小説木幡記:2009/10/28(水)不読の秋と会議日和
今日学生達と話す機会があって、結論は「不読の秋」となった。つまり、なかなかに読書もかなわぬ繁忙ということか。現代大学生は余の学生時代とは大きく異なり忙しい。月曜から土曜まで、一日3~4つの授業をいれているから、息抜きする時間が殆ど無い。そして大抵は週に数日間アルバイトも入れている。これでは読書と言っても通勤じゃなかった通学電車の中しかない。それも疲れで睡眠休憩時間となってしまう。それにめげて若い内に読書しないと習慣がつかず、そのまま異世界に出くわすチャンスもなくなり、歳を取っていく。と書けば、日本中のすべての学友諸君への嫌みとなろう。
書を棄てて町にでようとは、あまりに読書ばかりしすぎて脳が肥大化し、机上の革命に走った時代があったからだろう。そんな時に一旦「書を棄てる」と覚醒すると、一息にゲバ(ルト)棒を左手にもって、右手に拡声器、頭にヘッドギヤじゃなかった色とりどりのヘルメットをかぶることになる。それが過ぎると盆踊りみたいに手を繋いで倭じゃなかった輪をつくって脳天気な西欧平和音頭でフォークダンスし、最後の最後は、そういう世間のことをすべて忘れて、らりぱっぱとなるか、男女ともに化粧に身をやつす、……。男女が恥じらいもなく電車の中や教室で化粧するのは、爛熟した文明の証なのかな?
とはいうものの、いつの時代にもまともな若者、正しい高齢者は居る。
今日は午前6:55登校、午前中授業して、ちょっと休憩し(笑)、10:40と早めの昼食を学食弁当380円ですませ、昼休み時間中から若い学生達を呼びつけ、今年度一杯のスケジュルを指導し、素直に聞いておる態度にほっとしミカンを1個ずつプレゼントし、返す刀で午後一時から午後二時半まで、年輩の学生二人を追加し、別の案件を熱心に論議した。その後、一人は授業にでかけ、他の三人はまたまた屯所で仕事を始めたようなので、不憫に思いケーキを三個供出した。それで終わりではない。
ちょっと休憩し(笑:なんとなく休憩が多い。大抵はEH500に重い車両を4両曳かせて14㎝半径の急勾配を低速でじわじわ登らせて溜飲を下げておる)いざ出陣。五時過ぎまで別の会議室で20数名の同僚達と別の会議を延々とした。それが終わって研究室にもどってPCを眺めると、でるわでるわ重要案件メルが何通も入っていて、いずれも回答をすぐに出せるものじゃなく、それになんとなく脳が痺れていて目眩までした。それでも幾通かに返答をだし、早々と暗くなった6時にはシャットダウンした。
そう、これほどPC黎明期に生き、あらゆるプログラミング言語に手を出し、TinyBasicからSMCBasic、Fbasic、MODULA2、出始めのC++、SmallTalk、……、PASCAL、Prolog、JAVAと遍歴したのにかかわらず、PCが動いているだけで心臓がパクパクし、手が震え(笑)、「もう。もう、いいや!」とパニック症候におそわれ、部屋中のマシンを全部消して、真っ暗な中で今度はHOのDE10にHOの改造図書館列車サロ124(LEDを3本もつかった室内灯付き)を曳かせ30分ながめ、約20分横臥し、ようやく7時になったので、部屋をでた。
夕食とってシャワを使って、茶を飲んでおそるおそる木幡PCに火を入れて、MuBlogを書き出した。
そろそろねむくなってきたので、眠るとしよう。
明日はまたまた授業が盛りだくさんあって、午後はまたまた編集会議があって、そして歳を取っていく。
人生だなぁ~。
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コメント
読書しないのは忙しいからではありませぬ
当方なども学生時代は(読書)なんてサッパリしませんでした。
読んだ本、読んだ作家は指折り数えられるくらいでした。
下宿の小さな本棚は読みもしない教科書くらいでガラガラでした。
学校へはあまり行かなかったので時間だけは山ほどありましたが・・・。
理由は二つあったように思います。
一つは遊んでばかりいたから喜怒哀楽の感情はありましたが、現実の社会生活とは違う一種の虚構の世界に住んでいるようなもので、自分たちの時間が(これは今だけ許されるフィクションだろうな)と思っていたこと。
一つは貧乏学生だったから500円とか1000円とかの本を買う気がしなかったこと。さりとて図書館へは一度も足を踏み入れることはありませんでした。
要するにほかにオモロいことが一杯あって他人の書いたことなどに目が向かなかったのですなあ。
そしてその猶予期間が終わって社会に出たトタン、現実の社会生活はオモロくないことばかりに気づきます。
この世の中、こんなものかいな?
ということが肌身にしみ、やっと自分の生活圏以外のところに(青い鳥)を探し始めるのです。
それの手っとり早い手段が(読書)という次第。
Mu先生、若い生徒さんたちが読書しないのはある意味今が幸せだからです。
バイトであろうとゼミであろうとテストであろうと(職業)の厳しさと比べれば楽なものです。
どうせ卒業すればそうとばかり言っておられなくなります。
心配ご無用。
投稿: ふうてん | 2009年10月29日 (木) 15時15分
ふうてんさんの内に積み上げられたこの世の森羅万象を併せのんだような、見識のひとつひとつには、過酷な経験とともに万巻の書を読破した趣が、垣間見えます。
で。お言葉に関して、コメントのような斬新な見方があったことに、はたと膝を打ちました。たしかに、今現在がたのしければ、額に皺寄せて気むずかしい小説や評論などを読む必要もなく、読みたくないならそれは、読む必要がないからだとも、言えるのだと理解できました。
現実世界に乾いた砂漠しか味わえないときはじめて、青い花、青い鳥をもとめて、読書異世界世界に迷い込み、ようやく息を継ぐことができるというのは、現実ですね。
で。ふうてんさんのコメントを読みながら、「そうではあるが、しかしもしかして、読書とは高度なスキルも求められるから、暇な時に読んで練習しないと、多くの人は、身近な人間関係だけに人生を費やすかもしれない」と、また別の考えも浮かびました。
一応は学生を善導(爆笑)するのが職責の一部にありますから、ああでもないこうでもないと、いまだに考え込むことがある、というのが真意です。
個々の世界観は狭いですから、弱年次に、多様な世界を経験し、世界を拡張する余地を造る必要があって、そのもっとも効率的な手法が読書なのだと、考えています。
投稿: Mu→ふうてん | 2009年10月29日 (木) 18時08分