水銀朱:桜井茶臼山古墳石室の情景
承前1:2009.06.14 桜井・茶臼山古墳の後円部構造物、結界(玉垣)、神社?
承前2:2009.03.11 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場
参考
(JoBlog) 桜井茶臼山古墳 竪穴石室公開
(産経ニュース) 石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認
(NHKニュース 2009.10.22 19:18) 桜井茶臼山古墳 赤く塗られた石室「水銀朱」 (動画)
(47news) 大王の石室、朱一色 (動画)
1.はじめに
昨日(2009.10.22)の夕方帰路、車中でニュースが流れ信号待ちで画面を確認しました。何をみたかというと、上記参考の「NHKニュース」です。
概要を言う前に、いくつもの関連記事を冒頭にあげたのは、読者によっては煩わしいことだろうと想像しながらも、この世に長く生きていても、自分の力だけでは現実を解釈することも、問題を指摘することも、意義を見つけることも出来ないからです。願わくは、参考記事URLが永久的な設定であればよいのですが、将来消滅している可能性も充分にあります。ですから、今のうちにご確認願います。
さて。60年前に橿原考古学研究所によって発掘された奈良県桜井市茶臼山古墳の石室内部が、昨日正式に公開された、というのがこのMuBlog記事の要旨です。それ以上でも以下でもありません。
2.ニュースとして何が大切なのか
いくつかの記事を眺めていて、また私自身がまとめた記事も見返して、今回の石室内部情報公開がどういう意味をもつのかを考えてみました。
2.1 古代天皇陵クラスの規模と副葬品を持つ前方後円墳の内部調査
現代の日本では、一般に宮内庁書陵部が管理する天皇陵、関係墓、陵墓参考地は公開されていません。しかしその指定がない大規模古墳は、ごく僅かですが研究対象となっています。大阪府高槻市の今城塚古墳は継体天皇御陵と推定されていますが、宮内庁の指定した継体天皇陵は隣の茨木市にあるので、今城塚古墳はこれまで詳しく発掘調査されています。
桜井・茶臼山古墳は、60年前に出土した副葬品にユニークな玉杖もあり、おそらく相当に有力な人が被葬者だと想像されます。研究者は確定的なことを話されませんが、実在の卑弥呼、神話の神武天皇から、時代が離れていない大和王権の大王墓としてもおかしくないでしょう。桜井、磐余(いわれ)の近くで宮居された方だと想像できます(笑)。
日本創成、建国時代の難しい問題を解き放つかもしれない3~4世紀当時の大王陵:全長200mの前方後円墳の発掘ですから、意義深いことと思いました。
私の想像では、距離も歴史時間もお隣さんのような北に位置する箸墓や、纒向遺跡との関連が明確に分かるのではないかと考えています。
2.2 石室の構造と多量の水銀朱
☆構造
ここは竪穴式石室で、実はその上部に覆いがあって、それもこの茶臼山古墳の特徴ですが(承前1参照)、今回は地中の石室の構造が詳しく発表されました。その上部は幅80cm、長さ2m以上の石板(1トン以上)を12枚使って石室を覆っていました。つまり天井部分です。
側壁は40cm前後の小さな石板を数千枚積み重ねて壁をなしているわけです。参考ニュースの写真をご覧下さい。手間のかかる作りだと思いました。その石室内部全面に朱(水銀朱)が塗ってあって内部は赤い世界というわけです。
天井石板は分かりやすい設計です。私が作るとしてもそうするでしょう。重い石の蓋をすれば上部に何を置いても、祭りをしても、抜け落ちることはないでしょう。また石室の幅が1.3mくらいなのに石板の長さは2m以上ですから余裕を持っています。
小石板を積み重ねて壁を作ったのは何故でしょう。構造的な強さが大きな一枚板よりも勝っているのでしょうか、あるいは大きな一枚石板を用意するのが難しいからでしょうか。迷路に迷い込みました。土は一般に水分を含みますから、正倉院の校倉(あぜくら)造りのような機能を想像するのは無理だと思いました。吹きさらしの円頂部の石室構造なら外気を取り入れて涼しくなるという効果も期待できますが(笑)。
☆水銀朱
水銀朱とは、自然界で採掘できる辰砂(しんしゃ:硫化水銀)を加工して出来る顔料です。丹とか朱と呼ばれていました。しかし「朱」と言っても当時赤いものは「朱」なので、水銀朱とは限らないわけです。建物に塗られるのはベンガラの赤の方が多いようです。多分「青丹によし奈良の都」の、丹(に)とはベンガラなのでしょう。高価な水銀朱を朱柱に使ったとは思えません。(青は、寺院の青瓦でしたかなぁ~)
