小説木幡記:2010/05/21(金)青年の孤独死感
すでにもう週末になってしまった。
昨日倶楽部幹部と世間話をしていて、「孤独死」の話題になった。その者が自らの行く末に、寂しい一人住まいの死を想像しているとのことだった。雰囲気として、高齢時をさしているわけではなく、これから社会に出てからのことだ。就職や家庭を営む条件が難しい昨今、都会や地元でひっそりと一人消えていくというイメージだった。年長の余としては、そういう凹んだイメージを膨らませる青年には、「そんなことはない」とか「いやいや、明るい将来が待っておる」と力づけるべきなのだが、禁煙鬱で妙に沈み込みがちな余は、自然に「孤独死か~、卒業生達にもそういう影のつきまとう者がいるなぁ」と、なにやら共鳴してしまった(笑)。
孤独であることや生死のことは、古来永遠の文学テーマなので、余も半世紀に近く身近なこととして折に触れて考え込んできたが、「孤独死」は昨今「普通」の人生に現れる一般的な話になってしまっている。深く瞑想にふけらなくても、文学とは縁遠くても、体験する機会が多くなってきた。あれこれ難しく考えなくとも、気がついたら一人住まいのまま、血縁や友人知古とも縁が途切れ、職もなく、ぼんやりしてる自分を見つけてしまう~。
いつの時代にも、孤独死はあったのだろう。
しかし現代は、一般解としての「孤独死」がある。
要するに、普通の人生としての孤独な死である。
家族、地縁血縁、友人知古、そして「職場」、そういうものすべてが贅肉に思われる人生があって、やがてひっそりと生を終える。相当な期間、その死にだれも気づかない。
孤独死を疎ましいとはおもわぬ。
余は、ただ青年達が孤独死を切実にイメージしてしまう昨今に、人心や世相のこれまでにない荒涼とした風景を見てしまった。
なんとかしなくては~。
この世は孤独死ほどには哀切なままではない。輝かしい、高揚感もあるはずなのだ、……。
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