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2009年3月30日 (月)

小説葛野記:2009/03/30(月)京都の桜だより:もう一息(笑)

教員にも春休みがあるのです
 大学にも春休みがある。いやいやもちろん学生は2月に試験が終わればさっさと帰省したりバイトに入ったり、就職活動に本腰をいれたりで、キャンパスで顔を見ることは絶無なのだが。そうじゃなくて、教員も事務もほんの少し息抜きがある。それが三月末の一週間程度。慣例では、昔はもっとおっとりしていたが、この五年間近くはぎりぎりまで会議や仕事があって、教職員がキャンパスを行ったり来たりしている。それでもここ数日は人影がない。

 余も世間にあわせ今日は早朝から木幡に籠もってあれこれ励んでおった。ようやく文藝の神様がちかごろ降臨されることが多くてうれしい。と、いいながらすぐに手元の分厚い「イリアム/ダン・シモンズ(早川書房)」に手を伸ばしてしまう。数年前に買った分厚いハードカバーで二段組み800頁近くある脳。これが終わればまたしても、オリュンポスという上下本が続く。ダン・シモンズ世界に入り込むとなかなかぬけだせなくてぇ~。

 それはよい。桜だ桜だ。サグラダファミリアではない。
 午前10時になったので仕事を止めて(早朝から5時間だから、もう良かろうと思って)、RSにうちまたがり24号線を走ったが、混む混む。目当ての昼食は止めて、途中ヨシノヤの牛ドンをいただいた。380円。目当ての1/3の費用ですんだ。近頃は節約精神が旺盛で、ご飯たべるにもなにかと工夫をしておる、その成果也。

おお、鴨川桜
 まず、今日は周辺と思った。
 鴨川にそって川端通りを七条あたりから北上した。七条と五条の間の鴨川桜はまあ咲き出した。そうだね、60%程度。ところが四条から北が延々と開花していなかった(笑)。丸太町、今出川、出町柳まで北上したがまず数パーセント。肝心の府立病院あたりの河川敷が無花で寂しいもんだ。下鴨神社で左折して今度は鴨川西岸を北上したが、ないねぇ。結局植物園あたりも無いだろうということで、北大路通りで左折して今度は西に向かった。

 金閣寺あたりで混むかなと思ったが、すいすい走った。コンビニのあたりで大昔「ピエール」というカフェがあったなぁ、若い頃のアランドロンが立ち寄ったなぁと思い出しながら、立命館の側を通って、竜安寺。表の桜が咲いておった。そして仁和寺(にんなじ)。何れも月曜の昼頃なのか、桜情報がしっかり行きわたてっておるのか人は少なかった。

佐野桜か天神川桜か、それが問題だ
 福王子の交差点で直進せんか左折せんかと迷った。直進すれば、佐野桜、広沢池桜、大覚寺・大沢池桜、そして嵯峨野、天竜寺、嵐山桜と余の桜ロードが続くが、これは最近「まだまだだねぇ」と思ったところなので、あと数日間我慢することにして、左折した(笑)。いや、肝心の鴨川出町柳あたりの桜が咲いていなくて、気落ちしておったのじゃろう。
 今度こそ、天神川桜! と思って南行したが~、空振りじゃった。
 そうそう、天神川桜は天神川のそばにはどこでもあると思っておったが、意外にも京都外大・四条、正確には少し下がって高辻通り付近から、五条を抜けて阪急のガード下あたりまでしか無いことに気づいた。うかつなり。

桜はもう少し待とう
 キャンパスの桜も咲いておらぬ。
 今日は、「もう少し」どころか完璧な「桜・空振り」でおはした。たしかに昨日の京都・宇治も寒かった。もうしばらく、入学式のあたりには鴨川桜も一斉開花するやろう。しばし待とう。勿論、嵐山桜や佐野邸桜は先回調査ではカメラにいれてよい時期だが、今年はちょっとがんばってもう少し待ってみよう。新聞では天竜寺桜がだいぶ見頃と載っておったが、あそこはねぇ、~駐車場代が1000円に拝観料が数百円。幼少のころはあのあたりの寺社仏閣はすべてフリーパスだったというのに、時代が変わったなぁ。なんのためにヨシノヤ牛丼にしたかを思い出して、今年も天竜寺桜をみるのはよしにした(笑)。もちろん、天竜寺に恨みなどない。単に節約しておるだけや。

嵯峨野鉄道図書館レポート
 昼食はすんでおったので珈琲を淹れて速攻で午後の仕事を始めた。二階建てトロッコ鉄道図書館列車のエバンジェリストとして余は今期根性を入れておる(taurus)。またたくまに、パワーポイントの頁数が追加されていった。このままだと100頁にもなる。それでは肝心の列車自動追尾記録を見せる時間が無くなるので、圧縮する作業を五月には始める~。

 午後4時頃に一息入れて、今度は工作に取りかかった。並行処理である。
 ひとつはKATOのコンテナ列車を書庫列車に模様替えするために色塗り。これは電気機関車自体の中央部にコンテナがあるから優れものだね。勿論原型はJRだが(笑)。これに同じKATOのカシオペア(二階建て個室寝台列車)を二両付けて、書庫付き長距離図書館列車。

 部屋工事ひっこしの際に隠れていた「研究図書館・会議列車」3両編成をなんとか探しだし、これを完成させようと思ったが、探索に疲れてともかく一式を皿にいれて机上の隅においた。窓や列車覆い、そのた分解されているので皿に入れておく。

 真打ちは、いよいよHOゲージの改造に手を付けた。
 やはりNゲージに較べるとでっかい。
 相手はマイクロエース社のキハ40。なかなか室内灯の雰囲気がよい。この天井板を引っぺがし、さらに照明アクリル棒もとりだして、アクリルカッターで天井や窓枠をくりぬいた。これがねぇ、失敗。アクリルカッターと言っても、カミソリほど正確には切断できず、ケロイド状になって泣きそう。そこで、ヤスリやサンドペーパーを使って整形。思った五割程度の雰囲気になったので時計を見たら午後5時。
 あと、透明アクリル天井とか、司書室とカウンターとか、座席の整理や色塗りとか細部が残っておるが、これはねぇ、6月ころまでにはやっておこう。工作道はあわててはならぬ。

