桜井茶臼山古墳の被葬者:壹与(近藤喬一説)
破鏡断片
奈良県桜井茶臼山古墳から大量の鏡片が出土していたニュースは2010年1月8日に新聞紙上で知った。このことの解説記事は、畏友のJoBlogにも詳しく、ネット上でも詳細な情報がある。私は事情が重なってこの鏡片についてはまだ一つもコメントを公開していない。古鏡問題は苦手(笑)だと思っている。一枚入手すればもう少し愛着が持てるかもしれないが、三角縁神獣鏡のことがいまだによく理解できていないので、もう少しまじめに勉強すれば、後日にでも触れてみたい。
被葬者は壹与(いよ)か
さて、それから十日前後たって(実は、ネットで情報が得られると思って、新聞切り抜きの日付を亡失した)、産経新聞の記事で「桜井茶臼山古墳/近藤喬一(こんどう・たかいち:山口大学名誉教授)」を目にした。副題には「鏡で推測 被葬者は壹与(いよ)か」とあった。卑弥呼の後を継いだ男王の治世が乱れたので、壹与が卑弥呼の宗女(本家筋・本家と血縁のある女性、つまり普通には卑弥呼の姪や従姉妹や姉妹)として13歳で共立(男王と祭政を分けたのか?)し、国は立ち直った。女性の力である。卑弥呼は独身だったろうから、血縁を持つ娘や孫はいなかったはず。卑弥呼の年齢は不詳だが70数歳の長命だったと推定できる(史書に残っている出現時と死亡推定時から)。仮に75歳とすると、死亡時に壹与は10歳前後か。とすると年齢差が60以上になり、妹とか従姉妹、姪とかの関係も不明瞭になる。要するに、「遠縁の娘さん」が妥当だろう。
壹与(いよ)と臺与(とよ)
まず壹与と書いて「いよ」と読ますのか、壹(壱の旧字)という文字は臺(台の旧字)の誤記で「とよ」と読むのかは説がいろいろあって、私にはわからない。後者だと、トヨと付く豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと:崇神天皇皇女)や伊勢神宮の外宮:豊受大神宮(とようけだいじんぐう)との関連で邪馬台国問題が錯綜してきた事実がある。付加するなら、逆に邪馬臺(台)国の台も壹の誤記で、邪馬一国と読む説もある。
纒向遺跡と茶臼山古墳に道がついた
つまり先年の纒向遺跡を卑弥呼宮殿跡と仮定し、そこから南南東4kmの地点にある桜井茶臼山古墳の被葬者を壹与とするなら、ここに、纒向遺跡発掘と茶臼山古墳・再発掘とが、「邪馬台国問題」という視点で重なり合うことになる。もしもその仮説の検証が堅いものとなると、謎だらけの古代3世紀日本の様子が明瞭になる。だから、桜井茶臼山古墳被葬者「壹与」説は、日本にとっても私にとっても軽いものではない。
近藤説について
本題に入る。
近藤先生が被葬者を壹与と推測した要点が9つあって、その総合として「桜井茶臼山古墳被葬者壹与説」が導き出された。浅学私は、その一つ一つのことがどういう意味を持つのかは理解できなかったが、興味深く読んだので、メモしておく。
記事引用:産経新聞2010年1月中旬
①崇神陵や景行陵に指定されている巨大前方後円墳群からなる大和(おおやまと)古墳群より少し距離をおいた磐余(いわれ)の地にあること
②壺形埴輪の初現的出現
③後円主体部を方形に囲む密集した柱列
④天井石の内側まで壁体を含めてびっしり塗布した水銀朱
⑤控え積み(Mu注:補強石組)のほとんどない竪穴式石室
⑥三角縁神獣鏡のほか後漢を中心とする中国鏡10種、内行花文鏡と鼉龍鏡(だりゅうきょう Mu注:ワニのような龍の文様)の国産鏡2種あわせて13種81面という多種、大量の鏡の存在
⑦三角縁神獣鏡の中に、邪馬台国の魏への朝見を示す正始元年(西暦240年)の鏡の存在
⑧玉杖と、顔を覆った布に綴(と)じ付けられた綴玉(てつぎょく)覆面の一部と思われる葬玉の存在
⑨鏡は主として頭部近く、木棺の内外に置かれていたと推定されていること
推理解釈
①は、実は現在の私にはおぼろげにニュアンスはつかめるが、理屈を述べることはできない。崇神天皇を代表とする三輪王権と邪馬台国が明瞭には結び付かないのだから、壹与の陵墓が箸墓よりも南の磐余にあることの方がなめらかに思えた。(MuBlogとして古墳群の位置付けを勉強しなければならない)
②は壺形埴輪というスタイルの始まりが、この古墳で出土したことが重要なのか? これも埴輪の形態学を勉強しないと、壹与とのリンクを理解できない。つまり単純に王権の象徴なのか?
