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2009年5月 7日 (木)

小説木幡記:2009/05/07(木)横臥読書記

 今朝の起床は午前3時半すぎだった。昨夜就寝が午後9時半すぎだから、睡眠時間6時間で体内というか脳内時計は正確を保っておる。一週間ほど前に、午後の12時半から夕方の5時半まで爆睡したとき、その夜は案の定目がさえわたっておった。

 昨日は小説木幡記の筆すらとるあたはず。横臥しておった。いや、この一週間ずっと横臥していたと言って良かろう。蒲柳の質とはかねがね喧伝してきたが、これほどまでとは余も思わなかった。その間、えどるん、春ちゃんをまじえて木幡研総出で毎日うまいものを食しておった。山海の珍味のいいではない。丁寧に食材をあつめ丁寧に調理すれば、米もふくめて、すべて甘露の味となる。それにデザートというかおやつは大抵和菓子(宇治橋あたりの柏餅を二度ばかり記憶あり。近所にもよいのがある)で、これもよいよい。京都や宇治に住んでいてありがたいのは、比較的手頃な価格で、優れた和菓子を味わえることだろう。

 横臥しておる間、合計十冊ほどの読書があったが、唾棄したものや業務上極秘図書や、忘れた図書は木幡記にすら記さぬ。

1.家守綺譚(いえもり・きたん)/梨木香歩(新潮文庫)
 Mu絶賛。この三月に京都駅の書店でえどるん君から薦められた一本。
 絶賛、また絶賛。明治以降日本近代(純粋)文学の華と言えよう。

 場所は大津市と京都市の端境あたりか。いや哲学の道とおぼしきところや、疎水の水が庭にひかれていることや、琵琶湖が見えることや、京大ちかくの吉田山があることや、三井寺や石山寺がでてくるので、おぼろ。綿貫征四郎といううだつの上がらぬ作家が、琵琶湖で死んだ友人の家に住んでおる。しかし友人はちょくちょく現れて、征四郎にアドバイスしていく。犬のゴローは主人の守り犬のような働きをする日々。ゴローはカッパとサギの諍いを仲裁したことで、仲裁犬として琵琶湖の姫や春の龍田姫にも頼られる始末。
 そばの征四郎といえば、庭のサルスベリにぞっこん惚れられて、お返しに時々小説を読み聞かせてやる。

 作家の名はまるで板垣征四郎将軍を思い出させるような厳めしさだが、こういう人物が友人ならおもしろかろうな、と一読して思った。
 木幡研の小説談議で話しておったら、「それでは、これを」と梨木さんの別の図書が歌人の手からテーブルに乗った。<からくりからくさ>、先にえどるんが読むことになり、余は後日のこととした。この世に楽しみは尽きぬのう。

2.歳三の首/藤井邦夫(学習研究社、2008)
 ミステリーのジャンルに入るといえば入るのだが。むしろ新選組副長助勤二番隊組長・永倉新八の、土方らとたもとを分かった後の、後日談となろうか。
 扉裏に当時の蝦夷地「渡島半島」の地図があって、これと見比べて読むと感興が深くなった。函館の御殿山と五稜郭との間に一本関門という地があって、そこで新選組副長土方歳三は銃弾に倒れ、これで五稜郭戦争は終わったようなものだった。これは史実。榎本武揚(えのもとたけあき)や大鳥圭介(おおとりけいすけ)は後日に明治政府で活躍したが、ともに戦った土方は遺体の行方も分からず、消えた。

 ところで元新選組の生き残りは幾人かいたが、著名なところでは二番隊組長の永倉新八と、三番隊組長の斎藤一(さいとうはじめ)だろう。永倉新八の人物性格は数年前の大河ドラマ「新選組!!」で印象深く残った。その影響のもとで読んだせいか、ときどきドラマ俳優の顔がちらついた。しかしそれは余の事情である。