 というわけで、今日も小説葛野記で一巻の終わり。
 また、明日があるさ。ふっ。 

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2009年3月29日 (日)

NHK天地人(13)武田(高坂弾正)との和議

承前:NHK天地人(12)兵糧と桑取

上杉(越後)と武田(甲斐)の因縁
 上杉謙信と武田信玄とは川中島を挟んで25年の長きにわたり戦った仲です。
 これは一昨年の「風林火山」でも良く知られているわけですが、お互いに相手方の領国深くに入らなかったようです。特に上杉勢は、信玄に刃向かった小領主から助けを求められると出撃し、武田が引くとそのまま帰ったことが何度もあるようです。関東への侵攻もあくまで関東管領上杉憲正から助けを求められてという形です。「敵に塩を贈る」という言葉は、海のない甲斐の国が塩に困っていたとき、海のある上杉謙信が塩を贈ったという伝説です。
 他国を侵さない、困った相手には手をさしのべる、上杉謙信のこういった話は造られた美談ともいえますし、事の真実を残しているとも言えます。私は、謙信公になったつもりで考えて、本当のことだったと思います。

高坂弾正
 そしてまた武田家にも、現在は勝頼の世代ですが、信玄&謙信という昔の漢(おとこ)同士の敵味方友情を懐かしく思っている宿老がいるわけです。その一人が今夜の主役、高坂(香坂)弾正でした。つまり高坂(大出俊)は御屋形(信玄公)さまの遺訓として、頼るべきは上杉の越後と考えている人なのです。この事情を、昔の記憶からではなく、今の私の気持で考えてみました。

 どういう事かというと、
 上杉と手を結ばないと武田は常に背後を敵にすることになります。これは地勢的な観点です。山梨県甲府から太平洋まで真南に60kmしかありません。京へ上ろうとするとき最短距離になりますが、後ろが敵では上京もできません。

 上杉謙信、武田信玄時代に何度も川中島で戦って、両雄同士には親近感があったのではないでしょうか。憎み合うというよりも、分かりやすく言うと好敵手同士の関係です。時間をかけて戦うに意味ある相手ということでしょう。

 戦国武将としての上杉謙信の変人振りは知れ渡っていたと思います。信義を重んじる。無駄な侵攻はしない。膨張政策をとらない。だからその家風を武田としては好ましく思っていたと考えます。
 長篠の戦いで織田・徳川軍に鉄砲三千丁の威力で、その無敵の武田騎馬隊が完膚無きまでにたたきのめされた現在、武田には背後の越後を敵にする余力はなかったはずです。

智将・兼続
 万策尽きた兼続は諸将の反対を押しきり、景勝を説得し、武田の陣中で和議の使者として高坂弾正と向かい合います。条件は越後と甲斐の境界にある上杉領二国の割譲によって、武田が兵を引く、でした。

 兼続<今の武田は長篠の戦いで敗れ、織田軍の脅威のもとにある。その織田軍を破ったのは上杉です>
 弾正<若いくせに、痛いところを突く>

 この掛け合いに秘密(笑)があると思いました。要するに、今の武田は立て直しに時間もいる、金もいる、諸将を束ねる必要もある。北条氏政の口車にのって越後に侵攻したなら、上杉景勝は死力を尽くして戦うので、武田は勝ったとしても疲弊はますます深まり、さらに北条が自分の弟(景虎)を国主に据える算段以上のことを考えている(越後を北条の領国にする)ふしもあるから、結局武田は北条の先兵として使役されるようなものだ、という含蓄があると考えました。

 山本勘助の薫陶を受け、武田信玄の参謀をしていた高坂弾正ですから、その背景は言われるまでもなく熟知し、まさに痛いところを突かれたわけです。あっさりと、<分かった。勝頼様を説得して、この和議をまとめましょうぞ>と言い切り、さらに、
 <勝頼様も戦わずして二国を得ることに満足するだろう。それにしても謙信公は、若い人達を育てた(うらやましい)>と言って、咳き込みます。
 この時、弾正の顔が死相に近く、目に涙が満ちていたのが印象深かったです。

見どころ
 毘沙門堂の祠で、19歳の兼続が、24歳の景勝に向かって<謙信公の遺訓を乗り越え、殿は自立し、殿の考えで越後を守らねばなりません>と言いつのる場面が良かったですね。人生の「苦渋」とは両者のああいう姿をいうのだと思いました。別の場面で忍者初音が信長に、<小領地の真田が生き残ってきたのは、体面を棄て、裏の道(情報)を探り活かしてきたから>と言っていた場面がオーバーラップして、兼続は今の体面よりも、越後を守るという上位のプライドを持てと迫ったのですから、ドラマが重層化して迫りました。

復習
 19世紀のヨーロッパ・プロイセン(後のドイツ)にクラウゼビッツという優秀な参謀(戦争などの企画・スケジュールを立てる役割)がいて、『戦争論』という名著をあらわしました。彼の言ったことはつまり「戦争とは暴力行為であり、バクチであり、それは政治の一面である」ということでした。

 私は御館乱を数回見ていて思ったのですが、戦争には武力抗争と対になって和議があります。だから戦争とは「暴力と和議」であるという考えが浮かび、それが政治なのだと気付いた時、始めて若い頃に読んだクラウゼビッツが心の底にストンと落ちました。そしてまた一昨年の風林火山を思い出し、軍師山本勘助の謀略すなわち情報戦を思い出し、錯綜する政治や戦場では確かな情報などなにもなく、人(政治家、武人)の心などバクチを打つ人と変わりはないとも思いました。つまり情報とは、不確かな情報であっても誤った内容であっても、それを受け取る人の気持ちに変化をもたらし、結局不確かとか誤りとかとは関係なく、現実を変えることに気付いたのです。

