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2009年10月11日 (日)

NHK天地人(41)出羽米沢での再出発

承前:NHK天地人(40)会津120万石から出羽米沢30万石

米沢
 上杉や直江が数年間住み改修した会津若松城から北へ50kmに米沢がありました。近くには山形新幹線(JR奥羽本線)が走り、現代の交通の便はよさそうです。東北自動車道のある福島は、米沢の東南東35kmです。
 米沢は東京・江戸からは、白河の関を越えて真北に250kmですから、日本の感覚では遠いですね。京都からだと江戸経由で800kmほども離れています。はるばる来ぬる旅をしぞ思うの気分になります。(私には未踏地です)
 ついでと言ってはなんですが、越後新潟の春日山城からは北東に向けて200kmですから、直線距離ですと江戸からより若干近いです。

 ともかく江戸や京都からは遠隔地でした。ただ、ドラマでは、米沢城は上杉が会津に引っ越した時に、直江兼続の親父殿が兼続に代わって入城し、このあたりを整備していますから、全く未知の土地ではなかったようです。


地図:米沢の上杉神社

上杉家や直江家
 ドラマはまだ続くのですから、将来上杉や直江が如何相成ったかはお楽しみとなるわけですが、日本史の中での上杉謙信公の家がどうなったかは記しておいてもよいでしょう。結論は米沢藩・上杉家として紆余曲折をへて明治維新を迎え、伯爵となりました。現代も活躍しておられるようです。

 有名な話としては、米沢藩・初代上杉景勝の次、二代目定勝の娘さんが吉良上野介(きらこうずけのすけ)の奥さんになり、そこに生まれた息子さんが上杉家の四代目当主綱憲(つなのり)となったことです。これは三代目綱勝が急死したので、死後慌てて他家(吉良)から養子を迎えたことになり(末期養子)、これを幕府は許可しましたが米沢藩はこの時30万石から15万石に削封されました。

 四代目当主の実父が吉良上野介でしたから、元禄十五年(1702)師走なかばの十四日、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、実は米沢藩上杉家にとっても危機だったわけです。上杉家の家臣達はなにがなんでも、吉良家に加勢をだすことを止めました。当主綱憲は実父が襲撃されるのを座して見ていたことになります。苦しみは大きかったと想像します。しかしもしも米沢藩上杉が吉良に加勢し江戸市中を騒がせたなら、おそらく米沢藩は取りつぶされたことでしょう。

 こうしてみると、上杉謙信公以来の上杉家は、直系ではなくて「家」の格式伝統の継承として残ったと言えます。もともとドラマの準主役・上杉景勝初代米沢藩主は、謙信公の姉の息子でした(甥ですね)。さらに米沢上杉四代目は他家(吉良家)からの末期養子だったわけです。もっとも、他家とは言っても四代目は二代目の孫ですから、応神天皇五世の孫からすると、近いとも言えます(笑)。

 と、そういう風に考えると徳川家も家康直系という雰囲気は相当に薄くなります。一番有名な事例は八代将軍吉宗は紀州から来たわけですね。つまり、家名を継ぐのが大切だったようです。そうでした! 上杉謙信公ももともとは越後の長尾景虎でしたが、時の関東管領上杉憲実から上杉の名を引き継いだわけです。

みどころ
 今夜のみどころは二つあったわけですが、私は子役が苦手なので(上手でしたよ)、爺さんの話を残しておきます。
 直江兼続の実父・樋口惣右衛門(ひぐち・そうえもん)、高嶋政伸さんが最初から演じておりました。今夜眠るがごとく大往生なさったわけです。

 このドラマで高嶋さんには滅多に言及しませんでしたが、実はお気に入りの俳優でした。樋口惣右衛門の人柄の良さとか、明るさとか、孫娘みたいな後妻をもらって兼続を困らせるところなんか、とても楽しく見ていました。
 当時の武士としては弱点とも思われる武勲に縁遠い人でした。ある意味でソロバン勝負、実は石田三成と同じタイプだったのです。ただドラマの三成は性狷介すぎて、つまり人当たりがよくなくて失敗が多かったわけですが、その点兼続の親父どのは無類の人の好さを画面一杯に漂わせていました。兼続が三成と親友になったのは、三成に親父と同じ傾向を見出していたのかも知れません。要するに合理的なわけです。いや、知恵がある人だったのでしょう。

 惣右衛門がお人好しで後年十代の後妻をもらった剽軽な人とばかりは言えません。最後は家老になっていたわけで、これは兼続が身びいきしたわけではなく、主君の景勝も樋口を大きく認めていたのでしょう。今夜、老家臣の亡骸を前にして、景勝が兼続にはっきりと、明言しました。「樋口惣右衛門に武功はなかったが、それ以上の働きをしてくれた。わしが今こうしているのは、惣右衛門の力があったればこそ~」。

 昔、謙信公が亡くなられたとき、「お館の乱」が起こりました。上杉謙信公の後継者争いで、景勝をふくめた二人の養子が争ったわけです。その直前、いや引き金になったとも言えますが、謙信公亡き後の春日山城を先に占拠したのは、景勝の許しをえずして夜陰に紛れて御金蔵を確保しようとした、樋口(後の直江)兼続と父の惣右衛門だったわけです。この時後押ししたのは父親の惣右衛門でした。彼は兼続に占拠を示唆し、みずからは渋る景勝を説得に行ったのです。してみると、上杉景勝の今あるは樋口惣右衛門の知略と策謀と忠心の賜だったと言えます。

 樋口惣右衛門は上杉の財政を実質的に切り盛り出来る人でしたから、執政兼続にとっては実の父親が一番頼りになったわけです。その他、妻のお船は京都の菊姫の面倒をみるのに忙殺され、また自らも自家を離れての仕事が殆どでしたから、兼続の息子や娘は親父殿が面倒をみていたことになります。一番頼りにしたのは、会津に移ったとき、米沢の切り盛りを実父の惣右衛門がしてくれたことでした。兼続にとっては、ややこしいことはすべて父親に任せきっていたわけですね。

 というわけで、樋口惣右衛門という直江兼続の実父の生涯は、今夜見事に要約されました。
 ドラマの視点から見ると、惣右衛門とは本当に偉大な父親だったのだと思いました。合掌。

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