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2009年7月28日 (火)

1Q84:Book1、Book2/村上春樹 Jと男が綾なす異・位相世界(読書感想文)

0.短い前置き
 2009年5月30日附けの<東京たるび>blog記事が目をひいた。著者はmorio0101といって面識はあるが、blogの性格はMuBlogの極北の位置にある。その記事だが、

■[本]ふかえり青豆天吾

村上春樹の『1Q84』(新潮社)を読了する。自らのリトル・ピープルや空気さなぎのことを想う。

 5月30日といえば『1Q84』の発行日だが、大抵は奥付日付以前に店頭に出回るので、morio0101はその数日前に入手し、一昼夜で一気に2冊を読了したのだろう。速いと思った。私は丁度三日間かけてしまった。Book1に二日間、Book2に一日だったと記憶する。morio0101はそれだけ熱心に村上春樹世界に没頭し、そして出力は引用したタイトルと二文のコメントだけだった。それ以上は記録しなかったのだから、彼から春樹の新作について、それ以上感想を求めることはしない。

 ただ、私はこのblog記事から強く惹きつけられるものがあった。ふかえり、これは何だろう。morio0101は時折現代的な若い女優やタレントに執心する記事を見せるので、そういう類かと思った。青豆はビールのツマミの枝豆新種か、とも。そして天吾は奇術師か? と思った。このタイトルだけで、morio0101好みの若い女優がビールを飲みながら、奇術師天吾の技を見ている所が気に入ったのか。と、そういう彼の深い感動を伴った『1Q84』評価であると、私は想像した。

注記:ビールが突然現れたのは、風の歌を聴け/村上春樹、これを雑誌群像で読んだとき、「この人、ビールばっかり飲んでいる」と、刷り込み。ビールといえば枝豆とくるから、青豆という用語は枝豆の新種と考えた。天吾という用語から奇術師を想起したのは、文体発想・世界観が春樹に近似の森博嗣が奇術好きで、引田天功の「天」に引きずられたから。

 私と言えば、1Q84は1984で、それとの組み合わせでリトル・ピープルは、ジョージ・オーウェル「1984:ナインティーン・エイティ・フォー」のビッグ・ブラザー、つまりはスターリンのことかと想像した。さらに、空気さなぎは良く分からなかったが、瞬時に安部公房の諸作を思い出し、最近では「新世界より/貴志祐介(MuBlog)」での<幼虫さなぎ形図書館ロボット>を思い出していた。どれもこれも、アンチユートピアの名作である。20世紀以降、人類は宗教教団以外では、「ユートピア」を語れなくなったから、アンチ・ユートピアと予断するのは、理屈の上では当たり前である。まして、文学は宗教のしもべではない。春樹がユートピア世界を描くはずはないと、morio0101の記事を読んだとき、あらかじめ決めた。

 そしてBook1とBook2とを読み終えて、morio0101の簡潔な感想の意味が分かった気がした。ただ私ならもうすこし派手に「村上春樹と同時代に生きていて佳かった」と書き足したいところだ。

1.概略の感想
 (以下Jとは、女子の略記である。そして視点が章ごとにJと青年(男性)に別れているので、それぞれJ視点、青年視点とする。できるだけ固有名は避けて以下を記した。この作品では、固有名がドストエフスキー諸作品の典型人物ほどの意味を持つ予感がしたからである。たとえば、ムイシュキン公爵と、言ったとたんに読んだ気になる人も多いことだから、避けておいた)

 読了して、感想文を書く気力が絶え間なく沸々と湧いてきた。当初はBook1(4月-6月)とBook2(7月-9月)の上下完結図書として読み進んだので、両図書の区別は付けなかった。しかし、読み終えると、まだ10月-12月、1月-3月があるはずだと確信した。読書中はずっと、奇妙なものが出てくるたびに安部公房を思い出し、Book2に入ってからは三島由紀夫の四部作『豊饒の海』の巻間連接を想像しだしていた。少年少女物語が挿入されるたびに『新世界より/貴志祐介』を想起し、たとえようもなく空漠とした寂寥感を味わうたびに森博嗣の諸作を思い出していた。

 村上春樹の新作が私の中の世界と共鳴したのは、文学作品を受容する私自身が、春樹に対して了解可能な態勢にまだあるという証ともなった。つまり、私は現実のラーメン嫌いの作者とはほど遠い実生活を送っているが、『1Q84』は私自身の世界観からして遠くには思えない。チャーシューメンを食べられない春樹がどうして、私の好みそうな世界を描き、そしてそれが世間に何故迎えられるのかという、不思議な思いで一杯になった。