一般に丹生神社(にう)は、辰砂・水銀が採掘された近辺に多いとのこと。神さんは丹生津姫(丹生都比売)といって女神です。しかし古代・水銀採掘で有名な宇陀市や、その南の丹生川上神社(こちらの神さま、「ミズハノメノカミ」と丹生津姫の関係は後日に調べる必要があります)では「水銀話」は出てきません。水銀は有毒ですから、現代になって、はばかっておられるのかもしれません。
宇陀など、古代の大和水銀の産地と茶臼山古墳は隣近所です。桜井市には、幾代もの宮がこのあたりにありました。古代の宮廷と水銀とは縁が深いのかもしれません。
黄金に等しい、それ以上と言われる水銀朱を200kgも使って彩色した石室とは、これはやはり大王クラスの前方後円墳以外、考えられません。
3.まとめ
200m級の前方後円墳の石室内部が詳細に報告された意義は大きいです。NHKなどの動画配信はとても有益でした。個々の信条・日本の宗教心から考えると墓を暴いて喜ぶのは下品なことかもしれません。気持ちが細やかな人からだと、それこそ盗掘をする人と同じ扱いを受けることもあります。
しかし現代の科学や学問の積み重ねによって、遠い遠い昔話世界を、大王陵とみなされる前方後円墳をしっかり調査できたことは素晴らしいと思いました。
石室構造の側壁は謎として残りました。天井石は私の想像で間違ってはいないと思います。つまり頑丈で扱いやすい(1トン以上の天井石板が扱いやすいというのはおかしいですが、設計観点からは分かりやすいです)。
多量の水銀朱については、話がますます深くなると思います。
それを使ったのは、綺麗だから、邪を払うから、防腐効果、高価な内装、……。いろいろ考えられますが、古代宗教心にからまる美的な観点が主だったと思います。見る人によって多様に感じられても、どれも間違いではないでしょう。
それよりも。
古代史をみていますと、銅、鉄の採掘と精錬とはものすごく大きな意味を持っていました。
そして今回の発表で、辰砂の採掘も、丹生津姫伝承があるくらいですから、そういう集団が日本中に散らばって硫化水銀を採掘し用に立てたことをまざまざと想像しました。これからは、鉱物採掘と話がでたら、銅、鉄、水銀と三本柱で考えていきます。肝心の黄金は、大仏さんが出来る頃までは大々的な採掘がなかったような気がします(要調査)。そうそう、銀は~。
以上のようなことを、今回の橿原考古学研究所の発表に対して感想を持ちました。
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コメント
Muの旦那さん 御無沙汰です
まさか石室まで調査するとは考えていませんでしたね。地震による古墳の崩落調査で遺跡保護の名目で調査が橿考研でなされていると思っていました。
これは、明らかに何か重大な目標を持って発掘されていますね。
竪穴石室の壁ですが、私も以外な光景に驚きました、JoBlogでも書きましたが直感的に感じたのは時代が下りますが、武寧王の墓です。彼は日本生まれの百済の王ですが、横穴式石室で壁はレンガ(中国江南ではセンという漢字を使いますね)。
後円部の上に築かれた方形の檀とか色々状況証拠を並べると、中国江南の影響が強いですよ。今回の発表は目新しい事は何も有りません。しかし、無駄な発掘は決して橿考研がやる筈ありませんね。発掘は破壊作業ですからね。
しかし、Muの旦那と一緒に桜井茶臼山古墳は忘れられない思い出となりましたね。
投稿: jo | 2009年10月23日 (金) 13時03分
Joさん
この記事関係は、もう一回年内にビッグバンがありそうだね。
Jo記事を読んでいて想像したんです。
つまり
どんな方法であれ、木棺や朱、その他を使って確定的年代を発表するんじゃなかろうか。
もしそれが箸墓の数十年あと、あるいは3世紀末4世紀初頭なら、纒向遺跡とは連続した古墳と考えられますね。
距離にしてほんのわずか、三輪さんをちょっと回ったところの隣同士の墓ですからね。280m→200mと小振りになったのは、卑弥呼さんに近い甥姪、場合によっては孫(笑)の大王、女王クラスかもしれません。
21世紀初頭の日本古代史世界は、もう、なんちゅうか、めちゃくちゃでござりますがな状態になりそうです。
楽しみ。
投稿: Mu→Jo | 2009年10月23日 (金) 15時14分