纒向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地:建築物遺構
承前:纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物
石塚古墳から166次調査現場へ
桜井市の埋蔵文化財センターをじっくり見学してから、次は今回紀行の中心と考えている「第166次発掘調査現場」の見学でした。目当ての場所は、これまで三輪山遊行で何度も世話になった「JR巻向駅」です。卑弥呼の宮殿跡と噂される大規模建築物遺構は、丁度巻向駅のホームの北詰西にあると、以前から調べていたのです。
その現場に到着する前に、この↓大型写真を御覧下さい。巨大な空き地の南に箸墓が小山のように横たわっていました。宮殿の主が卑弥呼なら、この墓を知らない可能性があります。あるいは生前に建設経過を眺めていたかも知れません。それは力強く清冽な眺めだったことでしょう。
↑箸墓:撮影地点は発掘現場から南100m、さらに500mほど真南に箸墓が見えます。
もちろん、大規模前方後円墳の意味は深いところがあって、奴隷を酷使して作ったという戦後の共通神話は成立しない時代に入っています。この話は多言を要するので詳細は省きますが、おそらく現代の建設労働者以上の厚遇と、精神的充実を得て、作られたのだと考えます。神聖きわまりない女王や男王の新たな住まいを、反抗心を持った人達に作らせるわけがないのです。そういう「心」は遺物遺跡にもなかなか残らないことですが、ここ何年か前方後円墳のことに思いめぐらす内に、古墳造成のイメージが明確になってきました。
さて。
発掘現場ですが、そこへ行く方法を助手席のJo翁と相談しました。私の経験では、奈良の桜井市、三輪山近辺巡りには、徒歩か自転車が一番という想いがあります。自動車だとせいぜい軽自動車でないと、思うように走れない小径ばかりなのです。当然ですが、路上駐車など警官に切符を切られるよりも先に、停める余地もないのがこのあたりです。穴師や景行天皇陵墓を訪れたときは、普通車として一番小さい自動車なのに、道幅が狭く危うく道路からズリ落ちそうになりました(笑)。
というわけで勝手知ったる他人の土地、前回の経験から纒向石塚古墳の近くの道路に、絵に描いたような駐車スペースがあったので、それを使う事にしたわけです。
さて、この↑信号から左折すると約400mに満たない距離でJR巻向駅に着きます。とことこ歩いて行って、すぐに発掘現場が遠望できる位置に立ちました。そこで振り返ると(南)、巨大な広場(注:メクリ1号墳の埋め立て跡。3世紀後半の、纒向唯一・前方後方墳)があって、その向こうに箸墓が見えたわけです。
JR巻向駅
↑JR巻向駅(JR桜井線)はすぐそばでした。この駅は青年時から何度も通過しました。ただし下車したのは南にある三輪駅の方が多いです。この駅はこの10年間にあれこれと調査(笑)があって、直接訪れる機会が増えたわけです。もちろん、今後はずっと利用頻度が上がります。なお、今のところ無人駅です。
この↑大型写真を写すとき、複雑な思いで望遠レンズに触っていました。実は、以前JR奈良線が重要な大型前方後円墳を横切っている現況を撮影したのです(MuBlog:椿井大塚山古墳の現況写真)。当時の国鉄の意味と、過去の遺跡に対する認識は現在想像すると辛くなります。しかし現代も、過去の歴史が重層した最上部で我々は生きて住まいしているのです。京都も奈良も遺跡の上で生活しているのが現実です。簡単な事ではないのです。この纒向遺跡を南北に縦断するJR桜井線も重要な施設です。付近に住んでいる人達も沢山おります。一方、日本の始原をたどる旅も、存在の根を明らかにすることにおいて、最も大切なことです。このことは、10年、100年先の遠目で見て、「日本国」として考え、地域と相談していかねばならないことです。
第166次調査発掘現場
↑第166次調査発掘現場を眺めて何かを言える立場ではないです。ビニールシートで覆われているなぁ、程度の感想しか無かったです。あとで解説レジュメを読んでいると、実はこの遺跡の下層にまだ別の古い遺跡があるようです。もしも2世紀ごろのものだと、西方にある弥生時代の鍵・唐古(かぎ からこ)遺跡から人々が纒向に移動している頃の物なのかなぁ~と、ぼんやり想像しておりました。
飛鳥時代の遺跡だと、宮殿が何層にもなっている事例がありました。(MuBlog:飛鳥浄御原宮・正殿)
巨大建築物遺構:宮殿か、神殿か、政庁か?
