卑弥呼の墓(012) 箸墓築造は240~260年か? 国立歴史民俗博物館の放射性炭素(C14)年代測定
承前:卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡
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分析方法は「C14:放射性炭素年代測定法」で、含有炭素の数を数えて減り具合で年代を出すのだが、これと樹木の「年輪年代測定法」との併用で、精度があがったようだ。
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今回の発表は、科学分析の手法が絵に描いたように卑弥呼の没年(西暦247~248年と、諸説)に重なったので、箸墓は邪馬台国女王卑弥呼の墓と、説が流布した。
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私は箸墓を昔から卑弥呼の墓と考えてきたが、実は難しい問題があって、それが私の中では科学的な合理レベルでは解かれていない。
つまり、現地でみれば分かることだが「箸墓」は実に巨大である。全長280mもあって、最近の調査では周濠(池)の大きさと合わせると墓域は450mまで伸びることも分かっている(参考3)。
これだけの初期バチ形・前方後円墳を、どういう施工主が技術者グループに依頼・命令し、いつから設計し、施工し、完了したかの長い年月を想像すると、周辺からでてきた土器の年代だけでは、どうにも判定が付かないことだと思ってきた。
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単純な話で想像すると、現代の私が箸墓を造る担当者だったとする。
「偉い人の墓をつくる、君に任せる」
「いつごろまでに? 規模によって完成時期は変わりますが。それに、その偉い人は今お元気なのですか? すでに亡くなられたあの方ですか?」
→ここで、生前から造ったのか、死後造ったのかで、古墳自体と被葬者の年代にズレが生じる。
→エジプトのピラミッドが墓とは最近いわないが、歴史的にはファラオ存命中からの一大事業だったことは事実としてある。
→日本の巨大・前方後円墳が被葬者の存命中からつくったものか、死後に時間をかけたものなのかは、事例毎に調査が必要となる。
→箸墓がどれくらいの時間をかけてつくったのかを、「現代の再現方式」でシミュレートした報告がないだろうか?
→現代人の普通の感覚では、現地にたって往時を偲べば、10年~20年はかかりそうな規模である。
→それだけの期間のものとなると、周辺出土の遺物の年代だけで、被葬者までを判定するのは無理がある。
→たとえ長い年月の間に墓室が荒らされていたとしても、副葬品なら精度は格段に上がる。
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建国の根源を解明するために、あえて墓を暴く罪を認めた場合、もう少し被葬者について正確な情報が得られることだろう。
進言するとするなら、祭祀もって霊を一旦遷したてまつることで解決すると考える。祭祀の根本にたてば、神を遷したてまつり、その間に世俗のあれこれ(墓所の作り替え、神殿の整備、神社の移動など)を施すことは、異なことではない。
どう考えても聖山三輪のふもとにある箸墓、日本書紀に大量の記述ある箸墓が、建国に重大な関わりを持つことは誰しも認めることである。
それを分明にすることは、国宝・重要文化財や一々の社寺の判定吟味などに比べれば、重要度が高いというレベルの話ではなくて、国家の責務であろう。
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とはいいながらも、歴博が240~260年と箸墓築造年を判定したのは、C14の精度をみるまでもなく当たっていることだろう。発表を待たねばならないが、おそらくこのあたりの事情を熟知したうえで、長期間にわたり周辺のいろいろな遺物を判定した結果として、「統計的蓋然性」として「本体箸墓」の築造年に結びつけたものだと、解釈する。
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残された問題は、築造年と被葬者を結びつけるのは、副葬品あるいは墓誌・墓碑銘(エピタフ)がないかぎり決定付けるのは困難だといえる。卑弥呼の前のひとか、卑弥呼か、トヨか、その後の倭王なのか、……。まだまだ諸説は乱れる。ミステリ小説風にいうならば、空の棺という可能性すらある。
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私は、崇神紀を典拠にして合理的な解釈ができれば、それでよいと考えている。どう考えても、箸墓は三輪山との関連抜きでは「歴史の真実」としてはなにも分からないだろう。
というわけで、私のシリーズ「卑弥呼の墓」はまだまだ続きそうだ。
追伸
箸墓を単独で、孤立した前方後円墳としてみることよりも、纒向遺跡全体の中でその偉容や意味を解きほぐすことで、状況証拠が確固としたものになる。今朝、木幡でそう考えた(参考4)。
参考1: (JoBlog)箸墓古墳築造時期は卑弥呼の死亡時期と同じ
参考2: (インターネット:MSN産経ニュース)土器の炭素年代が卑弥呼と一致 奈良・箸墓古墳
参考3: (MuBlog)卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認
参考4: (MuBlog)桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳
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コメント
ええんとちゃいますか
卑弥呼の墓=箸墓
今回の研究発表で大体決まったようですね。
MuさんとJOさんは(乾杯!!)でしょうね。
当方のように歴史に不案内な人間にとっては、その卑弥呼はんとその後の日本の歴史との接続が気になります。
気になるというよりも、まるで知りません。
歴史、特に古代史に不案内な我々衆生には645年のクーデターから始まった、中国の律令制を真似した日本の始まりしか分かりませぬ。
卑弥呼はんのお墓が奈良方面にあった、その証左が出てきた。
ええんとちゃいますやろか。
それから、何がどうしてどうなったやら。
ほかも女史の(それから)じゃないですが、250年ころから645年までの日本の歴史はどないなっていたのでしょう?
魏志倭人伝のあと初めて記録された外国の文献は何なのでしょう?