Book1
 概略記せば、Book1は現代Jの行動世界がエピソードとして次々と現れて、世間体の檻に囲われた生真面目なJ達がこっそり読んでは溜飲を下げているかも知れない、と想像した。サディスティックと思えるほどにJの生態を引きずり出して、簡明上品な文章で描く技術は春樹の修練の賜だろうと想像した。それに対応するように男の生態は、30になりかけの青年の視点で、週に一度年上の人妻の訪れを待ち、しゃかしゃかと昼食を作り、二人で金曜のひとときを楽しむという、まことにあっさりしたものだ。こういう対照的な表現はもちろん後に続く意味合いを持つ。分かりやすく言えば、すべては伏線であり、明確なミステリー手法が使われている。なにもかもが破綻のない世界で、作中に現れた例え話として、銃が出てくれば必ず発砲されるものだというセリフに合致する。つまり、現代のJが狂乱世界でカタルシスを味わう場面があれば、そのカタルシスが別の何かをもたらす。現代青年が穏やかな日常の中で、年上の人妻ガールフレンドを持てば、その気楽さが別の何かをもたらす。

 Book1ではJも作家志望青年も、Jの友達になってしまった婦人公務員も、青年の指導者のような編集者も、亀裂のない破綻のない1984に住んでいる。そのように感じている。もちろん読者の目には、これが既に1984年が破綻した1Q84世界であることは、小さな伏線の幾つかで徐々に分かってくる。気がついたのはJの視点が先だった。突然青年のそばに湧出した美少女は既定の事実として知っていた。

 何が別の世界の徴だったのかは、J視点が図書館に通って新聞縮刷版を調査し、自分の中の記憶と照応させることで徐々に分かってくる。その徴の意味が分かってくるにしたがって、読者は「今の1984年」世界がすでに破綻していることに気がつく。この新しい世界を読者が楽しむには、SF愛好家になるか、あるいは物語の住人になるしかない。そして、作者春樹は巧妙な文体で徐々に読者を破綻後の世界の住人にしていく。同時に、物語世界の住人達も、すこしずつその生きてきた1984年世界が破綻していることに気づいていく。

 破綻しつつある世界が、破綻無く小説結構として描かれるのは、三島由紀夫の私自身の中への明瞭な残照として写った。『豊饒の海』は人の転生という現実世界の破綻なくしては語り得ぬ物語であった。春樹が三島をどう考えているかは知らない。そうではなくて、深い感動をもたらす作品とは破綻を描き、なお破綻しない文体と小説結構に支えられているという、難しい世界をさしている。それがBook1を読み終えた時の概略感想である。村上春樹は非常に難しい世界をすでにBook1の段階で創造したと言える。

注記:1984世界と1Q84世界との違いは、実はまだ明瞭には語られていない。それがパラレルワールド(並行世界)でないことは、作者が保証している。1984世界が破綻し1Q84世界に入ってしまった人は天体現象で異変を確認できる。また、こうも言える。「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」を実感出来る人が1Q84世界の住人であると。その人達には、1984世界はもう存在しない。初めから存在しなかったのかどうかは、なお予断を許さない。Book2で語られることだが、どこかで線路のポイントが変わり、後戻り出来ないという表現がある。この表現からは、ポイントの変わった時点ですべてが1Q84世界になったと考えられもするが、実は、1Q84世界の人は1984年世界の別の記憶をもっているから、それまでの1984世界が消滅したと認識できる。すなわち、ポイントが変わるずっと以前の1984過去世界が大きく変更されて今の1Q84世界になったという、一種の矛盾が生じている。「切り替わり」の線路ポイントの意味が無くなる。しかしこのあたりのことは、未生のBook3やBook4を待たねば確定的には言えない。春樹は純粋のハードコアSFにおけるタイムパラドックスを用いているとは思えないから、おそらく記憶における疑似記憶が鍵になるだろうが、SFでない限り、そういう屁理屈は不用なのかもしれない。たまたま私はSF愛好者なので無用の詮索をした。文芸上の問題としては、読者が驚きながらも、あれよあれよと思いながらも、自然に1Q84世界を認知したなら、それで良いのだろう。

注記:そういえば私が持っているオーウェルの1984の翻訳は、早川書房の世界SF全集の中の一巻だった。オーウェルがSFと考えられたのは、おかしくはない。『豊饒の海』は浜松中納言物語という古典SFを骨組みにしたものだから、その観点では三島のSF好きが最終作品の性格を濃く彩っていた。ただ、1Q84のジャンルがどうであるのかはまだ分からない。そう言う話は、読者愛好家の後智慧解釈ともいえるし、それはそれで面白い。

