纒向宮殿紀行(4)他田坐天照御魂神社(おさだにいます あまてるみたま じんじゃ)
承前:纒向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地:建築物遺構
(他田)天照御魂神社正面
纒向宮殿遺跡紀行・同行のJo翁と、この度の大型建造物発掘現場(巻向駅北西隣)を去ろうとしたところ、南側に古墳と見まごうばかりの森が見えました。さっそく立ち寄ったところ、小さな神社でした。
古墳でないことの驚きのまま、すぐに参拝しました。この時は祀られている神さんを知らないままでした。
数百年は超えそうな巨木の森に佇むと、時代の古さが感じられました。
(後の調査では、神社自体は明治期に近所の辻から遷ったようです)。
小さなお社なのですが、地場関係者が大切にしているのか、本殿の周りは頑丈な塀に囲まれて、中はうかがえませんでした。歴史的になにか事件があったのか、あるいは強烈な神さんのための結界なのか、塀の外周りの鉄柵には鍵もついていて、これ以上はないほどに堅固な様子でした。
境内を歩いていると石碑が二つありました。一つは、薄々「明治神宮遙拝」と読めたように思えましたが、自信はまったくないです。もう一つは新しくて、明瞭に「天照御魂神社」と読めました。そこでJoさんは「天照」の名称から、日本書紀の崇神紀の、トヨスキイリ姫が天照大神に付き従って宮中から外にでた話をし始めました。なるほど、とうなずきました。
そこから私の疑問が次々と生まれだしたのです。Joさんの話を聞いている間中、頭の中では「ヌナキイリヒメ、大国魂、身が細り髪が抜けて、ホケノ山古墳、鏡、……」と渦巻いていたのです。この、「地図にもない」小さな社がもしかしたら、崇神紀の神々に直接関係しているのかも知れない~と、謎が次々とわき起こってきたのです。
纒向宮殿遺跡紀行が終わってから、木幡研の書斎でどうにもこの神社のことや、崇神天皇のことが気になって、肝心の纒向遺跡の後始末も手に付かず、数日を経てしまいました。
そこで、最初に正史で崇神天皇時代の神さんがどう記録されているかをまとめてみました。
崇神紀の神々
奈良県・大和の神々の大本は日本書紀の崇神紀に現れています。まず、崇神六年に天皇は神威を恐れられて、宮中の同殿共床する二柱の神さんに皇女をそえて宮中から外に出されました。
天照大神(あまてらすおおみかみ)→皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめ・のみこと)→笠縫邑:檜原神社か?
倭大国魂(やまとのおおくにたま)→皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりひめ・のみこと)→大和神社か?
この皇女の役割は神さんの世話をする巫女さんと思えば間違いはないでしょう。また天照大神は、一般には、神武天皇以来崇神天皇にいたる皇家が外から持って来られた神さんで、天津神(あまつかみ)と考えられます。倭大国魂や後述する大物主神さんは、大和の三輪山近辺の地場の神さん、つまり国津神(くにつかみ)と言えます。
天照大神は後日の垂仁天皇時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が代わって仕え、各地を巡行し鎮座地をはるばる伊勢に求められました。要するに大和から東方に離されたわけです。皇祖神とされる天照大神が宮中から遠くに鎮座したとは、不思議な話です。なお、豊鍬入姫命のお墓は、ホケノ山古墳とする伝承もあります。
ところが、宮中そばの倭大国魂は、激しい神さんでしたのでしょうか、そばの渟名城入姫命はすぐに、みるみる痩せて髪も抜け落ちていかれました。崇神天皇は娘さんの苦しみがさぞおつらかったことでしょう。さらに疫病もやまず、国内も乱れたままです。そこで崇神七年に叔母さんの倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととび・ももそひめ・のみこと)に依頼して神さん達の神意を探られました。すると「大物主神(オオモノヌシ)」が姫の夢枕にあらわれて「吾をあがめよ」とのお告げがあったのです。
