伊吹山紀行:倭建命・ヤマトタケルノミコト幻視行
過日、滋賀県米原の伊吹山へ行った。登山口は岐阜県(不破郡関ヶ原町)で、ドライブウェーを走行中に、ナビゲーションシステムが何度も「滋賀県に入りました」「岐阜県に入りました」と話しかけてくるので、奇妙だった。
京都府宇治の木幡から京滋バイパスで名神高速に入り、彦根を越えて関ヶ原ICで降り10分で登山口だった。ここまで、停電中の多賀SAで休憩し2時間近くかけて着いた。高速道路のサービスエリアが日中停電しているのに出くわしたのは、生まれて初めてだった。
登坂中に途中下車して風景を眺めたので、終点まで40分程かかった。行き交うクルマは殆ど無くて、気持ちよく登った。カーブも勾配も全体に緩やかなので、初心者ドライバーでも危険はない。
天気晴朗、風も気温も穏やかで、随分身構えてブルゾンなど用意したが、ほかほかしていた。10月半ばだと、倭建命(やまとたけるのみこと)を打ち据えた氷雨もない。ただ現地に住んでいないので分からない。たまたま好天だったと考えておくのが、登山でもドライブでも大切な心構えなのだろう。
そのままよ月もたのまし伊吹山 元禄二年秋 芭蕉
奥の細道が終わる頃、芭蕉は46歳前後だった。岐阜県大垣藩士の家で作った句。大垣から伊吹山が見えることがわかる。高速道路上では関ヶ原ICから名古屋に向かって、次に大垣ICがあり、地図で眺めても近い。
1600年の関ヶ原の戦いで、伊吹山が話題になった記憶はないが、山の入り口が関ヶ原なのだから見渡せても不思議ではない。どこが何なのかは分からない。松尾山とか、家康陣地とか大谷吉隆墓とか決戦地とかが地図にあった。だが、現実の地形をみても、区別はつかなかった。
ただ秋のススキの穂の間に410年前の姿がちらちらしていた。
ただし関ヶ原といえば別の感興もわく。すなわちこの地は、地図ですぐに分かるが不破の関跡でもある。すると8世紀の壬申の乱に思いが及んだ。この関ヶ原で、三重から入った大海皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇)は、長男の高市皇子(たけちのみこ)に全権をたくし、高市軍は現在の彦根、犬上をへて大津近江宮へ向かったわけである。(MuBlog関係記事)
頂上ちかくの駐車場から湖北を眺めた。写真左上に薄く竹生島が見えた。別の写真で拡大しておいた。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、伊吹山から湖北を眺めただろうか。剣を尾張の恋人のもとにおいたまま徒手で山に登ったのだから、なにかを見ようとされたのではなかろうか。その「なにか」は、荒ぶる神とするなら周辺の土着の民の様子であり、単に高い所へ登られたなら、おそらく琵琶湖を見たいと思われたはずだ。
この時代(4世紀ころの英雄時代か?)に、現在の東海道が整備されていたとは思わない。大和に帰参復命するなら、通常ルートならば三重県から現在の桜井に直行するはずだから(つまり、後世大海皇子らが吉野から三重に抜けた逆ルート)、琵琶湖を眺めることは出来ない。だからこそ、尾張からわざわざ大垣、関ヶ原に周り伊吹山に登られたのだろう。
そんな想像をするほどの、絶景だった。
この情景を見て私は写心がつのった。伊吹山という自然に、山肌を削りコンクリートを吹き付け落石防止柵と蔽いを被せて道を付けた。それが年月とともに砂に埋もれ土に埋もれやがて植物の繁茂に隠れる、その寸前の姿だった。たとえば鉄道模型ジオラマとしてこれほどの絶景はなかろう。レールを敷いて強力なEH500登坂機関車を走らせれば、静止画が動き出す、……。
自らが小一時間前に上り、これからまた下るドライブウェーは倭建命の時代はなかった。これからもいつまで道として続くかは分からない。しかし今このたびは眼下に道がある。人道でもなく獣道(けものみち)でもなくコンクリートやアスファルトの灰色の線が続いていた。
時速30km制限。こういう時代に生きてこういう時代に楽しんでいる我が身を、疎ましくは思わない。人が生きている限り、周りと自然と道を通す関わりを持っていくのだろう。
それにしても、気分のせいか写真をみているといささか神(かむ)寂びた空気が見て取れるようになった。ここに氷雨打ち、雲わき起こり風ふかば、そこをよろぼい登る人影さえ見えてくる。
不思議な情景だった。
伊吹山紀行、旅の終わり