③古墳の上に造られた柱列については、以前感想を述べた(MuBlog)。 結界、社、要するに鎮めの御魂屋という覆屋かと想像したが。
④この水銀朱(MuBlog)は莫大な経費がかかっているから、単純に豪族クラスではなくて、大王、大女王の墓でないと施工できない。大女王とすると時代的に壹与が該当する。
⑤は石組みの勉強が必要になる。おそらく、補強しなくてもよいほどに丁寧で正確な造りということか?
⑥⑦⑨は鏡問題なので苦手だ()。つまり魏と密接な従属的同盟関係を結んだ卑弥呼、および魏滅びて西晋に朝貢した壹与、この二人に直結する鏡が桜井茶臼山古墳から大量に現れたという事実の重大性。
⑧は上記と密接に関係するが、中国と密接だった故にこそ、当時中国で皇帝クラスの葬祭に用いられた様式が時を経ることなく直輸入されたという事実。このことから、被葬者は中国と非常に関連の深い倭国大王→時代的に女王、すなわち壹与という結論が出る。
私のまとめ
桜井茶臼山古墳の副葬品(主に鏡)や水銀朱つくりの豪華な石室、当時倭国では最新の葬祭方式、玉杖、なにをとってもなまなかの大王クラスを超えた陵墓だという印象が強い。しかも微妙だが、卑弥呼が被葬者と考えられる箸墓が280mの前方後円墳で、かつ450mに近い周壕という卑弥呼当時の巨大さに比較して、200mクラスに押さえたところに意味が読める。壹与も優れた巫女女王だったろうから、亡き卑弥呼には気兼ねしつつも、内実は国力を傾けるほどの豪華絢爛な墓を提供されたのだろう。
今回の近藤喬一先生「桜井茶臼山古墳被葬者壹与説」をうまく消化しきれなかったが、こんご纒向遺跡も茶臼山古墳も、桜井市教育委員会や橿原考古学研究所から次々と成果が発表され、研究図書も刊行されていくことだろう。ゆるゆるとそれを読めば、やがて全貌がつかめると思っている。
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コメント
おはようさん
もうすぐ、出発なんですが、気になる記事なので一言。
トヨの説ですか、白石さんは箸墓を卑弥呼、西殿塚古墳をトヨという説でしたね。古墳の年代が問題なんでしょうか。
外山茶臼山古墳はだれもが認める、大王墓ですね、問題は年代なんでしょうか。3世紀の半ばから後半でしたら、トヨの可能性もありますね。
さて、もう出ないといけませんね、ヒッタイトの国、トルコに出かけます。ほたらね お元気で。
投稿: jo | 2010年1月22日 (金) 08時34分
江戸時代や明治時代の陵墓指定、参考地指定についてちょっと考え込みました。
なぜ、桜井茶臼山古墳は神話・歴史上の皇室関係者、そのどなたかに比定されなかったのか?
磐余の聖地のどまんなかに200m級の前方後円墳がずっと昔から鎮座していたのに、不思議な話です。
昔は情報不足、科学技術不足で、現代ほどには学問が進化していなかったから、と思う人は今時いないでしょうが、大昔から叡智はありました。
なのに、陵墓指定、参考地指定がずっとなかった。(そうだ、今城塚古墳もそうでした)
ここで、結論。
以前から、いよ(とよ)さんと解っていて(笑)、卑弥呼さんはモモソヒメに貼り付けたが、壹与さんをだれにするかで悩んだあげく、「もう、いいや」となったのかも。記紀以来の、本邦、歴史関係者の苦しみだったのでしょう。
投稿: Mu→Jo | 2010年1月24日 (日) 08時41分