桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(6)纒向矢塚古墳
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平成20年の桜井市資料(参考1)によると、矢塚古墳第3次調査の結果が「纒向型前方後円墳の規格である全長・後円部径・前方部長が3対2対1の比率を持つ」とありました。そして2009年の新聞報道では、勝山古墳、東田大塚古墳の全長が長いことにくらべて、この矢塚古墳は纒向型の典型であることが再確認されました。参考2によると「矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。」と発表されていました。全長96:後円径62:前方34=3:1.9:1≒3:2:1、ですから確かに纒向型となります。
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このことから私が理解したことは、前方後円墳の形式分類が多少複雑になったということです。古さはいまのところ纒向小学校をぐるりと囲む4つの遺跡、この矢塚も、石塚、勝山、東田大塚もすべて箸墓古墳より若干古いようです。
現地で再確認できますが、4つの古墳は1カ所にまとまっています。徒歩で次々と現れる近さです。箸墓は約1キロ先の東南にあります。
おそらく完成した時点では木々もないでしょうから明瞭な前方後円墳の特徴を示し、しかも前方部の長さの比が後円部に対して異なりますから、この同時代の隣接した古墳を当時の人ははっきりと「違った物」と分かっていたと思います。
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被葬者の社会的位置は首長クラスだったことでしょう。初期に普通の人が全長100m以上もの墓を作ることはないと思います。ではなぜスタイルが異なるのか。一つの推理は、性別。たとえば矢塚には女性、勝山や東田大塚には男性。その逆かも知れません。被葬者の性別によって古墳スタイルが変化するかどうかは、時代にもよりますから断定は出来ません。
短期間に異なったスタイルの前方後円墳がまとまってあることの仮説が必要です。
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あるいは4つの古墳の築造時期の違いがせいぜい数十年の単位だとすると、首長家の身内の格付け。……。副葬品らしき物はそれぞれに少しずつ出ているようなので、調べると分かるかも知れません。ただし、盗掘は人類史に普遍的なことなので、完全には分からないでしょう。
木々の多様性や、古墳の地が見えているので公園のように見えました。手前の掘削機器は発掘調査のものか他の目的のものなのか、分かりませんでした。ただし、前方部の長さを調べたのは後円部から離れたところなので、水田や田んぼの中だと思います。そしてそれらは埋め戻されたと記事にはありました。
農業のことが良く解らないのですが、この水は水田の水でしょうか。畦らしきものが左に見えますから、そういう推理を働かせました。こうして近くで写真を撮ると、なだらかな後円部だと分かります。真ん中の段のようなものは、古墳の段なのか、後世の道を付けた段なのか分かりません。
想像ですが、1700年以上にわたりこの平地の中の小山はどんな風に見られ、扱われてきたのでしょう。時には段々畑になったり、砦になったり、家がたったり、祟りがあると怖れられたり、邪魔な凸地と思われたり、敬われたり様々だと思います。いろいろな経験を経て、今も如何にも古墳らしい姿があるのが不思議と言えば不思議です。
矢塚古墳は纒向(まきむく)小学校と道をはさんで真西に隣接しています。撮影地点は矢塚古墳から真南にある東田大塚古墳へ行く道の半ばから、北にカメラを向けました。
このあたりは標高が70mです。そして丁度北西の約4km地点に弥生時代の遺跡として有名な鍵・唐古(かぎ・からこ)遺跡があります。鍵・唐古あたりの標高が50mです。平地ですが、直線4kmで20mの標高差があって、さらに纒向小学校から南東3km地点が三輪山の頂上(標高467m)です。
順番で言いますと、最初は田原本の鍵唐古近辺に弥生の人達が住んでいたのでしょう? だんだん南東の三輪山に向かって移り住んだのか、あるいは突然天からJR巻向駅あたりに沢山の古墳時代人達が舞い降りたのでしょうか? その天とは、伝説では纒向の東、三輪山の北にある穴師と言われています。もちろん、穴師のもっと東の高原からだと想像しております(笑)。
さて次回は、最後の「東田大塚古墳」の見学記ですが、ここでメモをしておきます。
情報図書館学(図書館情報学)の世界では図書や雑誌およびその内容を含めて一次情報資料と言います。小説そのものとか、学術論文そのものとか、オリジナルな情報をさします。
考古学でも、図書や論文は一次情報資料ですが、特に「遺跡」そのものは0次情報資料と言えます。遺跡そのものが最もオリジナルな情報であると考えられるわけです。そろそろ今回の0次情報資料探索の旅もおわりに近づきます。
参考1:矢塚古墳の範囲確認調査(広報「わかざくら」 平成20年7月)/桜井市文化財課
参考2:(ネット情報)邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石/産経ニュース 2009.3.5 22:56
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