小説木幡記:2009/09/17(木)箸墓の二重周濠
承前1:卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認
承前2:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望
情報源:箸墓古墳で二重の周濠が確実に 奈良・桜井市教委(2009.9.15 21:56) MSN産経ニュース
↑箸墓古墳の前方部(前方後円墳の最南端)20090310記録撮影Mu
昨日(2009/09/16)の朝刊で、「卑弥呼の墓? 箸墓古墳:権力を示す二重周濠」という記事が目に入った。全体が巨大な馬蹄形になる周濠については、すでに2008年8月に、冒頭「承前1」でメモしたが、今回の桜井市教育委員会発表は、それを裏付ける内容だった。前回調査の対角線上に、外濠の遺構が発掘されたようだ。
最近の箸墓の様子は冒頭写真と「承前2」にメモした。
これで、全長280mの箸墓は、その外濠まで含めて全長450m程の、本当に大規模な墓域を形成していることが確実になった、といえる。
3世紀、死してなおこれだけの大古墳域を造作した事実は重い。
ネットニュースではなかったが、新聞紙上には想定復元図が載っていた。箸墓をぐるりとかこんで、外濠の幅が60m、内濠の幅が10mで、東側と西側とに川の様子も描かれていた。東側が三輪山方向だから、そこから水が流れ込み、西側に流れ出ていたのだろうか、と想像できた。
追伸
今朝はこれまで(笑)。
本来ならばこの種類のニュースは、MuBlog「卑弥呼の墓」シリーズにまとめるべきだが、著者は現在別の「夏期論文物語」に忙殺されておって、余力がない。一時に一事しかこなせない非力を悲しむ脳。
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コメント
Muの旦那はん おはようさん
記事を読み、急いで朝日の関西版、奈良新聞のネット上の記事を読みました。この前写真を撮影した場所から確か幼稚園は見えていましたね。
二重の周濠を持ち400メータを越える巨大な前方後円墳が突如3世紀半ばに登場した時は人々はどんな感想を持ったでしょうか。東京に霞が関ビルが登場した時や、東京タワーが出現した以上の驚きだったでしょうね。
まさに、あの世を具現化した神の世界をそこに見たのではないだろうか。夜に行われる祭祀の時には松明の光が輝いていたでしょう、そして三輪山まで続く尾根筋には延々と松明が灯されていたと勝手に考えています。
何故二重の濠にしたのか理由は判りませんね。これから考古学により解明される日も来ると期待します。祭祀の時に古墳に登れる人と内堀と外堀を区切る堤防の上に臨席出来る人、そして、外堤の外にしか臨席出来ない人と区別されていたかも知れませんね。邪馬台国連合の部族の地位が関係していたかも知れませんね。
また、暇を見つけてでかけましょうぞ。
投稿: jo | 2009年9月17日 (木) 11時01分
Joさん、元気かい
いま、夕方5時の葛野の鐘が3回目、あと2回なるはず(笑)
老考古学生ともなると、「暇になったら」フィールドですかい! それはない。それは素人Muのセリフですよ。Joさんだと、いつも家を空けて、古墳の玄室をベッド、磐座をまくらにし、星をみながら思念にふける~と、いかなくちゃ。
さて。
前方部、内壕、外壕を、貴賓席、内野席、外野席と見立てたJoさんの識見というか、見識は物凄く鋭いですな。もう、これで決まりですよ。壕を掘って盛り土にしたなんて考えは、土建屋(うちの父)じゃないかなぁ。掘るべくして掘った、何故なら段差を付けて、観覧できるように。
もう、これ以外の推論はないです。
Joさんヒット、いや満塁ホームラン。
と、なりまする。
再見
投稿: Mu→Jo | 2009年9月17日 (木) 17時08分