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2009年6月14日 (日)

桜井・茶臼山古墳の後円部構造物、結界(玉垣)、神社?

承前:(MuBlog)桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場
参考:(JoBlog)桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(2) 茶臼山古墳

 昨日(2009.06.13)の朝刊で奈良県桜井市の茶臼山古墳について、発掘記事がありました。産経新聞の場合は記事内容がいつもより多く、第1面、第3面、第27面の三つの記事構成でした。さらに昨日夕刊では、第8面に追加記事がありました。これを、リストすることで今回の桜井茶臼山古墳・発掘成果の重要性をまず把握しておきます。インターネット上の「MSN産経ニュース」は現在のところ記事保管が永続的なので合わせてリンクを張っておきます。

1.石室ぐるり柱穴列 奈良・桜井茶臼山古墳 魂と外界わける玉垣
  銅鏡片153個も出土
  (産経新聞 平成21年(2009年)6月13日 土曜日 14版 第1面)
  <MSN産経ニュース

 要約1(毎日新聞同等記事と総合): 奈良県桜井市の茶臼山古墳(前方後円墳 200m 三世紀末~四世紀初期)は昭和24-25年に一度発掘され、その遺物は、玉杖や二重口縁壺などが橿原考古学研究所付属博物館にある。今回新たに発掘されたのは、後円部の中心に縦11.7x横9.2x高1mの方壇があり、この周りが直径30センチで長さ4m程の太柱が約150本でびっしりと囲われていた。柱は地中深く1.3mの深さに及び、地上高は3m弱と考えられる。これをもって橿原考古学研究所は神社の「玉垣」に近いものと想定した。
 もう一つは、今回153片の銅鏡片(数センチ大)が出土し、昭和25年当時の20面と合わせて、合計で40面を超える銅鏡が出土したことになる。これは国内最多の可能性がある。

 感想1: 以前調べたところでは(MuBlog)茶臼山古墳の後円部直径は110mで、地上高は19mとありました。平坦な墳頂の様子は写真に撮りましたが、直径は測りませんでした。(↓2009年3月10日 浅茅原撮影)
Simg_2280
 この時撮した全景写真からみて、墳頂直径を大体30m~40mとしますと、その中心に高さ3mの太柱で隙間無く建てられた正方形の囲いは、少し異様なものに思えます。玉垣というよりも、現代の窓の無い(縦太柱)ログハウスを想像しました。屋根があったのかどうかは分かりません。(毎日新聞では、石野博信・香芝市二上山博物館長の話として<柱列が垣の痕跡ではなく、屋根のある建物の壁だったのではないかと考える>という説がありました)

 前方後円墳全体の外観はこれまで「前方」とあっても正方形や長方形が認識できるわけではなかったので、今回後円部の頂上に10m四方(ほぼ正方形)で高さ3mに近い白木柱の構造物があったと想定すると、そのイメージは愕然とするほどの飛躍でした。

 私はすぐに、社、神社、つまり重石のような鎮めの神社を想像しました。もちろん形態は現代の神社とは異なりますが、白木の正方形(立方体)が尊い死者の真上に、しかも外から一目で分かる形態で載っているとしたなら、機能として神社に相当すると思いました。呪い封じとか、恐れとかが次の2.にありますが、尊い人を祀るのに公然と「封じる」ことは無かったと思います。結界を伴った鎮魂、つまりは社(やしろ)と考えるとすっとしました。鎮めることと封じることは、結果・機能・作用は同じでも、発想としては別だと思うのです。封じるとは、対象を嫌っていますね。これだけのお墓を造ったこと自体、嫌っていたとは思いません。

 鏡については、今回省略します。まだこの世界に疎いので断片が出土してもイメージがわかないからです。

2.魂を守る施設/たたり恐れた 桜井茶臼山古墳 被葬者へ興味一段と
  (産経新聞 平成21年(2009年)6月13日 土曜日 14版 総合 3)
  <MSN産経ニュース