Book2
 Book2の山場は、月を見上げる青年視点とJ視点とが重なる所とも言えるが、私などはそれに至る前の、J視点の(一応最後の)仕事が気に入った。東京の某ホテルの一室に、暗黒世界の魔物のような教祖がうずくまっている。本人自身は教祖とは思っていないが、教祖として振る舞わざるを得ない。J視点は、これまでの仕事の(最後の)仕上げとして、雇い主である老婦人から頼まれた約束を果たすために、暗黒世界の教祖に会い、治療をする。治療とは、彼の名状しがたい全身の苦痛を少しでも取り除くために、筋肉マッサージをすることである。

 なぜ彼が、月に一度か二度全身の苦痛を味わい金縛り状態になるのかは、現代医学では解明されていない。教祖ほどの異能をもってしても理由が分からない。ただ、その苦痛と引き替えに教祖がなんらかの「恩寵」の証を受けているという解釈が成り立っている。

 つまりBook1の中盤以降に登場してくる宗教団体「さきがけ」の教祖と、J視点とのクロスはBook2に現れる。もしも春樹の構想が全4巻ならもう少し後に引き延ばすことも可能だが、しかしBook1の終盤からBook2の中盤まで私を惹きつけてやまなかったのは、この教祖とJ視点の合流だった。それまでの緊迫感は密度が高く、私は完全にJ視点に重なって物語の世界を歩き出していた。その経過描写の高まりは、最初に謎の老婦人とJ視点の対話があり、結論として出た(最後の)仕事のための、老婦人のボディーガードとの打合せ、準備にあった。ボディーガードはJ視点にプロとしての様々な支援を与える。この精密さに感心した。たとえば住居のひっこし、手続き、新住居の段取り用意の良さ、……。こういった細部に神が宿っていた。
 豪壮な屋敷に独り住まいする老婦人は、老いていく身体を解きほぐす施術者としてJ視点と契約している。さらにJ視点の持つ特異な技術を自分の仕事の役に立てている。J視点が教祖と合流したのは雇い主である老婦人の希望と、自分の人生観とが重なったときが起点となった。
 それらがすべて集まって、「さきがけ」教祖とJ視点の出会う機会がもたらされた。この準備の緻密さに現代小説の醍醐味を味わった。

 さて。暗黒界の教祖とJ視点の対話の前に、J視点の筋肉マッサージの腕の冴えが綿々と描かれる。読んでいる私自身が、筋肉とはこういうものなのか、そういう筋肉のコリをほぐすのはものすごい苦痛も伴うが、苦痛の絶頂となる関節移動のコキッとした音の後に平安が訪れるのか、とまるで自分が施術・治療されている気持になった。
 その後で一種の宗教問答と教祖の真意が展開されていった。J視点は教祖の話す内容に徐々に打ちのめされていく。教祖は自分が教祖であると思っていないこと、あるいは自分の考えが宗教とはおもっていないことを、J視点に伝えていく。それでもなおリトル・ピープルの代理人になったことと引き替えに、異能を含む恩寵を受けた事実を、J視点の眼前でみせる。J視点は教祖の世界観を理解し、自分の最終目的と、その達成によって生起する副作用とを秤にかけ、ついに新たな決断を迫られた。
 決断のあと、J視点に世界は残ったのか? それが未生のBook3に継承されると強く想像できた。

2.登場人物の特性

教祖
 美少女の父と想定できる。史的唯物論を若いころに信奉し、付いてくる若者達と、まるで<ヤマ◎会>に似たコンミューンに入り込み、ノウハウを取得する。そのあと山梨県の廃村に入り、独自の共同農園を経営する。やがて農園は「さきがけ」村と「あけぼの」村に分離し、教祖は「さきがけ」に残った。

美少女
 物語を語る少女。好きな本は平家物語。村や父教祖から逃亡を図り、「先生」のもとで7年間無事に過ごし成長した。

先生
 教祖の旧友。

J視点
 仕事は筋肉マッサージ施術者。指先が器用で、人体構造のツボを先天的に心得ている。背が高くすらりとして筋肉質の、なかなか小綺麗な女性だが、自分の顔面筋肉を極端に変形させることも出来る。変形させると怖い顔になり、元にもどすのに手こずる。まるで<◎の証人>のような宗教と多少縁がある。