 恐ろしいですね(aries)。

 上杉(景勝+兼続、景虎)、北条、武田、……織田・徳川。
 ドラマ最近の「御館の乱」も背景にはこれだけの大物たちの思惑がうごめいているのです。しかし戦術は万華鏡のように色合いを変えても、優れた人ほど戦略は男の一本道です(篤姫の影響)。だから、謙信公の遺訓や、それを嗣いだ景勝・兼続の一種独特な正義感は、戦術レベル(武田との和議)では変化しますが、おそらくより上位の戦略レベル(越後を守る)では、方針(平和)と信義(亡き謙信公への)を貫くのでしょう。そこに今年のドラマの見どころがありそうです。

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2009年3月28日 (土)

七十八万アクセス(78万/全体134.9万):MuBlogの分析

承前:七十六万アクセス(76万/全体131.3万):MuBlogの分析(2009.02.22)

観測日時:2009年03月28(土) 18:29
MuBlog累計アクセス数: 780152 1日当たりの平均: 424.69
 (開設日2004/03/07 記事数 1,696 件 コメント 4,213 件 トラックバック 1,291 件  )
サイト全体累計アクセス数: 1349043 1日当たりの平均: 734.37

↓解析対象期間: 2009年2月26日(木) ~ 2009年3月27日(金)

(0) MuBlog78万アクセスの感想
 先回に比べてMuBlogは、ようやくNHK大河ドラマが伸びてきたようです(微苦笑)。この一ヶ月分で3位、8位、10位ですから、「なんだ、やっぱりMuBlogは大河ドラマだね」といわれそうで、苦笑(にがわら)いしました。熱をだしながら熱心に10日間もかけて書いた8件の「茶臼山&纒向遺跡」はやっと18番目ですから、そりゃなんとも言えない気持になりますです。

 季節の桜が徐々に力を付けてきました。9、16番目の佐野邸桜と、14番目の常照皇寺ほかが顔を出す季節になりました。桜はMuBlogでの実力者です。ここしばらく休んでいて気分が楽になったので、来週からは桜2009記事を書いてみたいです。

 「自作鉄道模型」は先回と同じく上位に入っています。長く書いていないシリーズ(昭和の鉄道模型をつくる)もそろそろ気持を込めて継続再開としたいです。

 ともかく。

 MuBlogへのアクセスは安定しています。急増も急減もなく、日々変わらぬご贔屓スジが存在しているのでしょう。地域としては、関東が多いです(東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城)。しかしそこには、知り合いも数名しか思い浮かびませんから、未知の人達になにかしら読まれているのでしょう。肝心の関西は、大阪、京都、兵庫につきます。それぞれ数名ずつ知り合いがいます。けれど知り合いの多くはじゃまくさがりですから、一ヶ月に併せて1000回もアクセスする酔狂な人は知りません。ここにも未知の方がおられるのでしょう。

 さて。本当に、MuBlogの内容をもっと文藝の香り豊かにしていかねばなりませんなぁ。NHK大河とPCと鉄道模型だらけになる前に、なんとかしましょう。ところが、読書余香も小説葛野記も木幡記も弱いです。むむむ。