いつ頃、日本は朝鮮や中国の歴史書にどのような形で語られ始めるのでしょう。
サッパリ分かりませぬ。
投稿: ふうてん | 2009年5月30日 (土) 18時48分
ふうてんさん、こんばんわ
いやはや歴史嫌いの風翁を逆撫でしたような記事なのかいなと、ぴりぴり察しました。その分、Muが倍して歴史好きになりますから、結局ゼロになりまして、安定した、バランスがとれますね(苦笑)
西暦645年ころの唐は、戦後の米帝みたいな羽振りと好戦的な性格だったんでしょうね。その前の随など100万の軍を率いて高句麗(今の北朝鮮あたり)に何度も攻め入り、唐になってもひっきりなしに十万前後の軍を朝鮮半島に入れたようです。当時の唐の軍船はNHKの再現では、巨大戦艦、馬で走り回るほどの大きさだったようです。それが、何艘も群れなして朝鮮半島西岸の白村江に終結し、日本と百済の同盟軍は完膚無きまでに破壊されたよし。
律令制を真似るというよりも、遣隋使、遣唐使をとおして、中国の絶大な文明の前には、だれも刃向かうことができず、また学問、芸術、科学・医学、政治法律、すべてにおいて日本が小学生なら、中国は大人くらいの差があったと思います。だから、真似できるだけでも日本は優秀だったのでしょう。戦後の日本が当時の米国やソ連の前で茫然自失状態だったことを思い出せば、7世紀ころの日本が理解できそうです。
ええ、それで。そのずっと昔の話。
卑弥呼さんの3世紀・邪馬台国と、記紀の4世紀・大和朝廷がどうだったのかは、定説はないと思います。多分、三輪山周辺に都をもった大和朝廷・十代・崇神天皇に直結していると思います。三輪王朝と呼んでおります。
だんだん南下して桜井の茶臼山古墳あたりにぴたりと接合する話です(笑)
となると神武さんですが、これはもしかしたら卑弥呼さんらの爺さんかもしれません。
中国朝鮮の文献では3世紀を彩った卑弥呼のあと、4世紀は言及がなくて、5世紀に突然倭の五王(応神天皇、仁徳天皇、……)が現れます。河内王朝と呼んでおります。
推定4世紀ころの三輪王朝と5世紀・河内王朝の関係は、神話的な神功皇后(一応、応神天皇の生母)を挟んで、ようわかりません。なんやかんやと婚姻、血族関係が細く太くあったと推測されます。
日本には、完全な断絶、要するに漢民族が突然モンゴル族(元)に、目が覚めたら女真・満州族(清)に、征服されて数百年という完全無欠の「革命」はなかったようです。穏やかな山紫水明の土地柄と思います。
河内王朝の末期・雄略天皇のあとは、6世紀(507年)に継体天皇が越前からはるばるでむいてきて、……、ここからはJO翁節に任せた方がよろしいようで。言えることは、それから約140年後に645大化改新へと続くのです。
昔のことはよくわからないものです。
その邪馬台国さえ、近畿か九州かでもめてきた国柄ですからね。
投稿: Mu→ふうてん | 2009年5月30日 (土) 20時11分
ほうでしたか
よう分からへんけど山紫水明の穏やかな国やったはず。
そう聴いてホッとしました。
それで十分でおます。
不比等が天皇制らしきものを作ったのでしょうか。
人麻呂が日本語の表記法を確立したのでしょうか。
その後の日本につながる様々なシステムを作った600年~700年ころ。
そういう時代に(風雪梅安一家)が生きていたらおもろかったやろなあ、思います。
彦さんやJOさんや針師の梅さんが、それぞれの役割を果たす姿が眼に浮かぶようです。
ほかも女史の報告によると、来年2010年は平城京1300年やそうですね。
2010-1300=690
なにやら、きりのよろしい数字が並びますねえ。
その前の年に我らがマドンナ、卑弥呼はんのこともハッキリするとよろしいですなあ。
投稿: ふうてん | 2009年5月31日 (日) 00時39分
ふうてんさん、昨夜は疲れて9時前に寝入ってしまいました。夢の中で予感におそわれて、深夜ぱっちり目があいて、マシンみてみたら、点いたままで、コメントが見つかりました。ふうてんさんは深夜に強いですね。
さて。
人麻呂さんのことは歌は知っていますが、日本語との関係がタミフルなのかどうか、そのあたりはさっぱりわかりません。
「天皇制」という言葉、用語は厳密に考えると一悶着、二問着おこりそうなので、これもパスさせてください。強いていうなら「制」という漢心(からごころ)というか、あるいは明治以降の欧化学問の導入による考え方は、もともとこの山紫水明岩清水したたる・大和心にはそぐわないことなんでしょうね。
ふむ。システムとしては天武天皇さんが頑張ったあとを、上手に不比等さんが応用したと思っております。
平城京1300記念行事は楽しみにしています。イメージとしての青丹よし奈良のみやこは、京都とは一味二味ちがった、青空の中の東大寺シビの輝きでしょうね。
私は長く生きてきて、平安京も平城京も、そして飛鳥、イワレも、まだまだ楽しみ尽くしていないと残念に思っています。もうすこし、こまめに訪れたいです。
梅翁もJo翁も、みんな奈良にお住まいになったら、楽しいでしょうね(京都とか宇治と言わないのが、大人の知恵。個性濃いお二人が近くだと、身が持ちません(笑))
投稿: Mu→ふうてん | 2009年5月31日 (日) 02時28分