今度は大物主神を齋き奉ったのですが、その効き目はすぐに現れず紆余曲折の果てに、
大物主神→大田田根子(おおたたねこ)を祭主(神主さんと思えばよいでしょう)
倭大国魂→市磯長尾市(いちしの ながおち)を祭主
とされたところ、疫病が止まり国が治まり五穀豊穣となったわけです。
そして、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の神妻になりましたが、神さんと諍いがあったのでしょうか、やがて奇妙な亡くなりかたをします。そのお墓が箸墓だという伝承が残りました。
先代旧事本紀:天照御魂とはニギハヤヒの命
石碑に刻まれた天照御魂神社は各地に数カ所ありました。近所ではすぐ西の鍵・唐古遺跡近くに、鏡作神社があってこの正式名称が「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいます・あまてるみたま・じんじゃ)」だったのです。
それで、天照御魂神社も含めて近所の神社でお祭りしている神さまを調べたところ、いろいろいらっしゃるのですが、共通して「天照国照彦(日子)火明命(あまてるくにてる ひこ ほあかり のみこと)」神が多かったのです。この「ヒコホアカリノミコト」とは、神武天皇が大和に入る前に、その地(トミといって、一説に茶臼山古墳のある鳥見山付近)を統治していたという饒速日尊:ニギハヤヒノミコトだという伝承がありました。この神さんは不思議な方で、実は三輪山に祀られているという伝承もあります。すると、ニギハヤヒとオオモノヌシとの関係が気になってきました。
しかしここでニギハヤヒのミコトを「先代舊本紀(せんだいくじほんぎ)」によって詳細に分析するのは私には荷が重いので、簡単な結論にしておきます。
今ある他田坐・天照御魂神社は「おさだにいます」というように磐余の訳語田(おさだ)に似ていて、もともとは茶臼山古墳近所だったかもしれません。またネットでは巻向駅北へ200mほどのJR線東側の辻にあったともありました。ともかく数度場所を変わったようですが、この度発掘現場の真西すぐに鎮守の森を発見し、なにかしら奇縁を感じました。
ニギハヤヒの尊は天も国も照らすという名称があるわけですから、太陽神だと想像できます。そして太陽神というと天照大神が伊勢・皇大神宮に祀られています。この二柱の神さんはどういう類縁があるのでしょうか? 謎は一層深まります。
まとめ
Jo翁とともに、現代のJR巻向駅北西の大型建造物発掘現場へ行ったはずなのに、天照御魂神社に遭遇して、話が太陽神・ニギハヤヒにまで飛んでしまいました。
さて、この話の状況証拠として。
☆今回の纒向遺跡発掘現場近く真西に「天照御魂神社」があり、一見して天照大神を祀っているようですが、もともとの祭神は「あまてるくにてる ひこ ほあかり のみこと」、即ち饒速日尊です。
☆纒向遺跡とその周辺には、ニギハヤヒをお祭りした神社が多いです。
☆崇神紀には、天照大神や倭大国魂や大物主神が描かれています。
☆天照大神は伊勢へ行ってしまわれて、大物主(大神大社(みわ))、倭大国魂(大和神社(おおやまと))、そして天照国照(天照御魂神社)が纒向周辺に残りました。
☆ここで天照国照彦(日子)火明命とはあまねく世界に光をもたらす太陽神であり、神武天皇以前の統治者・ニギハヤヒの尊だという伝承があります。
☆私は、三輪山周辺に現れたこの四柱の神々は実は同一神・大物主神という名で呼ばれた神と想像しました。それが個性によって名を変えて残ったのではないでしょうか。
☆崇神紀でアマテラスとオオクニタマとを宮中から分けて離して祀ったのに、夢枕に現れたのはオオモノヌシでした。天津神と国津神とを分けたはずなのに、国津神らしいオオモノヌシが現れて、オオクニタマとオオモノヌシとの入れ替わりのように思っていました。
☆またアマテルクニテルもオオクニタマを媒介にしてオオモノヌシと同一と思えたのです。
