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2009年3月24日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(8)まとめ

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳
目次:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに

心の旅路
 こうして今回の私の「マキムク・心の旅路」もようやくまとめに入りました。現身(うつしみ)の私や同行二人Jo翁が実際に旅したのは、2009年3月10(火)午前十時に奈良県桜井市の近鉄桜井駅から始まり、終わりは同日午後四時前に奈良市の近鉄奈良駅前でしたから、ごく短い旅程だったわけです。しかしその夜から記録をMuBlogに掲載し出して、本日3月24(火)の午前四時まで、(0)~(8)に至る記録をまとめるのに丁度二週間かかったわけです。

 私はつまり、二週間の長い心の旅をしていたわけです。時代は纒向(まきむく)遺跡の始まる三世紀から、箸墓をへて、桜井・茶臼山古墳の四世紀初頭(参考1)までの約100年間だったことになります。距離にしますと桜井茶臼山から箸墓を経由して纒向小学校の北・勝山古墳まで、直線ではわずかに4.5kmほどでした。当時の健脚の人達だったなら、磐余(いわれ)の地から纒向まで数十分で歩いたことでしょう。

気がついたこと
 行った先での感想はそれぞれの記事に少しずつ記しておきました。全体的にまとめてみますと、どこからでも聖山「三輪山」を見ることができたのが印象深いことでした。大和三山は橿原の畝傍(うねび)山が時々目に入りました。南に目をやったときは多武峰(とうのみね)が青く見えました。ここには二十歳の頃後輩とYH(ユースホステル)に一泊しましたが、現在あるのかどうか知りません。翌日橿原神宮へ行き近鉄で京都に戻った遠い記憶があります。
 三輪山は三世紀~藤原京の時代まで、平城京に遷都する直前(710)の八世紀初頭まで、都の宮殿から常に眺めることが出来たはずです。もちろん難波や近江に遷った短期間は除いてですが。

 一種の事件のようなもので茶臼山古墳では発掘現場に出くわしました。
 その印象が強く残ってしまったのですが、同行のJo翁の解説とイメージからは、この古墳が南の鳥見山(245m:とみやま・とりみやま)という神武天皇伝承に直接かかわる尾根からの、丘尾(きゅうび)切断タイプの前方後円墳であることの確認と、そしてホケノ山古墳に立ったとき、同じく東の三輪山に続く丘尾切断タイプと話していたことが記憶に残りました。つまり、三輪山も鳥見山も聖山で、その山に続く丘を使って昔の前方後円墳が造られたということになり、山からの血脈(地脈)のようなものを想像しました。ある種の前方後円墳は、聖山に血脈(けつみゃく)を持っていたのかも知れません。もちろんJo翁説では箸墓はホケノ山古墳を通じて三輪山に直接接続していることになります。

 お山との関連から考えますと、石塚、勝山、矢塚、東田大塚の纒向古墳は平地に固まってありますから、異質でした。纒向遺跡という古代都市計画から考えますと、あきらかにホケノ山古墳や箸墓古墳は立地からみて別種のものと感じたのです。出土品や古墳形態の専門的観点をすべて棄ててみたとしても、次のようなグループ関係がみえてきました。

纒向遺跡関連古墳地図

  纒向の平地: {石塚、矢塚} {勝山、東田大塚}
  三輪山血脈: {ホケノ山、箸墓}
  鳥見山血脈: {茶臼山古墳}


纒向遺跡のこと
 この記事を連載中に、纒向遺跡の発掘成果が発表(参考2)されて、纒向・石塚古墳とJR巻向駅の間で古代宮殿跡が現れてきたようです。もちろん以前からの発掘の継続なので、結論が出たわけではなく、これからも徐々に全貌がわかってくるでしょうが、私は丁度そのあたりを何度も通り過ぎていたので、感激しました。

 ところで世間では邪馬台国論争とか卑弥呼のことで盛り上がっていましたが、私は少し冷静でした(笑)。考古学者や歴史学者などの研究者は事実を理屈で考えていきます。世間は新聞やTVの番組から好みで感じていきます。私はその間に立って、青年期からの三輪山伝承と現地の風景が心にこびりついていますので、その心の原風景から現代の現象を眺めています。

