小説木幡記:2009/11/20(金)週末の決算:相棒や助勤会や、その序詞
しばらくMuBlogをお休みした。倒れていたわけではなくて、木幡に帰還すると、夕食はいただくのだが、あとのことが記憶から消える。つまりすぐに眠って朝になる。本当にこまったものだ。
いくつかメモしておこう。
1.決算と精算
男女関係がなくなるとき、世上では「精算する」と以前は言われていた。週刊誌のタイトルにもあったように覚えている。これがなぜ精算であって、決算じゃないのか、ふと考え込みだして心が路頭に迷った。実は、経理にうとく、精算と決算の言葉の違いは知らない。なんとなく、〆を入れるような雰囲気だが、まさか「あの人とは、決算した」だなんて用法は日本語にないだろうな。あれば、なんらかの違いもわかってくるかもしれない。
2.リベラル
最近新聞やニュースで「リベラル」という言葉が、どうにも余の使ってきた用法とは異なることに気付いた。余は、リベラリズム、リベラルを英国の「伝統的保守本流リベラリズム」ととしてとらえてきたのだが。世上では、社民党や民主党の少し左派がかった、社会主義に傾する風潮をさして「リベラル」と言っているように感じられる。日本での「リベラリズム」とは吉田茂の<自民党における基本態度・保守本流>だと青年時に覚えた余には、どうにも混乱してしかたない。言葉は変化するものだから、「間違い」とは言い難いが、世間がおかしいのか、余の記憶や学習が間違っていたのか、いずれ確かめておこう。
3.じょことば:序詞
言葉の基本的な使い方に迷うことがある。なにげなく使ってきた言葉が、その定義内容をしっかり把握しようとすると、急に宙をつかむような、豆腐に釘を打つような、わけのわからなさに呆然とすることがある。
ラジオで「じょことば」と「まくらことば」との違いが耳に入ってきた。熱心に聞いていたわけじゃないので、結論部分を聞きそらした。
数日前に教授会があって、となりに日本語学の専門家がすわっていたので、「センセ、序詞ってなんでしょう?」と伺ったら、突然椅子ごと後ろに身をうつし、さらに右手の専門家をさして、「Mu先生、そういうことは私よりも、こちらの専門家にどうぞ」と、別の方を紹介して下さった(笑)
「あー、先生、お見それしました。先生が序詞の専門家とはまったく気付きませんでした」
「いえいえ、Mu先生、どうぞ質問内容をおっしゃって下さい」
「ええ、あのひつこくながながしい序詞とは、一体何なのです?」
「それは、奈良時代でしょうか、平安時代ですか? どちらの<じょことば>でしょうか」
「え! 時代によって異なるのですかぁ~。それじゃ、奈良でどうぞ」
「はいはい分かりました。奈良時代の序詞は、一般に「植物、花や木」になぞられて比喩的につかわれることが多いですね」
~
「はあ、なんとか分かりました。ありがとうございました」
大学とは実に有難い世界じゃ能()。
さて。ことは歌謡に深く関係するのはわかったが、序詞は枕詞(まくらことば)にくらべて何句にわたってもよいことも分かったが、なぜ日本語の中には、このような長々しい用語連糸が使われるようになったのか、少し勉強する必要を感じた次第。教授会開催まえの数分ではそこまで伺うことはできなかった。
あとで調べてみたら、用例があった。
足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ
「長々し」に先の3句がかかってくる。この3句が序詞で、長いを表現するのに長い序詞がつかわれている。そしてこのうち「山」にかかる枕詞は「足引きの」となる。序詞と枕詞とは似ているようで違っている。どこがどう違っているのかは、今の余には分からない。いや、まことに楽しく不思議な世界だ。
4.相棒
水曜日の夜だったか、TVドラマ「相棒」を見た。見るつもりはなかったのだが、江戸から突然指示があって「相棒をみないと、呪われる」という風な意味を味わったので、みることにした。
言葉としては単純に「Jin仁もよいが、相棒もおもしろいよ」だけなのだが、余の研ぎ澄まされた感性ではこれを「相棒を見ないとどうなるか知らないよ」という強烈な呪詛に聞こえたわけじゃ。変換効率が高すぎる余は、ときどきこれで病気になる()。
さて。どうだったか。
うむ、面白かった。関東の話で、第二関越高速道路(フィクション?)を造るのに際して、5年前に国交省の若き官僚が自殺した。ところが、日本の鉄道廃線を題材にした車窓DVD(つまり鉄ちゃんが、車窓の移り変わる風景だけを大型ディスプレイで見ながら、弁当を食べるという趣向)を見ていた右京は、5年前に撮影したそのDVDの「間宮駅(フィクション?)」に佇む人影が、その自殺した官僚三島であることに気付いた。自殺が発見された当日の午後3時頃かな?
おお。なにか変だ、おかしい。その事件は5年前に警視庁の二課が三島を官製談合の容疑で追いかけ回したばっかりに自殺したという、警視庁にとっては蓋をしたい忘れたい自殺事件だったのだが~。
三島に当日会っていないと言い張っていた別の官僚が、実は会っていたというのも、このDVDによって中盤で明確になった。余はそのミステリ趣向に溜飲を下げたほど、感動した(笑)。
ほんま、この相棒は上手だね。
ところが。
それはまだ40分経過のころの話。てっきり、その別の官僚が犯人とおもいきや~。
いやはや、驚きました。実は~。
ヒントは、木に毎日水掛けしても、「花が咲かない」という半分朦朧とした高齢女性のつぶやきなんだなぁ、これが!