旅の終わりは高速道路にもどって午後早くに木幡にもどった。それから何日かへて今記しながら、この伊吹山紀行は初夏の頃から旅程にあがったことを思い出した。今何故伊吹山? という疑問はまったくわかず、ただただ倭建命(日本書紀では日本武尊)が、現実に滅びていく最後の旅を知っておきたかったことにつきる。
倭建命との付き合いは小学校以来だから半世紀にもなる。
青年時に彼の生と旅と死とを深く知ってから、その神話はいつしか私の中で明瞭な形をした歴史に変わっていた。伊吹山で彼を悩ました白い猪(記)、あるいは大蛇(紀)は氷雨をふらし、言挙げした青年をうち叩いた。かれは足元もおぼつかなく麓に降りて、泉のそばでしばらく眠り、やがて三重の能褒野(のぼの)に至り、その地で亡くなり白鳥となって大和に帰っていった。
永遠の青春が倭建命の白鳥として、目に焼き付いた情景だった。
その地の神とは、白い猪や鹿や牛、あるいは蛇であれなんであれ、自然災害を表しもするが一方その地の土着の民も意味している。ヤマトタケルは草薙の剣を、尾張のミヤヅヒメのもとに置いたまま、伊吹山の神に言挙(ことあげ:屁理屈を言いつのる、言葉で刃向かう)した。言挙げしたのは、彼の半分が人間だったからだろう。白鳥となって大和にもどったのはもともと半分が大和の守護神だったからだ。かくして倭建命は人と神との間に立って伊吹山の神に、人として言挙げし、破れた。そして破れたことで神になって大和に戻った。
その伊吹山の神は2009年10月の中旬、穏やかだった。
風さえも冷気がなく、肌に心地好かった。私は言挙げせず、ひたすらハンドルを操作し安全に頂上近くの駐車場にまでいき、そこで蕎麦をいただき、四海を眺めた。伊吹山の神は、私の穏やかなドライブに雷(いかずち)を落とすでもなく、無事に木幡まで送ってくださった。良き日であった。
写真集:クリックすると拡大写真です。
参考
伊吹山ドライブウェイ
| 固定リンク
「近江」カテゴリの記事
- 小説木幡記:はるかなる近江肉(2012.08.01)
- 小説木幡記:夏だね(2012.07.31)
- 小説木幡記:だいじょうぶ、やばい、てんぱる、KY/DQN/JK/JD(2012.07.23)
- 小説木幡記:読書モード・文庫もってベッドに入ろう(2012.07.20)
- 小説木幡記:医療と教育(2012.07.18)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
Muの旦那はん
この記事にコメントしょうとしたら、桜井茶臼山古墳の記事が掲載されたので、先にそちらにコメントしました。
ところで、ヤマトタケルが身罷ったと考えられる三重県亀山市田村町女ヶ坂の『ノボノ神社』をグーグルアースで検索しましたが、伊吹山とは随分と離れた場所ですよね。
タケルは関が原を通過して近江に入ろうとしたが、不破の関で妨害にあったのでしょうか、そして敵対するグループは伊吹山に本陣を構えていたのでしょうか。そして、戦い敗れ傷つき後退し、桜井茶臼山古墳に通じる伊勢街道からヤマトに入ろうとしたのかも知れない。
だから、亀山市で身罷られたのか知れませんね。問題は、伊吹山に陣取る勢力は誰だったかですね。不破の関、関が原を抑えていた勢力でしょうね。
投稿: jo | 2009年10月23日 (金) 13時34分
Joさん
概数すぎますが、亀山と尾張熱田神宮間が40km程度弱。
伊吹山から熱田神宮が50km弱
伊吹山から亀山が50km弱
二等辺三角形ですね。50kmというと、京都大阪程度の距離だから、健脚だったら朝から晩のうちに着くでしょう。
と言う状態で、米原市の伊吹山を治めて居たのは誰か? となりますね。尾張とは、おそらくミヤヅ姫と縁を持ったので、親戚になって安全圏を得たのでしょう。
うむうむ。
そうでした。神功皇后の出身は、息長(おきなが)でしたね。息長氏は湖東全体、つまり米原あたりも仕切っていたのではないでしょうか。
もう、決まり。
息長氏が日本武尊を破ったのと違いますか?
ついでに、そこの出身皇后さんは、後日日本武尊の息子、仲哀天皇を北九州香椎宮で、まあ、ややこしい事なさったんでしょう。(Muは暗殺と考えています)
怖ろしい日本神話歴史の裏を覗いた気がしました。
blogのコメントって、素晴らしい!
よい、ご指摘ありがとうさん。
投稿: Mu→Jo | 2009年10月23日 (金) 15時05分