵が龍馬の隠れ場所(材木置き場の二階)を知らせ、薩摩の人たちが伏見奉行所捕り方とぶつからないように、伏見の町を移動した情景が、目に浮かびます。奉行所から寺田屋は700mに満たない、近いところでした。
 ところで、龍馬が指を斬られたということは、奉行所の捕り方は、まるで火盗改めのように、抜き身を光らせて、逮捕に生死は不問だったのでしょうか。幕末は、戦国時代に戻っていたのかもしれません。いや、そういうわけでもなく、なにしろ龍馬は午前3時ころの夜明け前の襲撃に、飛び道具を使ったのですから、逮捕に向かった奉行所役人・捕り方たちも命がけだったのでしょう。

1.警護の三吉慎蔵
 さらに。
 長州の桂さんから龍馬に預けられた護衛・三吉慎蔵さんは、宝蔵院流の槍の免許皆伝でしたから、この寺田屋が襲撃された夜、きわどい所で龍馬を守りきったわけです。もし三吉さんが居なければ、龍馬は出血多量のまま翌朝死亡するか、あるいは伏見奉行所に捕縛され、拷問を受け、投獄されていたはずです。

 ドラマを見る限り、三吉さんは短い「手槍」というのでしょうか、棒術のような雰囲気でした。古武道のことなど無知ですが、ドラマでの殺陣(タテ)は流れるようでした。槍というよりも棒の両端が武器(穂先)で、くるくると回転し、どちらから突かれるかわからない恐怖がありました。刀なら切っ先から切り込まれるはずなのに、三吉さんの槍は、大型の十字手裏剣みたいでしたね。

 桂さんも北辰一刀流の免許・目録を持っていたはずですから、免許を持った龍馬に護衛をつけるということは、三吉さんが相当に、そう、無敵に近い槍の達人だったのだと思います。
 三吉慎蔵さんは明治末期まで生きておられ、彼の当時の日記が司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』で使われたようです。三吉さんの日記があったからこそ、この寺田屋襲撃の詳細が後世に残ったわけです。

2.お龍の涙、お登勢の涙
 京都所司代、そして新選組から追われる龍馬は、もしかしたら二度と京都に戻れないかもしれません。
 ドラマでは、お龍の涙、お登勢の涙と、二つの涙を見せてくれました。
 男女間の愛は大切だし、古来から相聞として、「歌」になります。
 しかし今夜、私はめずらしく日本のTVで、普遍的な「愛」を見た思いをしました。普遍的とは言っても神の愛とか、抽象的な愛を意味してはいません。要するに、同じ世に生まれて、同世代の生身の人間を「この人と一緒に生きていることがありがたい。生まれ育った値打ちがあった。すばらしい人に巡り会えた。失いたくない」と、そういう愛として使いました。

 お龍にとって、龍馬はそういう「人間」だったと、ドラマでは描かれました。そばにいるお登勢は、そういう龍馬の存在や、彼を慕うお龍の気持ちを正確に理解したからこそ、涙が流れたと思いました。
 今夜のお龍やお登勢がすばらしく美しく見えました。
 女優の顔や姿が美しいというよりも、ドラマとして、普遍的な「愛」を表現する美しさに驚いたわけです。

3.今夜の龍馬
 岩崎弥太郎に薩長同盟の事実と近未来の日本の姿を伝えた龍馬が映えていました。特に、商売をしたらよい、しかし目先のことではなく、大きな全体像を理解した上で、自分のなすべきことをみつけろと、弥太郎に言ったセリフが光っていたのです。
 ただの脱藩浪士にすぎない坂本龍馬が、薩長同盟という明治維新の転回点での支柱になって、回天の業半ばで斃れた事実を、後世の私は知っている故に、なおさら龍馬のすさまじさを味わいました。ただの民間人、位階なき田舎浪人が、その後の100年以上の歴史を切り替えたわけです。

 その龍馬が弥太郎に言い聞かせた話は迫力がありました。幕府はフランスの後ろ盾なしには立ち行かなくなった。長州が滅べば、フランスが幕府を支配し、残る英米露、ヨーロッパ諸国が日本のぶんどり合戦をする~。
 さすがに今夜の弥太郎は、事の重大さに目をひらいたようです。

 西郷隆盛が、お龍や三吉の報告を受け、医者団や兵を速攻で用意したのがよかったです。知謀、黒幕、政治家であっても、いやそうであればこそ、今ここで龍馬を召しとらえられたり、あるいは死なれたのでは、薩摩や西郷の面子が立ちません。薩長同盟も事前に瓦解する危険性があります。
 必要な時、必要に応じて、素早くことに対処することの、西郷流の凄さを味わいましたcat

参考
 伏見奉行所跡と魚三楼(MuBlog)
 伏見薩摩藩邸跡の建碑除幕式(膏肓記)
 伏見丹波橋・薩摩藩邸址 その三■(隼人物語)
 寺田屋の内(MuBlog)

寺田屋:地図

大きな地図で見る

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2010年9月 1日 (水)

小説木幡記:2010/09/01(水)日付も変わる夏風邪だ

Smimg_6326 夏風邪で早々に眠ってしまっていた。遠いベルの音を聞いたような気がして目が覚めた。目覚ましもセットせずに眠っていた、その緊張で、日付の変わる直前に目覚めてしまった。
 思い悩むことといえば夏期論文だけなのだが、いろいろ所用もあって、心理的に疲労を感じていたのだろう。わずかに3時間ほど眠っただけで楽になった。いや、薬のせいかもしれない。秘伝の疲労回復錠剤があって、それを食卓で口にいれた記憶はある。

 所用の一つに来週と再来週とは、ジオラマ制作の課外活動がある。おっと、この話はMuBlogに書いたかな?pen これが人数調整と基盤や発泡スチロールの数やで手間取った。
 他にもいくつかあるが、また眠くなったのでこれくらいにしておく。
 そうだ。

 最近は痩身法を本気で考え出した。余はネットで調べたら、日々1600キロカロリー以下にしておくと、だんだん痩せていくようだ。ただし1200キロカロリー以下になると病気になるらしいdash。ちなみに本日お昼用にコンビニざるそばを食したが、これが300キロカロリーだった。早朝はトースト一枚でミルクつきだから400キロカロリーくらいか。夕食は例によって美味しかったので1000キロカロリーくらいで、ちょっと超過したな。
 なんとなく。
 管理栄養士になるつもりで、食事制御をしてみようかの。あがが。noodlecakeban

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