 要約2: 全国初の「玉垣跡」の発掘と、大王陵墓クラスの発掘とは極めて少ない事例である。(浅茅原注:後者には、高槻市の継体天皇陵と言われる今城塚古墳の事例がある)
 この構造物については一応「玉垣跡」とあるが、初出のことなので諸説がある。
 *玉垣内部には生前の家や生活をかたどったミニチュア世界があったかもしれない。玉垣説(和田晴吾・立命館大学教授)
 *玉垣ではなく中国皇帝陵の墳丘上にみられる建物で、被葬者の霊が宿る施設。建物説(石野博信・二上山博物館長)
 *雄略天皇の事例と同じく、魂の暴れを鎮める役割が柱列にあった(浅茅原注:檻のイメージ?)。仮に檻説(和田萃(あつむ)・京都教育大学名誉教授)。
 *柱を隙間無く立てたのは被葬者の魂を内部に封じ込めた。仮に檻説(岡林孝作・橿原考古学研究所付属博物館・総括学芸員)
 *垣は被葬者の眠りを妨げないための遮蔽(しゃへい)施設。仮に重装備結界説(白石太一郎・近つ飛鳥博物館長)

 被葬者については当時の大王のどなたかだろうという説と、崇神天皇による四道(派遣)将軍のうち北陸担当大彦命(おおひこのみこと)説がありました。(塚口義信・堺女子短期大学名誉学長)

 感想2: 玉垣説(神社の囲い)、建物説、(仮)檻説、などが出ているようです。檻説については私が研究者の説を極端に解釈したに過ぎません。
 この件についてはすでに感想1で述べましたが、私は神社説(現代のお稲荷さんとはだいぶ異なる古式)を考えました。傍証を固める必要がありますが、古墳墳丘(墳頂)に鳥居が祀られた江戸時代の絵がイメージに深く残っているからです。
 それとは別に古墳上に神社が建っているという伝承は宇佐神宮(上宮)で知りました。あるいは梅原猛『神々の流竄(ルザン)』における出雲大社の役割説(大国主命を結果として封印しながらも、鎮め、また豪壮な神社を建てた)などが私のイメージに濃厚にあるのかもしれません。
 となると一挙に怨霊説になるわけですが、当時の一連の大王級前方後円墳が怨霊封じ込めと考えるのは、避けておきます。やはり、鎮めるための神社と考えておきます。もちろんこの考えと封じ込めの考えは表裏なのですが、表だって、どちらを墓として表現したかと考えるなら、檻よりも白木の社の方が妥当だと思いました。微妙な解釈の相違ですね。
 さて、被葬者については、どなたも決定的な大王名は出しておられないようです。大彦命説は事情が分かりませんが、古墳と文献上の想定・同時代性と、なんらかの理由が別にあるのだと思います。

 参考2: 桜井市出身の評論家保田與重郎は昭和43年に、茶臼山古墳の被葬者について、興味深い話を残していました。茶臼山古墳は、格式としては200m級でそれより前の280m級箸墓には及びませんが、想像される副葬品からみると経済力があったのは事実と思います。すると、保田が想像したこの地の大伴一族の祖先が祀られていると言う説は、外すわけにはまいりません。なお、引用中の宗像(むなかた)神社については、今年の3月に私も同行のJo翁も茶臼山古墳近くの宗像さんの存在に首を傾げていましたが、少し納得しました。

「櫻井の外山(トビ)の茶臼山古墳を淸掃した時、私は空想からして、これは大伴の偉大な氏上の誰人かの古墳でないかと思つた。大伴家は奈良へ移つてからも、ここを田庄(タドコロ)としてゐた。壬申の亂ののち九州の宗像神社をこの山つづきの土地へ祭つた根柢の一つに、大伴と九州のゆかりが思はれる。

 茶臼山古墳の背後は、肇國の鳥見靈畤(トミノマツリノニハ)の鳥見山であり、前にひらける景色はすべて國初大倭朝廷の舊蹟である。跡見の早瀨(ハヤセ)といふ、國始めの都にとつて、神聖な水源地だつた河瀨もこのあたりだつた。そのころ茶臼山古墳を調査した一考古學者は、この構造の壯大さと遺品の豪華さに驚き、これこそ崇神天皇陵でないかと云つて了つたのは、笑ふことが出來ない。」(日本の美術史/保田與重郎 推古時代・古墳)