(1)ページ別アクセス数:1ヶ月分:MuBlog のみ

アクセス数: 17,304
訪問者数: 13,154
解析ページ 訪問者 アクセス
1 トップページ 645 1,337 4.9% 7.7%
2 丕緒の鳥(ひしょのとり)・十二国記/小野不由美:雪のような音 469 527 3.6% 3.0%
3 NHK天地人(12)兵糧と桑取 417 490 3.2% 2.8%
4 涼夏2007PCの自作 (8)RAID設定(WindowsXP)とグラフィックスボード 282 426 2.1% 2.5%
5 涼夏2007PCの自作 (1)アクリルケースとファン、電源 211 304 1.6% 1.8%
6 浦沢直樹の「20世紀少年」は「21世紀少年」で終わったのか 242 277 1.8% 1.6%
7 自作鉄道模型 218 273 1.7% 1.6%
8 NHK天地人(11)御館の乱:跡目争い 227 268 1.7% 1.5%
9 桜の森:佐野藤右衛門邸の桜 166 252 1.3% 1.5%
10 NHK天地人(10)春日山城本丸の占拠 169 209 1.3% 1.2%
11 登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町 110 191 0.8% 1.1%
12 みたかのもりじぶり:三鷹の森ジブリ美術館 146 172 1.1% 1.0%
13 Prius(日立製ノートパソコン)のハードディスク交換 138 171 1.0% 1.0%
14 じょうしょうこうじ:常照皇寺 107 145 0.8% 0.8%
15 NHK天地人(09)草食性・妻夫木聡→変身→肉食性・直江兼続 113 135 0.9% 0.8%
16 佐野藤右衛門邸の桜:20070330 73 134 0.6% 0.8%
17 よどがわ・せわりつつみ:淀川河川公園背割堤の桜爛漫 73 128 0.6% 0.7%
18 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳 63 123 0.5% 0.7%
19 地図の風景 107 116 0.8% 0.7%
20 地蔵院(京都府・井手町)のシダレザクラ:20070330 75 113 0.6% 0.7%
21 バックナンバー 25 112 0.2% 0.6%
21 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望 77 112 0.6% 0.6%
23 室町和久傳(むろまち・わくでん) 73 111 0.6% 0.6%
24 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場 59 104 0.4% 0.6%
25 HD(ハードディスク)の直付け増設のお勧め 88 103 0.7% 0.6%
25 NHK天地人(06)兼続の初陣:演出の変化 94 103 0.7% 0.6%
27 卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡 71 98 0.5% 0.6%
28 大沢池(大覚寺)の桜:20070403 73 96 0.6% 0.6%
29 涼夏2007PCの自作 (3)マザーボード(GA-G33M-DS2R GIGABYTE社) 72 87 0.5% 0.5%
30 CPU空冷装置・換装のお勧め・SAMURAI-Z 51 84 0.4% 0.5%
30 NHK天地人(08)天下取りの系譜:上杉謙信 72 84 0.5% 0.5%
32 古いノートパソコン・再生のお勧め:SONY-Vaio(2000年)に外付けハードディスク 52 81 0.4% 0.5%
33 新世界より/貴志祐介 (上下):日本のアンチユートピア小説 67 78 0.5% 0.5%
34 読書余香 74 77 0.6% 0.4%
35 さのとうえもん:佐野藤右衛門邸の桜平成十七年 44 76 0.3% 0.4%
36 最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳 50 74 0.4% 0.4%
37 小説木幡記 66 71 0.5% 0.4%
38 涼夏2007PCの自作 (7)配線とアクリルケース 48 70 0.4% 0.4%
39 姑獲鳥の夏:うぶめのなつ(映画) 57 69 0.4% 0.4%
40 昭和の鉄道模型をつくる(36)道路パーツ、街灯、電柱(小) 52 68 0.4% 0.4%
40 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(3)ホケノ山古墳 49 68 0.4% 0.4%
42 卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡 42 66 0.3% 0.4%
42 ノート・パソコンのハードディスク交換、取り扱い処方 54 66 0.4% 0.4%
44 佐野藤右衛門邸の桜:20070403 45 65 0.3% 0.4%
44 纒向遺跡(まきむく)の三つの古墳:勝山、矢塚、東田大塚古墳(ひがいだおおつか) 41 65 0.3% 0.4%
44 卑弥呼の墓(010) 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』笠井敏光、金関恕、千田稔、塚口義信、前田晴人、和田萃(あつむ).学生社、2008.8 50 65 0.4% 0.4%
47 嵯峨野鉄道図書館ジオラマ(04) 塗り、川と池と滝 41 62 0.3% 0.4%
48 On30レイアウト:庭園鉄道趣味/森博嗣 49 60 0.4% 0.3%
49 てらまちどおり:私の京都・寺町通{四条→三条} 54 59 0.4% 0.3%
50 NHK篤姫(32)勝海舟と桜田門外の変 50 57 0.4% 0.3%
51 昭和の鉄道模型をつくる(03) 駅舎(面影橋駅) 40 56 0.3% 0.3%
52 CPU空冷装置・掃除のお勧め 39 55 0.3% 0.3%
53 N2高台の図書館 35 54 0.3% 0.3%
54 二階建て図書館列車考(3)京阪特急ダブルデッカー(8000系) 44 53 0.3% 0.3%
54 佐野藤右衛門邸の桜:20080330 39 53 0.3% 0.3%
56 京都の書店 50 52 0.4% 0.3%
57 うさじんぐう:宇佐神宮 43 51 0.3% 0.3%
57 20世紀少年:本格科学冒険映画 (第一章)/堤幸彦監督、浦沢直樹原作・脚本 (映画) 46 51 0.3% 0.3%
59 小説木幡記:2009/02/24(火)古代の話 19 50 0.1% 0.3%
60 図書館司書採用試験問題概説:県立図書館・関西・200702 46 49 0.3% 0.3%
60 神々の乱心/松本清張<感想文 その1:上品な吉屋特高係長> 43 49 0.3% 0.3%
62 木曾殿最期 43 46 0.3% 0.3%
62 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(6)纒向矢塚古墳 27 46 0.2% 0.3%
64 美味しいところ 39 45 0.3% 0.3%
65 ふしみぶぎょうしょ:伏見奉行所跡と魚三楼 29 44 0.2% 0.3%
65 遺跡 30 44 0.2% 0.3%
67 涼夏2007PCの自作 (5)メモリ:A-Data社 DDR2 SDRAM PC2-6400 ADATA 1GB & Heat sink 36 43 0.3% 0.2%
67 さくらだ:桜田 32 43 0.2% 0.2%
67 二階建て図書館列車考(4)Maxとき、上越新幹線(E1系新塗装) 39 43 0.3% 0.2%
67 葛野図書倶楽部2001 39 43 0.3% 0.2%
71 邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択 32 42 0.2% 0.2%
71 ミスター・スタンプス・ワインガーデン:Mr. Stamp's Wine Garden [その1] 28 42 0.2% 0.2%
73 天神川の桜 28 41 0.2% 0.2%
73 卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認 28 41 0.2% 0.2%
73 「壬申の乱」の関係地図 24 41 0.2% 0.2%
73 椿井大塚山古墳の現況写真 22 41 0.2% 0.2%
77 昭和の鉄道模型をつくる(19) 喫茶店(ラメール) 29 40 0.2% 0.2%
77 スマート珈琲店(京都・寺町)のホットケーキ 29 40 0.2% 0.2%
79 私の京都:蛇塚古墳:魔界巡礼秦氏の謎 27 39 0.2% 0.2%
79 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん) 25 39 0.2% 0.2%
79 邪馬台国 26 39 0.2% 0.2%
82 ti voglio bene : t.v.b (リストランテ ティ・ボリオ・ベーネ) 30 38 0.2% 0.2%
82 小説木幡記:2008/02/02(土)二階建て電車:京阪ダブルデッカー:近鉄ビスタカー 34 38 0.3% 0.2%
84 昭和の鉄道模型をつくる(11) ポイントマシン(電動化の磁石)とDCフィーダー(送電線) 26 37 0.2% 0.2%
84 昭和の鉄道模型をつくる(31)飯田郵便局  31 37 0.2% 0.2%
84 小川珈琲本店 33 37 0.3% 0.2%
87 枝魯枝魯(ぎろぎろ)の一夜 35 36 0.3% 0.2%
87 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(4)纒向石塚古墳 22 36 0.2% 0.2%
87 小説葛野記 31 36 0.2% 0.2%
90 日本・文学・評論:かくれ里/白洲正子 17 35 0.1% 0.2%
90 昭和の鉄道模型をつくる(33)木造平屋住宅 23 35 0.2% 0.2%
90 NHK天地人(05)織田信長と直江兼続の出合 34 35 0.3% 0.2%
90 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(8)まとめ 18 35 0.1% 0.2%
94 オーパーツ大全 : 失われた文明の遺産/クラウス・ドナ、ラインハルト・ハベック共著 32 34 0.2% 0.2%
94 私の京都:伏見港の三栖閘門(みす・こうもん) 26 34 0.2% 0.2%
96 小説葛野記:2009/03/04(水)夢のまた夢なれど、捨てられない物もある 22 33 0.2% 0.2%
97 京桜たより:20070330 地蔵禅院・嵐山・広沢・佐野藤右衛門邸 21 32 0.2% 0.2%
97 みわやま:三輪山遊行(1)巻向から箸墓 18 32 0.1% 0.2%
99 ブラック・ラグーン(広江礼威)とヨルムンガンド(高橋慶太郎) 26 31 0.2% 0.2%
99 私の京都:四条大橋と三条大橋の美味しいところ 26 31 0.2% 0.2%
99 0504020・目次:桜狩り 18 31 0.1% 0.2%
99 映画の余香 29 31 0.2% 0.2%
103 前方後円墳の航空写真 17 30 0.1% 0.2%