JのJ友達
 Jと夜の街でしりあった。明るい積極的な20代J。実は公務員だった。

青年視点
 予備校の数学講師。作家志望。年上の人妻ガールフレンドが毎週金曜日に訪ねてくる。気楽にすごし、作品をせっせと書いている。

老婦人
 豪壮な館に独り住まいをしている。J視点を個人的に雇う。Jですら刮目するほどの趣味の良さがある。Jは老婦人の日常をときどき真似ようとする。

ボディーガード
 軍の諜報工作機関に勤めていた経歴がある、プロの「老婦人」ボディーガード。

編集者
 青年を指導する風変わりなアクの強い編集者。まるで現実の村上春樹に縁のあった某ヤスっさん、に似ている。

3.まとめ
 面白く、巻措くあたわずの状態で読了したのだから、成功作だと考えている。
 私は、作品に寓意性、思想性、哲学性をあまり求めず読み終えた。なんらかの寓意やほのめかしは随所にあるが、それは村上春樹の「勝っ手でしょう」と無視した。つまり一読者として、現代に生きる作家村上春樹のカオスのような脳内世界を、『1Q84』はしっかりした文体と小説結構とでまとめ上げて、それが私を引きずって最後まで一気呵成に読ませたのだから、それ以上何も求める必要はないという、最近の文芸に対する私の距離の持ち方である。

 村上春樹は、この作品で新たな世界を創った。その世界は、J社会を極端にディフォルメした場面も多いが、なべて住みやすそうなリアルな世界だった。世のJ達は知らぬが、青年の一部は青年視点に心地よさを味わうだろう。それは人妻が週一で慰めにきてくれるとか、美少女に好かれるとか言う、そういう表層的現実ではなくて、一人暮らしの中に適度な才能、適度な収入、煩わしさのない日常が好ましく描かれているという、日だまりの中の日常性にあると思った。その縁側の日だまりは、1Q84世界では今後巻を追うごとに破壊されていくだろうが、その日だまりのぬくもりを心地よく味わえたところに、作品の秀逸さがあった。ついに、安部公房の『第四間氷期』を思い出してしまう。

 私の場合は青年が、自分の父の住む千葉県の南房総・千倉にある高齢者療養所を訪れた風景が焼き付いた。松と海とがある簡素な部屋に、父が半分惚けて座っていた。その場面が強烈な印象となってしまった。父は息子に語った。

「あなたは何ものでもない」と、父親は感情のこもっていない声で同じ言葉を繰り返した。「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもならないだろう」

今後のメモ
 ヤナーチェック「シンフォニエッタ」が鍵の一つとして融けなかった。青年が数学の神童だったことから、音楽の音譜コードと数学的な何かが共鳴共振したとき、世界が壊れるのかとも想像したが、そうでもない(笑)。
 1984世界と1Q84世界とを対置させて考えるのがよいことかどうかは、続編を読まないと分からない。
 続編があるかどうかは分からない。
 私は日曜作家なので、単純に「続編が無かったときは、村上春樹が破綻した」と考えることにしている。もちろん、私が存命中の話だが。
 今度の人物造形で、これまで通り美少女が登場した。しかしそのプッツン振りと異能とは、現在私が制作中の登場人物に極めて造形が近いので、悔しい思いをした。よってほとんど登場させないことにした。さりながら他人の新作読んでは、顧みて自ら「がっくり」するのは、日曜作家の永遠の苦しみである。

 続編に続く(予定)

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コメント

興味深く拝読しました。私が短文しか残さなかったのは、不定形の幸せな余韻をことばで塗り固めてしまいたくなかったということと、一度読んだだけではとても何も言えないと思ったからでした。まぁ逃げたわけです(笑)。つれあいから早く読めとせかされて猛スピードで読み終えたことも関係しているかもしれません。いずれにしても夏の間にもう一度読もうと思っています。どこにも明確な意志がないまま決定的な見えない制度が構築され、それによって行動原理や思考そのものも規定されるという現代の宿痾を思いながら読み進めました。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や初期短編集と同じくらい気に入っています。

投稿: morio0101 | 2009年7月29日 (水) 00時21分

morio0101さん、お久しぶりです。
 実在の村上春樹さんと会ったこともないし話したこともないのですが、ずっと近しい気持と遠い気持とが混在していました。

 今度の作品ですと、1984年想定時代劇のせいもありますが、表現される映画などが、Muの喜んだものと一緒なわけです。村上春樹さんはお若くみえますが、実は私とそんなに年令が離れていません。同世代の超有名人って、まぶしいものですが、親しさは味わいます。つまり単純に言って、Muが20代にオーウェル1984年にのめり込んだとするなら、春樹さんもそうだったのでしょう。おそらく三島、大江、安部さんあたりの読書遍歴も同じことでしょう。えらいJにもてたり、ラーメンや餃子がお嫌いな点では、Muと大いに違うようですが。