☆アマテラスもアマテルクニテルを媒介にしてオオモノヌシと同一と思えました。
以上から、おそらく三輪山周辺におられる神々は大物主神の別の顔で、伝承によれば天照国照日子火明命とは、ニギハヤヒのことであり、それは崇神紀にあらわれたヤマトトトビモモソヒメノミコトを神妻とされた大物主神でした。
このように古代の神々のことは、時が経つと、現代人の見る目によって様相を変えるのだと、まとめておきます。
参考
日本書紀(岩波書店、上下)
崇神天皇/肥後和男(秋田書店、1974)
大和・紀伊寺院神社大事典(平凡社、1997)
先代旧事本紀訓註/大野七三(批評社、2001)
古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎/安本美典(勉誠出版、2003)
日本の神々『先代旧事本紀』の復権/鎌田純一・上田正昭(大和書房、2004)
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コメント
浅茅原の旦那さん 今晩は
崇神天皇の時代には女王としてヤマトトビモモソヒメが存在し、その次の垂仁天皇の時代には豊鍬入姫命さんが女王、トヨとして君臨していたと考えるとどうなんでしょうか。
応神天皇以前の『国のかたち』は巫女さんが頂点にいたのと違いますかね。外国からみると女王の国と見えたと考えればどうだろうか。
記紀が書かれた時代には、完全に中国の『国のかたち』が国際標準規格として存在したので、三輪王権時代の『国のかたち』は正史に記録できなかったと思います。
さて、天照御魂神社ですが、2007年12月に連れて行って貰った太秦の元糺の杜にも有りましたね。木島座天照御魂神社です。秦氏ではないですか、元々は葛城が本拠と考えていましたが、纏向遺跡のど真ん中にお座りなので、頭が混乱しています。
少なくとも、秦氏は出雲系であろうと考えていましたが、謎が深まりました。桜井市立埋蔵文化財センターの『ヤマト王権はいかにして始まったのか』を読んでいると、太田微高地と今回の大型建物遺跡、天照御魂神社の場所である太田北微高地は3世紀初頭の庄内0式期の土器がでる中心地なんですね。
その後は東の相撲神社の北の場所に中心地は移動したようですね。トヨの時代やろね。
投稿: jo | 2009年11月30日 (月) 20時42分
Joさん
モモソヒメ→トヨスキイリヒメ
崇神天皇
このラインはものすごく分かりやすいですね。
トヨスキさんが相撲神社とか穴師とかの近所に移られたから、崇神さんの陵墓は、その北につくられたのでしょうか。
もしかして、茶臼山古墳はトヨスキさんが被葬者なら驚天動地のこんちきちんですな。
はい。
蚕ノ社が、同じ天照御魂さんだとは、先代旧事本紀の解説本を読んでいたとき気づきました。
しかし秦氏との関係が複雑なので今回はパスしましょう。難しすぎます。
追伸
ちょっとね、身体は大丈夫ですが、気鬱が激しくて文章を書くのが辛くて遅くなりました。頭の中は、古いPCをUSBでブートすることの可否、無理なときは直接DVDを直づけ(USBじゃなくて、ATA接続)してDVDで立ち上げるなどと、それがうまくいかないので、ますます気鬱。困ったもんですたい。
投稿: Mu→Jo | 2009年12月 1日 (火) 17時54分
joさん
秦氏が出雲系という説ですか...私は愚直に記紀や新撰姓氏録を信じて、秦氏は諸蕃であって、国津系の出雲とは違うと思いますがね...まあ、秦氏は、日本の土着の色んな勢力に寄生していた渡来氏族なので、出雲系の氏族とも仲が良かったとは思いますが...
muさん
天火明命とニギハヤヒに関しては、同一人物という説と、そうではないという説がありますが、どうなんでしょうか...少なくとも、皇室や尾張氏など朝廷側では、両者は別とみていました。同一人物と主張するのは、物部氏だけですよね。海部氏系図では、物部氏の言い分を思わせるような名前が出来てきますが...そんな海部氏も、物部氏は違うと見ていたようで...