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携帯MuBlogのみの総数

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訪問者数: 4,150
解析ページ 訪問者 アクセス
1 トップページ 578 578 13.9% 13.9%
2 浦沢直樹の「20世紀少年」は「21世紀少年」で終わったのか 125 125 3.0% 3.0%
3 丕緒の鳥(ひしょのとり)・十二国記/小野不由美:雪のような音 86 86 2.1% 2.1%
3 NHK天地人(11)御館の乱:跡目争い 86 86 2.1% 2.1%
5 オーパーツ大全 : 失われた文明の遺産/クラウス・ドナ、ラインハルト・ハベック共著 80 80 1.9% 1.9%
6 図書館司書採用試験問題概説:県立図書館・関西・200702 71 71 1.7% 1.7%
7 NHK天地人 45 45 1.1% 1.1%
8 NHK天地人(08)天下取りの系譜:上杉謙信 43 43 1.0% 1.0%
9 登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町 41 41 1.0% 1.0%
9 NHK天地人(12)兵糧と桑取 41 41 1.0% 1.0%
11 新装のジュンク堂BAL店:私の京都・河原町通{四条→三条} 40 40 1.0% 1.0%
12 バックナンバー 35 35 0.8% 0.8%
13 地図の風景 34 34 0.8% 0.8%
14 NHK天地人(05)織田信長と直江兼続の出合 33 33 0.8% 0.8%
15 NHK風林火山:後日談→勘助、由布姫、ガクト 32 32 0.8% 0.8%
15 二階建て図書館列車考(4)Maxとき、上越新幹線(E1系新塗装) 32 32 0.8% 0.8%
15 NHK天地人(06)兼続の初陣:演出の変化 32 32 0.8% 0.8%
15 小川珈琲本店 32 32 0.8% 0.8%
19 姑獲鳥の夏:うぶめのなつ(映画) 30 30 0.7% 0.7%
20 二階建て図書館列車考(3)京阪特急ダブルデッカー(8000系) 29 29 0.7% 0.7%
20 NHK篤姫(49)さらば大奥 29 29 0.7% 0.7%
20 NHK篤姫 29 29 0.7% 0.7%
23 NHK天地人(09)草食性・妻夫木聡→変身→肉食性・直江兼続 28 28 0.7% 0.7%
24 ηなのに夢のよう/森博嗣 27 27 0.7% 0.7%
24 NHK天地人(07)母の死(休講) 27 27 0.7% 0.7%
26 読書余香 26 26 0.6% 0.6%
27 円山公園(京都・祇園)の枝垂れ桜:20070402 24 24 0.6% 0.6%
28 新世界より/貴志祐介 (上下):日本のアンチユートピア小説 23 23 0.6% 0.6%
28 NHK天地人(04)年上の女(ひと)や九ノ一や 23 23 0.6% 0.6%
28 卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡 23 23 0.6% 0.6%
31 長岡京市立図書館の風景 22 22 0.5% 0.5%
31 ヴァンパイア・レスタト/アン・ライス 22 22 0.5% 0.5%
33 NHK風林火山(34)裏切りの真田幸隆 21 21 0.5% 0.5%
33 NHK天地人(02)直江兼続の幼少期:禅寺で修行中 21 21 0.5% 0.5%
33 NHK天地人(10)春日山城本丸の占拠 21 21 0.5% 0.5%
36 卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認 20 20 0.5% 0.5%
36 NHK天地人(03)直江兼続の青春編 20 20 0.5% 0.5%
38 ミホミュージアムの秋 19 19 0.5% 0.5%
38 邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択 19 19 0.5% 0.5%
40 地蔵院(京都府・井手町)のシダレザクラ:20070330 18 18 0.4% 0.4%
40 涼夏2007PCの自作 (1)アクリルケースとファン、電源 18 18 0.4% 0.4%
40 小説木幡記:2008/02/02(土)二階建て電車:京阪ダブルデッカー:近鉄ビスタカー 18 18 0.4% 0.4%
40 嵯峨野鉄道図書館ジオラマ(03) 下地作りと下塗り 18 18 0.4% 0.4%
40 20世紀少年:本格科学冒険映画 (第一章)/堤幸彦監督、浦沢直樹原作・脚本 (映画) 18 18 0.4% 0.4%
45 涼夏2007PCの自作 (8)RAID設定(WindowsXP)とグラフィックスボード 17 17 0.4% 0.4%
45 NHK篤姫(01)薩摩の話:島津斉彬(なりあきら) 17 17 0.4% 0.4%
47 私の京都:薮そば(伏見桃山大手筋) 16 16 0.4% 0.4%
47 神々の乱心/松本清張<感想文 その1:上品な吉屋特高係長> 16 16 0.4% 0.4%
47 ふしみぶぎょうしょ:伏見奉行所跡と魚三楼 16 16 0.4% 0.4%
47 目次:新撰組(新選組!) 16 16 0.4% 0.4%
47 桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望 16 16 0.4% 0.4%
47 ようげんいん:養源院 16 16 0.4% 0.4%
53 私の京都:木嶋神社の三柱鳥居(このしまじんじゃ・の・みはしらとりい)魔界巡礼秦氏の謎 15 15 0.4% 0.4%

