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2009年11月22日 (日)

卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌

承前:卑弥呼の墓(013) 纒向遺跡の宮殿跡

1.謎の古代都市は邪馬台国か
 2009年11月16(月)の午後7:30~8:00に放映されたNHKクローズアップ現代「謎の古代都市は邪馬台国か?」(参考1)はおもしろく、特に現地を未見の人々には纒向遺跡の全体像がCGで容易に分かるようになっていた。一番の特徴は、纒向遺跡の全体および今回発表された宮殿跡や、280mの巨大前方後円墳「箸墓」の周りが、河川と運河で取り囲まれた情景がCGで再現されているところだった。それと符牒を合わせたように翌日の朝刊には「纒向遺跡中枢域は“水の宮殿”」という記事(参考2)が一面にあった。

2.水のイメージ
 二つの情報から一定の確率以上の確度で、纒向遺跡が「水の都」だったと想像できる。このことについては、巨大河川も海もない三輪山近くになぜ「水」が昔から縁深く記憶されてきたのか、自らの深奥で疑問に思ってきた。

 一つは奈良盆地が太古には湖だったという説がある。縄文期~弥生期の今から6000年ほど昔、奈良盆地が大和湖といってよいような巨大な湖だったという説である。山辺の道付近にある遺跡が海抜60m以上の地点に点在することが傍証となっている。昔からこの説は頭に残っていたが、最近ネット情報を見てみたところ(参考3)それほど大きな進展が無いので、今回の纒向遺跡とは話が違ってくると、時代も異なっている。ただ、三輪山や箸墓が湖に接していたというイメージは私の中から消えることはなかった。

3.磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)

崇神天皇磯城瑞籬宮跡(石碑)
 もう一つは三輪山の西南麓(纒向の大型建造物発掘現場から2~3km南)に崇神天皇宮跡という伝承地がある。ここは訪れたことがあり、写真付きで以前記事(参考4)を公開した。この瑞籬(みずがき)という意味には「水垣」の意があると記憶に留めたのは、高城修三さんの解説による「「水垣」は初瀬川(大和川)と纒向川に挟まれた三輪山西麓を指していたようである。」(参考5)からのイメージが記憶に焼き付いた。

 古事記(新潮日本古典集成)中つ巻によれば「御真木入日子印恵(崇神天皇:みまきいりひこいにゑ)の命、師木(しき)の水垣の宮に坐(いま)して、天の下治めたまひき。」とある。

4.三輪王権と邪馬台国
 今回の新聞報道(参考2)では、10・崇神天皇(磯城瑞籬宮:しきのみずがきのみや)、11・垂仁天皇(纒向珠城宮:まきむくのたまきのみや)、12・景行天皇(纒向日代宮:まきむくのひしろのみや)と紹介がある。垂仁天皇と景行天皇の宮跡は纒向地域の北東にあたり、崇神天皇の宮跡は三輪山の西南麓にあたる。そして水垣という想像はクローズアップ現代のCGで明瞭に現れていた。この三代の天皇は三輪山をぐるりと取り囲んでいるので、古くは三輪王朝と呼ばれていたが、王朝の定義変更があるので現代なら三輪王権と呼べばよいのだろう。記紀伝承とはいえ、現実に三輪山があり箸墓があり、巨大な前方後円墳がいくつもあり、そしてこの度は巨大建造物の遺跡が発掘されたのだから、三輪王権が実在したことは確実と考える。

 問題は今回の発掘と従来から言われてきた三輪王権との関係になる。従来は纒向遺跡の実体が分からなかったので、三輪王権と(仮称)纒向王権との関係は密ではなかった。ある程度明かなことは、三輪山の近くに纒向型と分類された古墳(参考6)が多く、それが箸墓に徐々に結びつき、箸墓の近くが三輪山麓の三輪王権宮居伝承地である、という地縁関係である。そこには、王権継承の実体については蓋然性が残るが、絶対的な地縁関係がある。仮に今回の大型建造物をXという宮殿とするならば、そのXは地縁において、

 三輪山麓{纒向王権{X}、三輪王権{磯城瑞垣宮、纒向珠城宮、纒向日代宮}}

という関係式に表せる。この式の意味内容が全体として邪馬台国なのか、あるいは三輪王権だけが原始大和王権なのかは今後の調査や研究で明らかになってくるだろう。

 そしてそこには川があり、大溝(運河と想像)跡もあった。おそらく、CGで表現されたように、このあたりは水で拠点が結ばれ、遠く難波まで水路があったと想像した。そして水都・邪馬台国が私の脳に定着した。事実の幾つかを断片的に知っていても、それがイメージに結ばれるのは何かの引き金が必要で、今回はクローズアップ現代の纒向CGと、翌朝の新聞記事がもやもやした考えに焦点をあわせてくれたようだ。

5.まとめ
Makimukuunnga2_2
↑卑弥呼誕生/金関恕、大阪府立弥生文化博物館.東京美術、1999 p65 図版165より引用
 今回の記事のまとめをどうするか迷っていたところ、手元にあった1999年の図書に思いも寄らない地図が小さく掲載されていたことに気付いた。すでに20世紀末に今回の大型建造物発掘地や、河川や運河(大溝)にかこまれた纒向遺跡の全貌を表す地図があったことに驚いた。

