小説木幡記:2009/07/01(水)七月夏だな
七月だな
しらぬまに、夏~はぁ~来ぬ。小学校唱歌が頭を過ぎったが、うまく思い出せぬ。
田舎の小学校、京都市立嵯峨小学校、そこに6年間もいた。ひとつひとつが得難い体験。それ以外の人生はなかったのだから、この一筋をおもいだしては、走り来た軌跡を味わう。
小学校の先生は大切だと思う。一番に何を求めるかと考えてみた。人徳だろうな。
余はそのころ先生に対して、知識はそれほど求めなかった。「模型とラジオ」とか「子供の科学」を読みふけり、「少年」のファンだった余は、科学苦手の女性教諭からはいつも目を丸くされていた。男性教諭も、余の「鉄腕アトムの機能性能評価」には、驚いてくれていた。さらに、ビーカーや試験管、三角フラスコの洗浄と乾燥、あるいはアルコールランプで細いガラス管を曲げる技術は、科学系の先生よりも上手だった(笑)。
先生達が、余よりも手技や些末な知識に劣っていても、それは余が自宅で「毎日科学雑誌に読みふけり、毎日フラスコを振っていた」のだから仕方ないと思っておった。だから、そんなことで先生が駄目だとか役に立たないとは、一度も思ったことはなかった。
小学校4年の担任は若い女性だった。ベッティさんと先輩達はあだ名で呼んでいたが(発音がローカルだねぇ)、理由は分からなかった。中学校になってから、ジャック&ベティの、目がくりくりしたベティさんに似ていたことを思い出して理解した。
なにかしら温かい先生だった。4年生くらいから小学校がものすごく面白かった。実験や社会見学で、ベッティさんが余を誉めてくれたのが、嬉しかったのだろう。
5年と6年生の時の担任は、亀岡に住んでいた男性教諭だった。一番記憶に残っている。6年かあるいは中一になってからか、亀岡の新婚家庭に大挙して招かれた。カレーライスを昼食にいただき、付近の野山を散歩に案内していただいと。そんなちょっとしたことを今でも大切に覚えている。
授業中に白衣を着た先生が(当時の先生達は白衣を着ていたなぁ)黒板の前で話している映像が時々甦る。なんの授業かとは関係なく、1時間目から6時間目まで毎日顔を合わせていた。
クーラーも室内プールも、なにもない学校だったが、退屈はしなかった。
休み時間に木から落ちて怪我しても、赤チンかメンタム塗っただけで、授業には出ていた(2m位は落下したのだから、驚き)。
小学校の先生は、知識そのものの分析解説よりも、知識をガイドする人がよいと思った。
小学校の先生は、温かくても怖くても、人徳・包容力のある人がよいと思った。
初等教育は難しいし、重要きわまりない時期の教育だと思う。これを間違うと亡国を招く。
現代の親も先生も世間も、それを本気に考えてはいないようだな。
それに比べて、大学生相手の教育なんてぇ。(笑)(笑)(笑)
ともかく、数学者岡潔(おか・きよし)先生は、素晴らしい考えを残された。
ところで。
良い幼少期の想い出があれば、十年間、貧しくても生きる力が湧く。
それに良い青年期の想い出があれば、さらに二十年間生き抜く力が湧く。
余は、二つの生きる力の源泉を、大体使い果たしたようなので、あとは慣性でゆるゆると走っておる。これがまた、無音で、それなりのブレーキさえあれば、グライダーのような良き滑空を期待できる脳。
(急坂下り坂があまりなく、平坦路が続くことを密かにねがっておるが)
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