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1 桑取  G Y M 217 2.0%
2 丕緒の鳥  G Y M 183 1.7%
3 十二国記 丕緒の鳥  G Y M 146 1.3%
4 二十世紀少年 ネタバレ  G Y M 144 1.3%
5 じぶり  G Y M 126 1.1%
6 佐野藤右衛門  G Y M 76 0.7%
6 桑取 上杉  G Y M 76 0.7%
8 大覚寺 桜  G Y M 74 0.7%
9 御館の乱 桑取  G Y M 69 0.6%
10 天地人 演出  G Y M 65 0.6%
11 じょうしょうこうじ  G Y M 64 0.6%
12 うぶめのなつ  G Y M 57 0.5%
13 アクリル PCケース 自作  G Y M 54 0.5%
14 天地人  G Y M 51 0.5%
15 佐野藤右衛門邸  G Y M 41 0.4%
16 丕緒(ひしょ)の鳥  G Y M 40 0.4%
17 纒向遺跡  G Y M 36 0.3%
18 背割り桜  G Y M 33 0.3%
19 勝海舟  G Y M 32 0.3%
20 木曾の最期 解説  G Y M 30 0.3%
20 京都 桜田  G Y M 30 0.3%
20 京都 佐野邸  G Y M 30 0.3%
20 京都 寺町通り 地図  G Y M 30 0.3%
24 登喜和 京都  G Y M 29 0.3%
25 春日山城  G Y M 28 0.3%
26 天神川 桜  G Y M 26 0.2%
26 椿井大塚山古墳  G Y M 26 0.2%
26 小野不由美 十二国記 丕緒の鳥  G Y M 26 0.2%
26 佐野邸 桜  G Y M 26 0.2%
30 室町和久傳  G Y M 25 0.2%
31 谷口敏夫  G Y M 24 0.2%
32 GA-G33M-D S2R  G Y M 23 0.2%
32 ハードディスク 増設  G Y M 23 0.2%
34 HD 増設  G Y M 22 0.2%
34 京都 書店  G Y M 22 0.2%
34 宇佐神宮 謎  G Y M 22 0.2%
37 佐野藤右衛門 地図  G Y M 21 0.2%
37 貴志祐介 新世界より  G Y M 21 0.2%
39 桜守 佐野藤右衛門  G Y M 20 0.2%
39 NHK 天地人  G Y M 20 0.2%
39 地蔵院 桜  G Y M 20 0.2%
42 PC アクリルケース  G Y M 19 0.2%
42 二十世紀少年 ともだち  G Y M 19 0.2%
42 セラミックグリス 塗り方  G Y M 19 0.2%
45 京都 登喜和  G Y M 18 0.2%
45 神々の乱心  G Y M 18 0.2%
45 神功皇后  G Y M 18 0.2%
48 まきむく遺跡  G Y M 17 0.2%
48 佐野とうえもん  G Y M 17 0.2%
50 佐野 桜  G Y M 16 0.1%
50 御館の乱  G Y M 16 0.1%
52 raid 設定  G Y M 15 0.1%
52 高橋慶太郎 ヨルムンガンド  G Y M 15 0.1%
52 甘樫丘  G Y M 15 0.1%
52 鉄道模型 自作  G Y M 15 0.1%
52 xp raid インストール  G Y M 15 0.1%
57 まきむく古墳  G Y M 14 0.1%
57 落飾  G Y M 14 0.1%
57 紅鮎  G Y M 14 0.1%
57 windows xp raid  G Y M 14 0.1%
57 地蔵院桜  G Y M 14 0.1%
62 HD増設  G Y M 13 0.1%
62 リストランテtvb  G Y M 13 0.1%
62 ぎろぎろ 京都  G Y M 13 0.1%
62 模型 ICテープ  G Y M 13 0.1%
62 壬申の乱 地図  G Y M 13 0.1%
62 明治村 桜  G Y M 13 0.1%
62 SAMURAI Z  G Y M 13 0.1%
62 太宰府政庁跡  G Y M 13 0.1%
62 井手町 地蔵院  G Y M 13 0.1%
62 オンボード RAID 設定  G Y M 13 0.1%
62 室町わくでん  G Y M 13 0.1%
62 佐野邸  G Y M 13 0.1%
62 ケースファン 電源  G Y M 13 0.1%
62 佐野籐右衛門  G Y M 13 0.1%
76 浦沢直樹 20世紀少年  G Y M 12 0.1%
76 嵐山 桜  G Y M 12 0.1%
76 苅谷俊介  G Y M 12 0.1%
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76 TOMIX eh500  G Y M 12 0.1%
76 木幡池  G Y M 12 0.1%
76 益田の岩船  G Y M 12 0.1%
76 xp raid 設定  G Y M 12 0.1%
76 卓上フライス盤 x2補強  G Y M 12 0.1%
76 RAID 自作  G Y M 12 0.1%
86 さのとうえもん  G Y M 11 0.1%
86 自作 滝 ジオラマ  G Y M 11 0.1%
86 PCケース アクリル 自作  G Y M 11 0.1%
86 背割桜  G Y M 11 0.1%
86 周山 登喜和  G Y M 11 0.1%
86 ジぶり  G Y M 11 0.1%
86 三輪神社 そうめん  G Y M 11 0.1%
86 佐野邸の桜  G Y M 11 0.1%
86 20世紀少年  G Y M 11 0.1%
86 神々の乱心 あらすじ  G Y M 11 0.1%
86 妻夫木聡  G Y M 11 0.1%
97 御館の乱 華姫  G Y M 10 0.1%
97 windows xp raid インストール  G Y M 10 0.1%
97 滋賀 かくれ里 地図  G Y M 10 0.1%
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1 京都 550 5.0%
2 桑取 435 3.9%
3 412 3.7%
4 丕緒の鳥 393 3.6%
5 自作 272 2.5%
6 天地人 264 2.4%
7 二十世紀少年 194 1.8%
8 地図 190 1.7%
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20 上杉 111 1.0%
21 登喜和 107 1.0%
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23 xp 102 0.9%
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25 PCケース 83 0.8%
26 模型 78 0.7%
27 大覚寺 77 0.7%
28 演出 72 0.7%
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30 小説 66 0.6%
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30 レイアウト 66 0.6%
33 NHK 64 0.6%
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34 PC 61 0.6%
36 写真 58 0.5%
36 ハードディスク 58 0.5%
36 うぶめのなつ 58 0.5%
36 卑弥呼 58 0.5%
40 風林火山 57 0.5%
41 佐野藤右衛門邸 56 0.5%
42 邪馬台国 55 0.5%
42 纒向遺跡 55 0.5%
44 日立 54 0.5%
44 増設 54 0.5%
44 20世紀少年 54 0.5%
47 森博嗣 53 0.5%
48 春日山城 52 0.5%
49 背割り桜 50 0.5%
49 アクリルケース 50 0.5%
51 新世界より 48 0.4%
51 天神川 48 0.4%
53 地蔵院 47 0.4%
53 丕緒(ひしょ)の鳥 47 0.4%
55 掃除 45 0.4%
55 XP 45 0.4%
57 伏見 43 0.4%
58 京阪 42 0.4%
59 感想 40 0.4%
60 周山 39 0.4%
60 小野不由美 39 0.4%
60 勝海舟 39 0.4%
63 交換 38 0.3%
64 上杉謙信 37 0.3%
64 解説 37 0.3%
66 ケース 36 0.3%
66 嵐山 36 0.3%
68 ノートパソコン 35 0.3%
69 佐野 34 0.3%
69 神々の乱心 34 0.3%
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71 ステーキ 33 0.3%
71 書店 33 0.3%
71 木曾の最期 33 0.3%
71 直江兼続 33 0.3%
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86 GA-G33M-D S2R 30 0.3%
86 松本清張 30 0.3%
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90 nhk 29 0.3%
90 まきむく遺跡 29 0.3%
90 昭和の鉄道模型 29 0.3%
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37 長崎 18 0.4%
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2009年3月26日 (木)