 この小説の見どころは、上にあげた函館界隈と西の「松前」を足繁く行き来する永倉や関係者の行動にあると思った。新政府からは追われる身だから、「逃亡者」の危うさがひしひしと文中から味わえた。政府密偵につきまとわれる中、それでも<土方歳三の首>を新政府に渡さないという気力だった。ここで「新政府」と書いたが、実は新政府の意向というよりも私怨があった。それが昔の京都、新選組初期の池田屋事件にからまり歴史小説の醍醐味となった。

 居酒屋や寺でときどきまともな食事にありつけるのだが、新鮮な焼き魚、味噌汁、米飯。漬け物もあったかな? そういう実に質素だが豪華な食卓が目に焼き付いた。追われて追われてやっとご飯を食べる。味噌汁の味、魚を箸で取り分けて、酒でぐっと胃の腑を温める。こういうのは、時代小説でないと味わえない。
 なおミステリー部分の結末は、歴史的にも「さもありなん」と、納得した。歳(とし)さんの最期は、一体どうだったんでしょう。タイムマシンがあったなら、その時その場へ駆け付けたいところです。「新選組!!」の一年後に「土方歳三の最期」が放映されて記録したが、もう一度見たくなりましたなぁ(笑)。

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コメント

日日平安

 山本周五郎のこの小説を思い出しました。
内容はかなり違いますが、日日平安という言葉の響きがぴったりです。

 あまりあっちゃやらこっちゃやらへウロウロせず、同じ処にいて、ハデな料理ではなく魚、野菜、米の良質なのをいただき、和菓子と宇治茶でフィニッシュして本でも読もうか。
多種多様の本を読んでこまそうか。
まことMu世界の開陳の記事と拝見しました。

 ところで、枇杷でええ杖作るから待っとくなはれ、と、以前申し上げました。
その枇杷があれよあれよという間に伸びまして、実もつけますし、ノラたちの爪磨き場所にもなっております。
約定を果たせそうにありませぬなあ。

投稿: ふうてん | 2009年5月 7日 (木) 23時55分

ご無沙汰しておりまする、ふうてんさん

 かつかつMuBlogを記す日々です。
 質もありますが、この生きている世界を強いて言えば肯定的に見、この世に呪詛をまき散らさないようにしております。だから言葉でもうすと「日々これ好日」となりましょうか。

 不平や不満や呪詛があれば、否定の心がわきあがれば、それを我慢したり押し込める方向ではなくて、「忘れる」方向をとってきました。するといつの間にか、なんとこの世は気楽なものよと、見えてきたのです。

 一般にこの操作をこなす経験を積まないと、焼き魚はどれほど美味な魚であれ、単に肉ではない生臭い魚の焼いたのになってしまうし、味噌汁もその具や味噌や味噌加減がどれほで上等でも、フレンチのスープより安物!と、そのようになってしまうものですね。

 図書も。
 じっくり味わえば、二十年前、三十年、百年前の図書にも作者の味わいがあって、現今はやりすたり、格付けとは違った世界があるもんです。

 重大発言をしておきます。
 絵も彫刻も小説も、芸術も学芸もそして科学ですら、「発達」とか「進歩」という考えを当てはめるのは、ものすごい馬鹿げたことだと思っています。稚拙さの美と、洗煉の美は両方あってもおかしくないと思います。
 縄文土器と弥生式土器が永遠に共存してもよいわけです。ローソク時代も、電気だらけの時代も、両方よろしい。

 ただ、社会制度としての奴隷制度や人種差別は消えた方がよいでしょう。

 つまり。
 杖付く日々があっても、元気にRSで走り回る時があっても、両方よろし。よくよく考えてみると、「痛いなぁ」とつぶやきながら鎮痛剤でとろけた頭に、芭蕉やミステリが染み込んでくるのも、これもまた快楽ですよ。あはは。

投稿: Mu→ふうてん | 2009年5月 8日 (金) 06時31分

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