纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物
2.0 桜井市立埋蔵文化財センターについて
纒向遺跡発掘は奈良県桜井市の教育委員会が中心に行ってきました。その現場拠点が「桜井市立埋蔵文化財センター」だと思います。この施設には以前から数度訪れてきましたが、外観からは「重要なセンター」という雰囲気がつかめません。各地にあるごく普通の埋文センターの一つにしか見えません。しかし当たり前ですが、実質的には様々な遺物が調査研究されていて、将来は規模を拡大し、施設自体も記念碑的な構造に改良する必要が出てくるかもしれません。あるいは充実した付置研究所も設けざるえを得なくなることでしょう。
表紙写真には良く晴れた日の箸墓古墳が写っています。纒向遺跡の全体を象徴するものとして、巨大な前方後円墳を選んだのは、それなりの理由があるのだと想像しておきます。
2.1 第166次発掘展示コーナー(2009年秋の巨大建築物遺構:宮殿?)
会場ではちょうど「平成21年度秋季特別展 弥生後期の集落史」の展示中でした。私が興味を持つ邪馬台国問題は時期的に弥生後期~古墳時代前期に属するものですから、一通り場内を一巡しました。しかし事実は、遺跡の写真や遺物の写真をみても、そこに何かを想像できるほど詳しくはないので、「ふむ、ふむ、いろいろあるなぁ」程度の感想しか持てませんでした。私などは、等身大の人形がいくつかあって(笑)、音楽や光の効果がないと当時のことをイメージできないものです。ただしそういうことを現在の埋文センターに求めるのはお門違いであるとは、十分認識しております。
目当てのコーナーは、実は入り口近くにありました。今回の大型建造物発掘に関係する「第166次発掘」がそれでした。コーナーには直接関係する第162次発掘(2008年)が一緒に展示されていました。出土遺物のうち162次分については、すでに分類名称が付けられていましたが、下記写真1の166次今回調査の結果は、素のまま展示されていました。
ここで上記写真の「庄内3式」というタイプは、
{庄内0式(2世紀末)~庄内3式、布留0式~布留4式(5世紀末)}
に分類される相対的な土器編年の一区分です。ともに土師器(はじき:素焼き土器)で、後世の須恵器(すえき:陶質土器)とは異なります。庄内とは大阪府豊中市庄内、布留とは奈良県天理市布留が名称の起源のようです。庄内式の壺は底がやや尖っていて、布留式の壺は丸くなっています。
ただしこういう土器編年は複雑な区分原理でなされているので専門家によって多少違いがあります。要するに、庄内式土器は纒向遺跡によく出土され、それより新しい布留式は箸墓古墳の話題によく登場するという程度に、現在の私は認識しております。
写真1:162次~166次発掘展示コーナー
2.2 これまでの発掘調査出土遺物
展示場を行きつ戻りつしている間に、これまでの纒向出土遺物で特に気になった物を写しておきました。一つは木製仮面です。口のところに鍬の柄をさして土を耕していたのでしょうか。一目見たとき、農耕の鍬を連想しました。しかし鍬にこういう仮面様式を取り入れるのははなはだ実用性に欠けるので、農耕神事に関係した仮面かもしれません。この木製仮面については、鼻の穴があったり、目がくりぬかれたりしていて、造った人の現実認識感がよく現れていると思いました。国内に類似例があれば、もう少し詳しく考えてみます。現在の私には、白布をみにまとった女性がギリシャ悲劇の仮面演劇のような雰囲気で登場するイメージが濃厚でした。
もう一つは、水に縁が深い舟や水鳥の出土物でした。このことは、邪馬台国が水の都だったという仮説をNHKのTVで見て以来、印象がますます深まってきました。Mulogの 「卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌」を参照してください。
その説を補強する意味で、箸墓の周壕が全長500mにも及ぶかもしれないという2008年の発掘調査を思い出しました。(MuBlog記事)
後世になるともっと明確になるのですが、纒向というよりも大和の王朝は河川によって難波(なにわ)と直結していたようです。そういうことが不意に出現することはなく、2~3世紀の纒向地帯では舟によって重要施設を往還していたのかもしれません。具体的には穴師の谷からでてくる巻向川などが中心河川だったのでしょう。もちろんこういうことはもっと調べないと正確にはいえないことですが、展示場で直接、舟の模型などを見ていて気持ちが深まりました。
写真2:これまでの調査出土遺物
箸墓の模型がありました。1/1500の縮尺でしたから、箸墓古墳(280m)は19センチ弱の大きさで表現されていたはずです。こういう模型を眺めると、博物館、資料館のありがたさを感じます。本当は、実物の古墳をながめても全貌がよくわからないのです。たとえば河内の仁徳天皇陵などは、市役所の最上階からみても、ただの山にしか見えません。しかし近所の資料館の模型を見たとき、はじめて仁徳天皇陵の巨大さというよりも、偉容に心うたれました。
箸墓については、書陵部管轄の前方後円墳ですから私などが現地を経験することは絶対にあり得ないわけですが、それでも比較的信憑性の高い測量地図、原型図などは教科書、参考書でよく見かけます。別の話になりますが、現在「邪馬台国周遊図書館ジオラマ」を制作しています。その第二次工程では、1/1500程度の箸墓古墳を造る予定にしています。1/1000ですと28センチほどになりますから、形が明確になるはずです。
この箸墓模型で気に入ったのは、樹木の繁茂が上手に表現されていることです。横の池については、少し水の雰囲気が低調です(笑)。
写真3:箸墓古墳模型など関連展示物
参考
(JoBlog)纏向遺跡の古代地形
(JoBlog)纏向遺跡の遺物について
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