小説葛野記:2009/03/26(木)責務完了、次の年度へまた

 あっというまに夕方になってしまった。早朝にハルキ君の予防接種の2回目に付き合って完了。葛野についてメル処理、ほかいろいろ。

 昼餉は細川ラーメン。チャーシュー麺を食べたつもりで850円出そうとすると、店の人が「ラーメンだから650円でよいです」と、言ってくれた。「いやいや、僕はチャーシュー麺でした」「そんなことはないです。ワタシが間違いました」と、おっしゃる。作ってくれている人に「僕はチャーシュー麺でしたね?」と尋ねると、「いえいえ旦那さんのは、お父さんが作りましたので」とのこと。堂々巡りをしそうなので650円支払って出た。

 葛野にもどってしばらく深く考え込んだが、要するに余はラーメンをチャーシュー麺と思って食べたから、二きれのチャーシューが鉢一杯に思えて食べたようだ。たしかにレシートには「ラーメン」の所にチェックがあったから、聞き間違えたのだろう。それにしても、余は現実さえも幻想でねじ曲げるよい性格をもっておるようじゃ。これで日曜作家が続いているようなもんだね。

 昼食後すぐに別の教授を交え二人の事務関係チーフとで引き継ぎをした。これで二期四年間の責務も果たせたわけだ。外にでて空を見上げると青く見えた(これも、実際は少し曇っておるのだが、やはり青に見えた)。実は昨日は別の引き継ぎを受けた。引き継がれたり、引き継いだり、こうして人の世は続いていく。

 午後は、しばし工作をした。いやその前に、鉄道図書館列車のパワポの書きかけを画面に出して作戦を練った。たしかに余の脳裏には、もう一年以上「二階建てトロッコ鉄道図書館列車」が嵯峨野や嵐山、それに愛宕山の中腹まで毎日走っておるが、これは多分ラーメンとチャーシュー麺以上の、現実とイメージの違いが大きい。その乖離、狭間をどうやってパワポで表現するのか、となるとなかなか脳を使う。

 工作はアクリルをヤスリで削る作業だった。上越二階建て新幹線Max朱鷺の天井はもう無いので、新幹線がオープンカーのように走るのはいかにも非現実的なので、透明天井を付けて、列車図書室利用者の便宜を図ろうとしておるわけだ。なれど、手技というのは年季もいるので、接着する段階で、うふふ、失敗!