(あとでDVDで見る人からは、このMuBlogに火を点けられるかも知れないが、いや、本心からおもしろかったので、ネタバレも勇み足とおもって、ゆるしてつかーさい)
ドラマ「相棒」って、ほんまに上質なミステリだねぇ。見ておいて良かった。となると気になるのは裏番組の「浅見光彦(内田康夫先生原作)」。それを思うと夜も眠れなくなる。一体どちらを見ればよいのか、身を引き裂かれる思いがする脳。これで再度「浅見さんも面白いよ」とでも、呪詛が耳にはいったなら、余は「現代TVドラマ、引き裂かれたロートルの呪殺死」となってしまう。
5.秋の夜長の助勤会
昨夜助勤たちと、伏見で助勤会をおこなった。夏の助勤会は余の欠席で、そのリベンジでもあった。
余、会議で15分遅れたが間に合った。みんなワイルドなくらいに食べておった。感動的な食べっぷりをみながら、昨日午前の演習発表評価の終了を無事言祝げたことに安心した。別途写真を交え正式な倶楽部行事として記録もしようが、実はこの<5>が今日の記事の本旨。あとはすべて序詞・枕詞となる。
だから、こうとも言える。
足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し演習「中間発表」終了を言祝ぐ記事をこうして描いたぞよ。あとは完成まで一ヶ月。それが済めば住の江の岸に寄る波夜さえも考え続ける労苦も無くなるのう。いやはやその間本当に日々受講生たちの難儀をそばで見、陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむ心を幾夜も抱き続けたことでしょうが、昨夜の焼肉やアジの干物やクセになりそうなキュウリ漬けで、くつろいでいただいて重畳至極。
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コメント
日本語をお勉強のようですね
普段使ったり読んだり聴いたりしている日本語に関して、ハテ?と考えるのはまことによろしいことだと思います。
やはり(始めに言葉ありき)であります。
今の若いもんは日本語を知らん、とか嘆くよりもご自身で日本語とはなんぞや?と問い直してはる気配。
無条件で賛同いたします。
いつまでたっても自分の言葉づかい、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、なかなか自信も持てないし満足どころの話ではありませぬねえ。
もう死ぬるまで無理なのだろうか?とも思いますが、死ぬるまでには少しはマシな言葉づかいをできるようになりたいと思っております。
貴兄におかれましてもまだまだ研鑚中のご様子。
お互い死ぬるまで修行や、の精神でいきましょうや。
投稿: ふうてん | 2009年11月20日 (金) 23時54分
ふうてんさん
この世には、何十年生きていても知らないことだらけです。だから、ディジタルとか紙とか粘土板メディアの優劣を考える前に、わたしは「ディジタルメディア」については、過去遡及形知能的探索システムが必要だし、それがあれば、たとえ現代や近未来の課題でも、すでに数百年前、数千年前に「解」ないし「近似解」が存在していて、将来に活用できるのではないかと思っています。その象徴が社会的記憶装置としての「図書館」だと思います。
ところで「言葉」ですね。
言葉は長い長い人類史での積み重ねがあって、現行使われていて、その元々をただしていくと、「なぜこんな風につかっているのか」「なぜ、こういうときに限って、こう言うのか」などと、面白い事例に出会います。
白川静先生のもっともハンディな「常用字解」をときどき眺めて古代中国が漢字をどんな風に造ったのかを知って、それが現代の日本でどうなのか、落差やネジ曲がりを味わうことがあります。
日本語については、古典の先生方との顔見知りが結構多くて(葛野や、よその世界で)、ときどき中学生や高校生並の質問をして、楽しめます。こういうときに専門家はこの世に絶対必要だと感じます。日常の中で、ものごとの本源を訪ねるのが専門家ですね。普通の人生で、一々そういうことをしていると、生活が壊れます(笑)。
ただし、専門家のエイリアス、身代わり、代替として図書があります。これは通時的にも共時的にも厖大な時空間をあつかっていますから、図書館利用や、たかだか1千円~1万円程度の出費で異世界を感得できるわけですから、この利用が落ち込む世間のうかつさを、信じられない思いで見ています。
(未整理のネットメディアは、言ってみれば言葉や思想や感情のゴミためです。ちゃんと整理して使わないと、腐敗した悪臭に気分が悪くなり、お腹もこわします)
もちろん図書の内容は、選べば濃縮栄養食のようなものですから、1冊舐めるように読めば、数週間、数ヶ月は頭がぼんやりしてしまって、世事やよしなしごとを忘れることもできるという、一石二鳥の効能もあります。
学んで時に行うことについては、またカテゴリーが異なってきますので、感想は別途にします。
要するに、「言葉」を学ぶ時、私は言葉自体がもつリズムや言霊と、そのものが指し示す「実体」とを、両方味わったり知ったりすることが好きです。こんな楽しいことの、味をしめてしまうと、いくつになっても図書や種々の専門家を手放せませんなぁ。
投稿: Mu→ふうてん | 2009年11月21日 (土) 04時57分