 地図では北から5本の川が点線で「旧河道」と表現され、箸墓の南に現・巻向川がある。そして発見された「巻向大溝」はクローズアップ現代でも最初に「纒向小学校の校庭の端近くで大溝が発掘された」と説明があった。この地図では石塚と矢塚古墳の間に小学校がある。それはたしかに、川と川とを結ぶ直線的な人工の運河だと想定できる。

 図書刊行から10年を経てJR巻向駅北方で大型建造物が発掘されたが、それに合わせてこの地図はさらに詳しくなっていくと思う。奇しくもというか地図の「柵に囲まれた建物」とは、今回発掘現場そのものを指している。これだけの河川や運河跡があり、さらに箸墓古墳は280mの長大な外縁を二重の周濠が取り囲み、その大きさは400mを越すという発掘結果(参考8)も発表されている。まさに、纒向は「水の都」だったのだろう。

6.課題のメモ
 いくつか気になっていることがあるが、以下はすべて私には実証できない典拠不明のメモである。

 ★3世紀ころ、日本の半分くらいが連合国・倭国として存在し、その首都・邪馬台国に倭国女王・卑弥呼がいたとする。おそらくそれは纒向遺跡だったと考えている。その倭国と、記紀に残った神武天皇や三輪王権との質的な違いが、まだ私にはよく分からない。後者は男王が中心になり、祭祀が背後に隠れたということは想像できる。

 ★3~4世紀ころの王が居た地域は現・桜井市の中の隣近所で、歩いて動ける範囲だが、どのような経緯でイワレや橿原の神武天皇即位、あるいは後に茶臼山古墳のような巨大・大王墓(前方後円墳)が作られていったのかは、謎のままである。一般に神武天皇は架空と言うのが礼儀のようだが、私は記紀というフィクションは魏志倭人伝よりも正確に本質を描写していると考えてきたので、今回の纒向遺跡・大規模建造物と、約4km南にある茶臼山古墳とが、リンクすることを心待ちにしている

 ★それにしても、金印・親魏倭王印はどこにあるのか。魏が滅びたなら返還先がないから国内にあると想像する。どこかの井戸に投げ込まれた事例は、アッシリア滅亡の時にはあった。もし放擲されたなら、卑弥呼・トヨ政権と三輪王権に政治的断絶があったとも想像できる。

 ★昨日TVクイズ番組で、日蝕と卑弥呼の死とを丁寧に描いていた。後日言及する予定だが、西暦247と248年の二回にわたり、日本で日蝕があったようだ。そのことと卑弥呼の死亡時期とを合わせて説明があった。

参考
 参考1:NHKクローズアップ現代(No.2817)謎の古代都市は邪馬台国か?
 参考2:(インターネット:MSN産経ニュース)纒向遺跡中枢域は“水の宮殿”
 参考3:(インターネット)日本の古代史がつまった奈良(PDF)(JAXA衛星利用促進サイト:宇宙航空研究開発機構
 参考4:(MuBlog)磯城瑞籬宮跡
 参考5:(MuBlog)神々と天皇の宮都をたどる/高城修三
 参考6:(MuBlog)桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)
 参考7:卑弥呼誕生/金関恕、大阪府立弥生文化博物館.東京美術、1999
 参考8:(MuBlog)卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認

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コメント

西暦247年と西暦248年に皆既日食があったという説は、邪馬台国九州説論者の安本氏らが提唱した説ですが、あれは市販の天文学ソフトの結果であって、地球の誤差が考慮されていなくて、天文学者らが、その説を否定していましたよ。

NASAのサイトを見れば分かりますが、西暦247年、西暦248年の二回続けての皆既日食はありません。

よって、あの番組のテレビ制作会社のミスだと思います。が、未だに、あの情報が一人歩きし続けていて、その知識を元に、テレビ番組を作ってしまったのでしょう。

投稿: ひみこ | 2009年11月23日 (月) 17時40分

ときどきお言葉をたまわります。
ありがとうございます、ひみこさま。

さて
 そうでしたか!(笑)
 いや、MuはTVなどを真剣に見る質なので、ときどきそのまま受け入れて、あとで恥をかきます。
 地球も1800年もたつと地軸がずれますから、そういう補正が含まれていないソフトですと、関西と東北くらいの日蝕帯の違いをみせてしまうでしょうね。

 この件、独立記事として言及するときは、ひみこさまのアドバイスを忘れずに、補正したいと思います。

(今日、じつは纒向へ同好爺と見学してきたのですが、その時その爺さまとも、このTV内容が話題にでました。彼も正確には話しませんでしたが、ちょっと調べた方がよいな、と言っていたところでした。)

追伸
 ただし、247、248年と二回あった方が物語としてはおもしろですなぁ。
 爺さまが言うには、卑弥呼からトヨへの継承は何年か経過したはずだから、次年度継承はおかしいとの話でした。

投稿: Mu→ひみこ | 2009年11月23日 (月) 17時58分

 お疲れ様

 今日、無事に横浜に帰りました。昨日は、松尾大社に出かけました。葛城と秦氏の関係がきになるからです。

 古代天文学で問題があるんでしょうか、元東大教授で国立天文台の斉藤国治さんの論文な筈です。http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2009/06/post-736e.html

 今回も成果が沢山ありましたね。

投稿: jo | 2009年11月26日 (木) 18時21分

こちらからも大型建物の遺構が出土しています。
私はこれこそが卑弥呼の居館と考えています。
http://yamatai.sblo.jp/category/776681-1.html

投稿: 曲学の徒 | 2009年12月 6日 (日) 10時01分

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