 だから今回の発掘成果も騒ぐほどのことではありませぬ(aries)。
 当たり前のことが当たり前のこととして現れてきただけの話です。邪馬台国とはヤマトの中華風訛りにすぎず大和朝廷のヤマトです。巨大な初期280m級前方後円墳、周濠を併せると500m近い結界を持つ箸墓とは卑弥呼、すなわち「日の姫巫女」の墓所以外何物でもありません。
 それは立地の問題です。現代の京都市伏見区にある桃山御陵にある明治天皇陵、その円墳を後世の人が眺めたら、立地から余程の方の墓所と自然に判断するのと同じです。(そこに立てば、実感できます)

 今回解けなかった深い課題は、JR巻向駅近辺から、南へ一里の磐余(いわれ)の地にある桜井・茶臼山古墳に向かって、歴史がどのように動いたのかということです。その間距離にして約4km強、徒歩で一時間、時代ではわずかに百年です。分かりやすく言うと、邪馬台国から大和朝廷への遷り話になります。そのあたりは記紀神話や文献に頼らざるを得ないでしょう。私は今度は文献学者の振りをすることになるわけです(taurus)。忙しいことです。

旅の想い出
 同行二人Jo翁は、枚方の樟葉で育った方なので本当は継体天皇の事跡を真剣に考えられているようです。継体天皇は還暦直前に樟葉宮(くすばのみや)で即位し、しかも大和入りをしたのは20数年後でした。その大和とは実は他でもない桜井の磐余(いわれ)の地(つまり、茶臼山古墳近辺)でした。
 同行している間、Jo翁の気持を「次は、継体さんだな」と、そんな風に想像していました。
 Jo翁の青年期は、大学の授業に出ず年がら年中山歩きをしていましたから、さすがに山や丘を見る目が鋭かったです。ホケノ山後円部にじっと長時間立ちすくんでいたJO翁の姿は写真に残しておきました。

 短時間の旅程とはいえ、午後に奈良ホテルの手洗いで、熱い湯で洗顔したときはほっとしました。
 また元気なうちに、あちこち走り、歩いてみる意欲がふつふつと湧いてきた、旅の終わりでした。

参考1(インターネット)桜井茶臼山古墳範囲確認発掘調査 記者発表・現地説明会資料(2003年3月24日)
参考2(MuBlog) 卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡

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コメント

明日、夜には横浜に到着予定です。早く茶臼山古墳、マキムクの記事を書きたいのですが、やっと明後日あたりから取り掛かれそうです。

 しかし、よく私の本心を見抜いておられるのですね。あの日からイワレの茶臼山古墳とホケノ山古墳の事が頭を離れません。ず~~と寝床で考えています。

 今日、横浜の自宅から電話があり、例の早稲田大学の件は合格したそうで、授業料と入学金は払い込んだと連絡がありました。4月から爺さん学生の誕生です。学割とシニア割引のどちらが有利なんやろな~~と考えています。

投稿: JO | 2009年3月24日 (火) 20時56分

Joさん、ご入学おめでとう
 これでJoさんも念願の考古学徒ですなぁ。
 心配なのは遺跡で足を踏み外すことですが、先般の桜井・茶臼山古墳・後円部直登の様子では、あと十年は達者に思えました。で。

 それにしても継体さんですが。
 何故越前から樟葉に来たかはもう良いのですが(Jo説ではあのあたりの経済基盤は継体さんを支援する氏族に関係があったのでしょう)、何故イワレの地なのかは、なにか考えがあってのことと思います。茶臼山古墳が4世紀として、継体さんが磐余玉穂宮に来られたのは6世紀ですね。ずいぶん時間がたっています。しかし磐余といえば神武さん。……。

 まあ、継体天皇さんのことはJoさんにお任せするにしても、お墓は一挙に高槻へ飛ぶのですから、この天皇さんの動きはダイナミックでよう分かりませんなぁ。

 よろしくご指導ください。

投稿: Mu→Jo | 2009年3月25日 (水) 16時30分

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