3.桜井茶臼山古墳 60年前 軍服姿で発掘
  (産経新聞 平成21年(2009年)6月13日 土曜日 14版 社会 27)
  <MSN産経ニュース> 

 要約3: 茶臼山古墳で初の学術的調査がはいったのは、まだ終戦後の混乱が続く昭和24~25年だった。当時の古墳は開墾(つまり食料自製の畑)や、盗掘がさかんに行われ、放置しておくと茶臼山古墳が消え去るような状態だったようだ。
 現在橿原考古学研究所に第一次発掘の遺物が保管されている。その発掘を60年前に手伝った方達の思い出話がまとめてあり、軍服姿の関係者が混じる当時の様子がうかがえた。
 *見たことは口外しないように、写真も撮ってはならないと言われた。しかしそこでの経験が後の研究の原点となった。(北野耕平・神戸商船大学名誉教授(78))
 *石室から外に出るとワイシャツのそこここが真っ赤に染まっていた。大量の朱を使った古墳だと分かった。(大塚初重・明治大学名誉教授(82))

 感想3: 60年も昔に発掘された古墳を、現代再び調査したことに感動を味わいました。
 しかし、まだ橿原考古学研究所や他の研究者の図書が手元に無いので、少しいらだちを味わいました。それはつまり<何故、橿原考古学研究所は、60年後に桜井茶臼山古墳を調査したのか>という疑問でした。新聞やネット情報をいろいろ探してみたのですが、その点がうまく分かりません。橿考研の予算も人力も体制もいくつもの強い制限、限界があると思うのです。事情が無い限り、よりどりみどりで発掘調査に手を下すとは思いません。調査プロジェクト・スケジュールがどのように立てられているのか、そして60年後の再発掘をせざるを得なかった事情を、私は痛切に知りたく思いました。
 私の想像では、時間にして100年以内(桜井茶臼山古墳時代から大王位で2~3代前)、距離にして4キロ北方の箸墓や、纒向遺跡との強い関連で再発掘したと考えているのですが、~。どこかに、情報がないか調べていきます。

 参考3: 桜井市出身の評論家保田與重郎は昭和43年に、大規模な盗掘について次のように記していました。終戦後のこの地方の新聞を検索すれば、盗掘品がその後どうなったか、ある程度分かると思います。

「この茶臼山の古墳は、私の知つてゐる範圍でも、以前に二囘盗掘された。他國ものがいり込み、多量の埋葬物を横濱で處分したときいた。」(日本の美術史/保田與重郎 大倭朝廷時代・九千年の輝き)

4.桜井茶臼山古墳 大王を埋葬? 60年ぶり判明 木棺はコウヤマキ製 
  (産経新聞 夕刊 平成21年(2009年)6月13日 土曜日 4版 社会 8)
  <MSN産経ニュース

 要約4: 昭和24~25の発掘で見つかった木棺の底部(長さ5.2m、幅70㎝)は当時「マツ科の針葉樹、トガの巨木」と鑑定されたが、今回の発掘で竪穴式石室(長さ6.8m、幅1.3m、深さ1.6m)から木棺の一部と見られる100点以上の木片が出土し、これを顕微鏡で精査したところ、コウヤマキ(高野山に多いことから名付けられ、30mにもなる針葉樹)と特定された。一般にコウヤマキの棺は大王クラス、(ないし高貴な被葬者)のものと考えられる。

 感想4: コウヤマキの棺を使った丁寧な埋葬方式は、この3月に茶臼山古墳をお参りしたあとで、箸墓の東にある「ホケノ山古墳」へJo翁と同行したときに、いろいろ調べました。ホケノ山古墳のご遺骸はコウヤマキ(高野槇)の木棺におさめられていたようです。
 今回茶臼山古墳の木棺が、針葉樹トガからコウヤマキに判定が変わった状況はわかりませんが、橿原考古学研究所博物館・岡林孝作総括学芸員の話としてその樹が<高地に生えているので入手が困難>と知って、昔の人はいろいろな樹の特性をよく知っていたのだろうな、と感心しました。わざわざ高い山に出向いて、30m以上もある巨木を切り出すわけですから、それが木棺に最適と知っていなければ、使わないと思ったのです。

