小説木幡記:2010/03/15(月)春の嵐と嵐電
帰路自動車のTV(音声)が「春の嵐」と言っていた。夏の嵐、秋の嵐、冬の嵐が瞬時に駆け巡り、嵐に四季があったのかなと、首をかしげた。
『春の雪』といえば三島由起夫の長編小説「豊穣の海」の第一巻だが、春の嵐といえば、なにかそんな小説もあったなぁ~。と、そのまま帰還した。
そのとき実は昼に見た写真の電車を別途イメージしていたわけだ。パラレルイメージだな。連想ではなくて、同時並立イメージだ。パラレル(並行処理だな)にイメージする? だから結構毎日忙しい。ぼんやりしているように見られるが、脳のなかはいつも脳の嵐なんだ(笑)。イメージがパラレルに流れると、どちらを見れば良いか分からなくなることもある。
ところでこの電車は丁度、嵐電天神川駅(蚕ノ社と山ノ内駅の中間新駅)のカツカレー屋の中から写したものだ。余は、写真も人生もちょっと踏み込みが足りなくて、邪魔くさがりというよりも気弱なんだな。がらっとドアを開けて外に出て、真っ向正面から写真を写す勇気がない。写真は踏み込まないとだめだ、と高校時代に親友が言っていた。いまだに守れていない。望遠で遠くからこっそりと(爆:まるで盗撮)、あるいは物陰からこっそりと、はたまたカレーライスを食べながらガラス越しからこっそりと、写してしまう。
まあよい。そういう人生を選んでしまったのだから、いまさら変える気もない。
それでじゃ。
なぜこの写真が春の嵐とシンクロしたのか。いや、実に単純なことだと後で理屈をつけた。この電車は、京福電車(京福電気鉄道・嵐山線)というて、通称「嵐電(らんでん)」という。四条大宮から嵐山まで通じている路面電車のような郊外電車のような、余が幼稚園時代から乗っていたランデンなのだ。それで嵐山(あらしやま)が何故嵐の山であるかの考証は辛気くさいのでやめておくとして、この「嵐」という言葉が「春の嵐」と「嵐電」とのパラレルイメージを喚起したちゅうことを、ながながとメモしておきたかった。
終わり。
(人間というのは、まことに、けったいなことを考えながら生きておるもんじゃ)
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注:京都市「右京中央図書館」の見学下見のため、サンサ右京にでかけ、そこでカツカレーと珈琲をとった。900円強だったかな。桜が咲く頃に、大勢の新入生を連れて行く計画があってな。
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