小説木幡記:2010/08/30(月)そろそろ九月だな、本音をメモろうかい
他の校務や倶楽部仕事があって、今日は夏期論文に手を出せなかった。昨日日曜日はぼんやりと「空海の風景」の下をだいぶ読んだ。
最近は大学の棟が午前6時台でも入れるので気持ちがよい。
今朝は6時半に研究室に入った。
やってもやっても終わらない、いつも、くめどもつきぬ仕事や研究の泉を眺めている。万年泉だね。ただしそれが枯れた時のことも、この頃はよく考え出した。今の案では、欠点として体重が増えるのだが、電気を消してじっと床に横になっていると、半睡状態になり、べつに仕事や研究や鉄道図書館列車モデル制作をしなくても、脳はたゆたっておる。
歳をとった(要するに今の余のここ数年の時代)父や叔父や上司や先生達の気持ちを、若い頃は理解できなかったのだ、と今更ながら思う。もっと分かってあげたらよかった。十代や二十代のころは自分の事だけで精一杯だったのだろう。
若くても年寄りでも脳のソフト面での違いはあんまりないな。むしろ歳とった方が、事例が多く、自家脳内で類例を沢山探せて、それと照合させて、迷いや判断の狂いが少なくなる。
それまでになかったことなんか、千に一つ程度だろう。そのときは、あたふたするのは余だけじゃない。だから、一般に加齢の佳さは見通しがきくということだな。
歳とっても、人間が上等になるわけじゃない。洞察をゼロからしなくても、事例が多いから、こうすればこうなる! ということがはっきりするわけだ。そして、大切な点は、……。こうなるのがわかっていても、こうするんだぁ! という気持ちは若いとか老いとかよりも、気質邪ね。
どうにも、余は、そいういう(どういう?)気質に生まれ育ったせいか、若くても歳とっても、同じだ。
ただ。
「おもしろい!」と思うものを過去に求める傾向は強くなったな。もう、未来なんかどうでもよい! それが本音じゃわい。過去には一杯おもしろいことが埋もれている。自分の過去にも、人類の過去にも、な。
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