まとめ
 ついしばらく前に箸墓のことでニュースがあり、今度は茶臼山古墳の白木(玉垣近似)構造物の発見といい、この春畏友のJo翁と同行した史跡・遺跡が軒並み大ニュースにつつまれて、なんとも言いようがありません。
 今回正確にはわかりませんが、茶臼山古墳後円部墳丘は埋め戻されて現地説明会はなかったようです。事情は分かりませんが、3月に後円部から直登した経験では、あそこに数千の人が押しかけたら、古墳は壊れるし、墜落する人が出るかも知れません(這って登ったような急斜面でした)。だから、説明会がなくても仕方ないとは思いましたが、せめても、早めに橿原考古学研究所サイトで報告がでることを待ちたいです。 
 それにしても、なぜ茶臼山古墳を再調査されたのか。早くしっかり知りたいです。
(まさか「この60年間、かねがね気になっていたので再調査しました!」の一言ではないでしょうね())

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コメント

コメントが遅くなりました

 先日、北海道から帰還しました。利尻・礼文島にも足を伸ばしてきました。孫としては初めて男の子が生まれ喜んでいます。将来は、北海道でラジコンを一緒に飛ばしたいと思います。

 茶臼山古墳の件は先ほど、記事を書きました。

 しかし、Muの旦那は霊感師のようで箸墓・茶臼山と私を案内される古墳は直後に日本中の話題になるという、先見性。やはり、何というか霊感があるんやろね。

 この古墳は急がないと、陵墓参考地になりそうではないですかね。その前に調べるものは全部調べておこうという魂胆かもね。それに、箸墓が炭素14AMS法と較正年代法(年輪年代法により抽出された古代の木材の炭素14を測定し空気中炭素14濃度を微細に測定)で三世紀中葉とでましたが、関係があるとおもいますよ。

 現状では、桜井茶臼山古墳は3世紀末と定義されているが、100年程度は遡るかもしれない。予断を許さない御時世ですよ。

 記事でも書きましたが、明らかに磐余の王墓ですよね、それが記紀に書かれたヤマト王権の誰かは判らない。ただ、大陸の匂いが濃いですよね。

投稿: jo | 2009年6月23日 (火) 11時33分

JOさんの、久しぶりの名調子にうっとり(笑)

 そうですか。Muは固定観念として箸墓と茶臼山とは100年4Kmの距離があると思い込んでいましたが、もしかしたら、数十年4Kmの距離かもしれませんね。
 橿原考古学研究所が60年後に再調査したのは、こりゃやっぱり、纒向邪馬台国問題と直結しとります。うむ。

 纒向と磐余が直結するなら、日本書紀、古事記の神武さん崇神さんあたりも、分かってくるかもしれませんね。~21世紀になって、ようやくはっきりしてくるわけですな。

 ところで以前「事典 陵墓参考地/外地昇 吉川弘文館 2005」を手にしました。いま、その「Ⅱ宮内庁による陵墓参考地の位置付け」を眺めておりましたら、戦後昭和40年ころから、書陵部さんがどのような考えで参考地を扱ってきたかの国会答弁が抽出してまとめてありました。ふむふむです。

 Muは、建国の歴史をはっきり自覚するためにも、一時的な霊遷しと、盛大な祭祀とともに、箸墓さんを整備し、かつ、事実をきっちり記録し公開することが、今後日本にとっての千年の支柱として意味あると考えております。右であれ左であれ、山紫水明この「やまとの国」を作ってきた祖先の歴史が曖昧では、お猿さんの世界と変わりはござんせん。

投稿: Mu→Jo | 2009年6月23日 (火) 15時57分

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受信: 2009年10月23日 (金) 12時10分

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