一方、神武天皇が畿内に進入してきた時に、高倉下命という人物が出来てきますが、これが、天香語山命(天火明命の息子)か、天村雲命(天香語山命)の弟かという説がありますが...私は、これに注目しています。だとしたら、ニギハヤヒって何者ですかねw?
私は、案外、ニギハヤヒというのは、天火明命一族から王位を奪った人物なのでは?と思います。中国でいう、王莽のような人物です。が、神武東征などで、ニギハヤヒとナガスネヒコの陰謀は潰えたと。ニギハヤヒとナガスネヒコの妹との間に産まれた娘が、天火明命の后になって、天村雲命を産んでいますしね。
投稿: ひみこ | 2009年12月 2日 (水) 22時32分
上に書いたこと修正です。
天香語山命の息子が天村雲命ですよね。あと、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に生まれた娘が后になった相手は、天香語山命でした...
投稿: ひみこ | 2009年12月 2日 (水) 22時37分
ひみこさま
秦氏については今だ私は納得ゆく結論に到達していません。少なくとも葛城襲津彦という4世紀末の神功皇后・応神天皇の王権をサポートした政権の時代に、朝鮮半島から渡来した巨大な氏族であると考えています。
5世紀末に雄略天皇の時代に葛城グループは滅ぼされれますが、その後山背(京都盆地)に移動し賀茂氏とともに再起を図ったと考えています。
秦氏は常に政治の表舞台には登場しない華僑という生き方をしたと思います。4世紀末の朝鮮半島の情勢を考えると、従来の楽浪郡・帯方郡という中華王朝の植民地であり多くの華僑が地盤を築いていました。
秦氏は中華の血を引く半島に土着化した氏族ではなかったかと推測しています。だから、秦の始皇帝を始祖に仰いだのではないでしょうか。
これもあくまで推測の域であり、考古学的な証拠がある訳では有りません。いずれは、韓半島の考古学成果と日本の考古学と歴史学の進歩で解明される事を期待しています。
投稿: jo | 2009年12月 3日 (木) 00時59分
謎のひみこさん
いつも、コメントありがとう。
さて、
と言ったきり、う~む、です。
1.秦氏のことは、畏友のJoさんに任せきりなので、なんとも回答いたしかねます。
以前Joさんに質問したのですが、「一体、氏とはどのくらいの範囲で、どういう縁があれば、●◆氏と名乗ったり、呼ばれたりするのでしょう」と。
で、答えはよく覚えていないのですが、農業したり、仕事したりするのに、鋤とか鍬とか、材料とか、施設とか~ともかく、たとえば秦氏の仲間(社員かなぁ(笑))にならないと、生きていけなかった、とのこと。
Muは、秦氏とかいろんな「氏」は、氏の長者や直近親族は別にして、今で言う地方公務員とか、企業宮仕えなんだと考えています。
だから~~
2.なんというか、物部氏を基本に考えているのです。
つまり先代旧事本紀派ですわな!。
古代史のややこしい世界観を、正史の複雑さを、解きほぐすために、ちょっと別の視点を導入して、古語拾遺とか物部氏伝とかで、補助線を引こうとしている最中なのです。
だから、当面、ニギハヤヒ=天照国照彦火明命としないと、麻のように乱れてますます混迷。
このくらいで、今夜はご勘弁。
3.いま書いている最中にJo翁からコメントがありました。
また明日にでもかんがえてみます。
投稿: Mu→謎のひみこ | 2009年12月 3日 (木) 01時09分