桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)
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現地の案内板の内容は古く思えますが、以前は全長96mで「纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚・ホケノ山などの古墳と同じ築造計画」と考えられていたようです。しかし参考1によれば、その後全長が120mとなり前方部の長さが特徴的にとらえられました。
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従前記しましたが、勝山と東田大塚古墳とは、全長が両者共に120m前後になり、前方部の短い矢塚古墳(全長96m)とは別のタイプであると分かってきたようです。このように別のタイプが現れてくると、難しい問題が生じます。過去の分類体系に組み込むことが困難になるわけです。
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ある種の学問とは、対象データを分類することで知識情報を積み上げて行くわけです。たとえば考古学だと、土器の編年とか古墳の大きさや形状の、時系列にそった流れを分類することで全体が把握出来るわけです。その分類表全体が学問の成果と言えましょう。しかし、そこに容易には組み込めない新種がでてくると、……。
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学問に於ける分類の難しさとして二つあると考えます。一つは要素の一つ一つに個性があって、他と比較するのも難しくまとめようが無い事例です。たとえば飛鳥の石造物などはあの地域、年代に固有な現象なので分類が難しくなります。つまり閉じられた世界の中でのものとなり、普遍性を見出しにくい結果となります。
もう一つの事例として、今回の勝山や東田大塚古墳のように、ある時代に纒向形前方後円墳が主流だった世界に、突然そうではない前方後円墳が土中から湧き出てきたわけですから、どこに分類するか非常に難しいと想像できます。新たな分類項目をつくることになるでしょう。学問に於ける新分類項目とは、生物学でいうと新種発見に近いでしょう。時にはそれまで営々と積み重ねてきた分類表を破棄することもあり得ます。
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さて今回の東田(ひがいだ)大塚古墳見学で、Jo翁との纒向遺跡を中心とした桜井市古墳巡りも終わりとなります。まとめ記事は書く予定ですが、なにかしら古墳の決定的な数値データや発掘状況を入手できず、まとめとして断言することが出来ない状態です。ここで、参考2の地図図版をもとにして若干手を入れましたので、それと一緒に東田大塚古墳の写真を御覧ください。なお、巨大な?マークは「追伸」による今夜の飛び入り情報です。
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ところで昔、西夏学・文字の国際的研究者である西田龍雄(京都大学名誉教授)先生の側で仕事をしていたとき、遺物などに対しては <断域と断代とが大切です。二つの離れた点に一気に線を引き関係づけるのは、想像にすぎません。点と点の集合から線を浮かび上がらせるのが学問です> という内容のお話を直接うかがったことがあります。断代とはその遺物の時代を決定すること、断域とはその遺物のあった場所を決定することです。決定するにはものすごい時間がかかります。
今回、いくつかの古墳を探検して思ったのは、まさしく纒向遺跡・古墳も神殿跡も壷も石棺も副葬品も、すべて断域と断代によって始めて全貌がわかることだと思いました。時間がかかりそうです。
(ただし、古墳のような不動産は断域に間違いは少ないと想像します

(参考2→p150<図2 三輪山周辺の主要古墳位置図>より、範囲を狭め、擬似的に古墳形状を付加した)
(竹藪の見える東田大塚古墳: 纒向小学校から南へ約100地点から撮影)
追伸
昨日2009.03.20の夜間、インターネットの新聞記事で「卑弥呼の館」らしき遺跡の発掘成果が載っていました。
「卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡」(産経ニュース)
そろそろ桜の季節というのに、忙しいことになりそうです。しかし、まあ宮殿がJR巻向駅西近辺の平地にあっても、それは良いのですが、丁度聖壇石塚古墳の近くでもありますしイメージはわくのですが、居室は東の小高い山裾に別宮殿があったと私は幻視しています。
参考1:東田大塚(ひがいだおおつか)古墳の範囲確認調査・広報「わかざくら」 平成20年5月
参考2:『三輪山の考古学』より「6 三輪山周辺の古墳文化/網干義教」学生社、2003.3
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コメント
Muさん お疲れさまでした
今回の紀行記事は随分と力が入っていましたね。マキムクの古墳を知らない人には最高のガイドとなったと思います。私も随分と参考になりました。
今は未だ北海道は蝦夷地におりまして、ゆっくりコメントも記事も書けない状況です。娘が寝込んでいて、家政夫として日夜働いております。
マキムクを本格的に発掘するんですね、50年、100年かかるかも知れませんな~~。もう、お互いあの世かもしれません。そこで、大胆で綿密でトンデモな仮説をたてたいですね。昔、Mu&Joという翁が邪馬台国について素晴らしい仮説をたてていたと言われるような。
投稿: jo | 2009年3月21日 (土) 21時49分
Joさんおはよう
このごろ夜なべ仕事がたたって、さっき起きました(8時少し前)
一時にあっちやこっちで発掘されると、身が持ちませんな。考古学者とか研究所資料室も、毎日こんな状態なんだと思います。
ネットに調査報告がでるのはタイムラグがありますし、なかなか確定的なことは書けないし、研究者や調査する人のご苦労がしのばれますね。
Joさんが言ったように、日本国はあの近辺を国家プロジェクトとして押さえないとね。国家の歴史、ルーツが曖昧なままなのはよくありません。
私ね、隠居したら纒向遺跡のデータ、調査資料、写真も動画も整理整頓DB化し邪馬台国博物館に格納する仕事をしたいですなぁ。
そうそう、邪馬台国博物館って、まだないですね?
ところが、ご承知のように、
「邪馬台国周遊図書館列車ジオラマ」というのは、葛野研にその姿をうっすらと現してきました。そこに前方後円墳タイプのアクリル製小型PCを埋め込んで、DBMSを走らせ、一方少年司書ロボがサービスするという塩梅です。
仮説。
仮説を打ち立てて、それが実証されたら、本望ですが。調べれば調べるほど、カオスのようなところがあって、難しいです。
ではJoさんの纒向紀行文を、楽しみにしております。
投稿: Mu→JO | 2009年3月22日 (日) 08時24分