↑建物の想像図ですが、私はこれについての正確なイメージがまだ出来ておりません。参考にあげたJoBlog記事では、実際に発掘された柱穴と、将来見つかるだろう柱穴とを合わせての想像図であると解説がありました。
また以前、大阪の弥生文化博物館(MuBlog)でみかけた古代の宮殿のジオラマは、今度の建築物の想像を補う物になるかも知れません。
幾つか気になった点だけを記しておきます。
NHKのTVクローズアップ現代(MuBlog:卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)を見ていると、関係者の発言から建物D(図3)が東(穴師、三輪山方面)を向いているような印象を受けました。私の想像では、西側にバルコニーのような(笑)、きざはし(階段)があるような気がしました。当然、この考え方一つで建物復元図も変化します。卑弥呼さんかどうかは分かりませんが、太陽崇拝が東に向かうとは思えないのです。太陽を背にして人々の前に現れる姿を私は想像しています。
また、柱が建物の正面にある事実から、唯一出雲大社の様式にそれがあるという発言でした。今後、その事についても注意していこうと思いました。
それと、以前から気になっていましたが、東西の軸がやや(5度)南に下がっていますから、二上山に向かっていることが分かります。ただし正確に計測したところ、二上山の頂上ではなく、頂上からやや北側を指していました。これは実は「穴虫峠」といって、古来からいろいろ話が残っている所なのです(笑)。纒向遺跡から西へ265度の方向(穴虫峠)は、次の「ゼンリン地図」の計測により、赤い太線で示しました。
まとめ
同行のJo翁は知らず、私は考古学、歴史学について興味はありますが専門的修養をしてはいないので、現実の発掘現場に出向いても、新しく何かに気付いたわけではありません。ただこの世界(古代日本史)は20代からのことなので、何かを見ると何かを「そう、そう」と思い出すことはあります。今回の紀行では、その想いだし、記憶の断片が様々に脳内を飛び交っておりました。
調査は166次まで進みましたが、これからまだ何年もの時間がかかると思います。200次まで行っても全体の一割に達しないだろうと想像しています。なかなか親魏倭王金印も出てはこないでしょう。
私にとっての邪馬台国は依然として、遙かな時代の物語です。
その想像を補うような図柄を現地(埋蔵文化財センター)で入手しましたので、参考に末尾に添えておきました。
この図を眺めながら、西暦240頃から260年ほどの数十年間の纒向を、今後も思い描いてみるつもりです。
参考
(JoBlog)纏向遺跡 大型建物跡の解釈
(桜井市・PDF) 纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(桜井市教育委員会)
↓抄・(桜井市のリーフレット)ふるさと寄附金対象事業 奈良県桜井市「纒向遺跡」
↑注:あくまで想像のイメージだと考えて良いでしょうが、いくつか気になる点を指摘しておきます。
☆今回の建物群の東西軸線は南に5度ぶれているとのこと。このイメージ図でも西の向こうは二上山になっています。陽の沈む二上山はもちろん暦に関係が深いでしょうが、それ以上に3世紀当時から、二上山はなにか象徴性をおびていたと思います。
☆この図で「宮殿?」と書かれている施設は相当に大きく幾棟もの建物が東西南北の軸にきっちり並んでいます。そして周りを河川(運河)で取り囲んでいます。水垣の言葉の原初の姿だと思います。ただし箸墓の全長450mもある二重周濠はイメージされておりません。
☆施設全体が予想以上に大きいことや、中心となる建物が東を背にし西に向かっていることが、興味を引きました。
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コメント
おはよう御座います
何時も感心するのですが、きちんと記事を書かれますね尊敬します。私も関連して記事を書きました、参考にして下さい。
昨夜、大学の考古学の皆さんで忘年会でした。楽しかったです。
縄文時代の専門家の先生が何で列島の人は面倒臭い稲作を始めたのか?彼は『酒』だと仮説を述べていました。論文もだしていると言うてはりましたよ。三輪さんは酒の神さんでしたね。(笑)
投稿: jo | 2009年12月13日 (日) 11時06分
大問題を提起されると鬱になりそうです。
☆稲作と前方後円墳
最近おもしろい図書を読んでいます。なかなか立派な内容なので、後日感想文を出しましょう
☆酒と穀物
酒は神様に献上するものと思っておりました(笑)。Muはアルコール分解酵素が数パーセントしかないので、切実さに欠けます。
その縄文の先生は飲み助なんでしょう。
酒は果実の方が先行していたと思います(典拠なし)。
結果として穀物からも酒が取れると気付いたのと違いますか。しかも完全なドブロクだったわけですね、その後ずっと。
☆稲作
めんどくさくても、毎年がんばって農耕すると、大抵は収穫が確実だから普及したと思います。
備蓄がきいて、水と土鍋と火でおいしいご飯が食べられるのですから、一度試すと止められませんよ。
栽培は、知恵者がいて季節の流れを農民達に教えれば、一人一人が弓矢槍など特殊技能でもって野生動物を追いかけるよりも、安定し、安全でしょうね。
四季おだやかな日本ですから、じっくり農耕している方が気楽だった可能性はあります。
☆水稲栽培の不思議
以上は、単純な現代知識から推理したものです。
おそらく、人口の数割が農耕して、あとの人はもっと別の生活用品や、武器や農具や装飾品を作っていて、少数の知恵者が村々の交易、商売をしていたと、さっきの図書には書いてありました。
どうなんでしょうね。
投稿: Mu | 2009年12月13日 (日) 11時58分