 遠い気持は、すべてに垢抜けているというか、格好がよすぎます。これはMuからみたmorio0101の文章や写真や対象選択に味わうのと、同じものがあります。要するに、村上春樹さんが遠くに見えるときは、morio0101のblog記事や感じ方が遠のくのと同じです。つまり、村上春樹さんの趣味の良さなんかにたとえようもなく違和感を味わうのです。

 やはり春樹さんには場末のラーメン屋でスープを底まですすってもらいたいですし、morio0101さんにはN500系の電車通路をステテコ姿でスルメをかじりながら「おう、ねえちゃん、ビール売ってくれや」と、言ってもらいたくなるのです(笑):ところで今の新幹線って、車内販売あるのでしょうか? ミステリーの細部ですね。

 年令構成でいうと、morio0101さんは森博嗣さんと同世代になるのでしょうか。そういう年代の人達って、いずれにしても、かっこよく見えすぎますなぁ。もうちょっと、不細工な生をほのめかしてくださると、違和感がなくなります。

 さて。現実面はそういうところですが、1Q84は小説構成上、随所に工夫と努力がありますね。村上春樹さんの才能だけに寄りかかったものじゃなくて、99%の精進努力と、1%の才能を味わいました。もちろんその最後の1%が作品を光り輝かせるわけですが。

 morio0101さんと違って、私はしばらく再読しません。続編がでて、続編感想文を書き終えたなら、いつものKT2(小説構造を調べるツールです)で分析したくなる作品です。私が生きている間にそれができると良いですね。
 私は作家の日常の言葉(ファンやマスコミ向けの)は総て信じません。平日作家は重症の作話症だからです。テキストにこそ、「真」があるのでしょうね。

ではまた、Book3やBook4が出た折にでも。

投稿: Mu→morio0101 | 2009年7月29日 (水) 04時30分

先生の1Q84の感想とても読みたかったのです。今日は読めたので嬉しいです。
老婦人とボディガードさんがいいです。お話がしてみたいです。
ジョージオーウェルの1984年を読んだら、また違う印象が持てるでしょうか。。
ハルキ君が大きくなりましたね♪ とっても賢そうです・・!

投稿: yuyu | 2009年7月31日 (金) 23時22分

こんにちわ、YuYuさん

 意外なMuBlog読者YuYuさんのコメントに驚いています。花一杯blogのオーナーがMuBlogを訪ねてきてくださるのは、ありがたいことです(つまり、MuBlogには、人の心を癒す花が少ない!)

 YuYuさんのことはblogでしか想像ができませんので、以下注意深く感想を記しておきます。
 1984が未見でしたら、読まれても悪くはないと思います。しかし現代とれとれ文学のような面白さがあるかどうかは、わかりません。私は20代の初期に翻訳を読みまして、少なからぬ影響が残りました。世界をどう見るかの、見方の一つを知ったわけです。そして純粋SFとして読みましたから、多少ほかの方とのとらえ方が異なります。

 また私は当時、ユートピアというものをひとまとめにして、ものすごく真剣に考え込んだ時期があったのです。

 老婦人とボディーガードと、マッサージ師Jとの関係は、上手に描かれていましたね。こういうところにMuものめり込んでしまいました。

1.パトリシア・コーンウェルの検屍官シリーズの初期数冊に、主人公スカーペッタの良き相談相手として老婦人がでてきます。よいですよ。
2.小松左京の「日本沈没」で、箱根に住まう黒幕的老人が印象深かったです。老婦人と同じ役割とも言えます。
3.五木寛之の「戒厳令の夜」に、懐刀(ふところがたな)のようなボディーガードが出てきます。1Q84では、その人を思い出しながら楽しみました。

 小説は、読む人ごとに経験とか感じ方が異なりますから、1984の世界造形とか上にあげた諸作の人物造形が私に1Q84世界をより深く楽しませた、……というほどのことです。

 猫ハルキ君ですね。二ヶ月ぶりに姿をお見せできました。さっきもまとわりついてきて、足の甲に噛みつきました。大型猫になっても、まだ噛みつくようだったら、毎朝傷だらけの人生になりまする

投稿: Mu→YuYu | 2009年8月 1日 (土) 05時00分

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