小説木幡記:2009/05/04(月)松尾芭蕉、読書記
GWの中日、土曜日と日曜日と今日を読書日にした。幾つも読んだが、そのうちblogに公開できるものをメモしておく。
芭蕉:その人生と芸術/井本農一(いもと のういち).講談社現代新書、1968
新書としては随分昔の図書だ。余が入手したのは、1983年(15刷り)で、長く積ん読したものだ。いや、このころNDK(日本文学データベース研究会)関係でプログラミング教本を書き、その際余は「奥の細道」を題材にして、<古典とプログラミング>をまとめた。その関係で手にしたものだろう。
この夏期には『芭蕉/保田與重郎』を考究予定なので、新春から芭蕉関係の図書をいくつか眺めてきた。眺めて~という意味は、手にとってぱらぱらページをくると、それだけで善し悪しが分かるから、不要なものは全ページ舐めるように読まなくてもすむ。しかし読んで置くべき物は読む、もちろん読書メモに残すかどうかは別のこと。
井本先生のこの本は、舐めるように読んでおいて良かった。芭蕉を芸術至上主義者の視点で描いていて、それが「なるほど」と、納得できる筆力でデビューから大阪終焉まで、一読了解できる。
芭蕉は実事(世間で無事いきぬくこと)と虚事(芸術至上)とのバランスをとらず、晩年においても家なく、財産なく、家庭がなかった。虚事、虚構世界構築者として死んだ芭蕉は、実世間からみれば人生敗残者である。短詩系芸術の世界からみれば、芭蕉はその道の始祖であり、輝かしい変革者である。
いや、こういう対比はこれまでも芸術全般の世界で語られてきたことだから、とりわけ芭蕉が、とか井本先生が、と記しても意味が薄い。なによりも、井本先生の筆力に感動を覚えた。特に、芭蕉晩年の「秋深き隣は何をする人ぞ」を先生は<芭蕉の最後の光芒>と見なしておられた。それはつまり、他の秀作に比べても至高の境地の句であるとの、断定である。それが、余の肺腑をついた。
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