 そしてまた会議が始まった。一番重要な会議だが、予定1時間を超えて延々とあって疲れた。難しい問題はやまほどあって、すべては次年度に繰り越しとなった。むむむ。

 研究室に戻ってくると、卒業生が訪ねてきた。あれこれと新しい職場の業務内容を話題にした。しかしなお疲れもあったので茶も出さなかった(taurus)。申し訳ない。なにかしら、上等な記念品までいただいた。「君、こんなこと、しなくても~」「いえいえ、学生時代からなにかとお世話になったお礼です」くーっつ、泣かせるじゃないの。教師冥利に尽きる脳。大切に使わせてもらおう。

 はやばやと去っていた。
 さて一人になってまず茶を飲んだ(爆:余専用の五番煎じくらい。客には出せぬ)。十分ほど横臥して瞬間睡眠をとった。やおら起き上がり屯所に行き、電動ドリルを研究室に運んだ。高台の図書館の基盤に穴を開けるわけだ。ワイヤーは少ない(12Vとポイント二つ分)のだが、これまでそういう仕上げをやってこなかったので、練習に穴をあけて、PCと同じくワイヤリング整理をやってみた。まずまず小ぎれいに仕上がったが、穴の部分が小汚かった(笑)。

 というわけで、葛野の一日はこれで終わりにしよう。
 後は次年度回し。
 おお、工作と、「未来の図書館:鉄道図書館列車」のレポート&工作はまだまだ続く。線路は続くよどこまでも。

また明日。

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2009年3月25日 (水)

嵯峨野の桜、まだまだ:2009/03/25(水)嵐山、広沢池、佐野邸桜

承前:桜2008桜2007 
承前:目次 629 桜狩り:京都を中心にした観桜記です。

 朝の一仕事を終えて、昼休みにRSをひとっ走りさせて嵯峨野近辺の桜模様を確かめてきました。やはり、今朝葛野記で予想したようにまだまだでした。しかし、寒いとは言っても開花時期が平年よりも早いので今週末から四月第一週は例年通りに期待できます。嵯峨野はやや寒いので平地の京都とは違いますが、同じ時期にわっと咲き誇ることでしょう。

 午後もいろいろありますので写真だけにしておきますが、桜狂の皆様、これをご覧になってご自身の桜狩に役立ててください。今日は桜樹のそばでじっくり写すほどには時間がなくて、何れも250mmの望遠レンズでした。

Muimg_2386
(嵐山遠望)
 嵐山と渡月橋とを遠くから写しました。中之島の枝垂れ桜は遠望しただけですが、なんとなく咲いておりました(笑)。人だかりもそろそろでしたが、季節の渋滞はまだゼロでした。今週末くらいから、あのあたりを自動車で昼日中に走る地場の人はいないでしょう(笑)。動かなくなるのです。

Muimg_2396
(広沢池畔の桜とボート)
 この広沢池の南岸と道を挟んだ公園の桜は比較的早いですね。谷崎潤一郎の細雪でみた桜は読み直さないと分かりませんが、おそらくいつも写す東岸だと思います。そこは全く開花していませんでした。

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(広沢池の西岸と愛宕山遠望)
 この風景に桜が後日はいるのは、ほんの数本です。しかし私の広沢池の原風景はこの愛宕山が入った風景にあります。

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佐野邸の桜、2009始まりぃ~
 これは広沢池の南東から遠く佐野桜庭園を写したものです。佐野桜特有の、空が霞むような雰囲気は徐々にでてきておりますが、まだまだと言って良いでしょう。

 では遠隔地の皆様、週末・来週の京都桜をお楽しみ下さい。その頃には、天神川の南をはじめとして、もっと方々で咲いていることでしょう。

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小説葛野記:2009/03/25(水)桜はぁ~まだかいな

京都の桜はまだのよう
 京都も大阪も世間では開花宣言とかを耳にするが、余はもうすこし花がふくれてこないと、その気持ちになじまない。花と言うよりも、桜樹がこんもりとボブカットのようになってはじめて写心がわく。今朝の木幡桜は一本の樹にちらほら程度で、まだだな。東寺の桜はよく分からなかった。天神川の桜は南側も北側もまだまだ。天神川は五条通りを挟んで南側がはやくに開花し、遅れて北側が咲くという不思議さがある。葛野キャンパスは一本がちらちらしているが桃色の桜はまだまだ。昼食がてらに嵐山、大覚寺(大沢池)、広沢池、佐野桜とひととおり調べ(笑)に行くが、まだまだじゃろう。やはり月末にならないと、昨日も今朝も都は寒い。

 そうそう体調、心調、今年の桜時期はなかなかによろし。新規開拓も考えてはおるが、なにしろ年度末年度初めは野暮用がおおくてねぇ。貧乏暇無しというところ。ただ鴨川上流の桜心はいただきたい脳。それと、今年こそ祇園桜を丁寧にきっちりと隅々まで観たい。龍馬像あたりでよい所はないかなぁ。ともかく、何年かぶりに自らの手で写心をものしたい。ああそうだ、神泉苑なんかよろしいな。石山寺も三井寺も~、忙しくなりそうや。

鉄道図書館列車はまだかいな
1.「昭和の鉄道模型をつくる」が遅れておりますね。パーツも全部あって、ちゃかすかと組み立てるだけだから半日ですむところだが、週刊誌の記事をまとめたり写真をとるのに手間暇かかる。うむ。
2.前方後円墳を見下ろす「高台の図書館」は一気に、あと記事を2つほどで完成。
3.新幹線Max(とき)と、あさぎり先頭車を図書館列車に改造することも、ほぼ得心がいったので一気にできるのう。
4.木幡研「島図書館」はだな、レールレイアウトが複雑すぎてやっと定稿レールになったが、毎日なんかかんか障害が発生する。もともと無理をしたところがあって、半径140mmの急カーブ急坂になんとかしてEFタイプの20m級電気機関車を走らせる工夫をしておるが、歩留まり5割。それでも時々頂上まで行くのだから、そのたびに喝采、その次はあえなく脱線悲嘆。こんなことを繰り返していては永遠に完成せぬ。
5.HOについてはまだKATOの電気機関車「EF65 1059 貨物試験塗色」とマイクロエース客車「キハ40」を1mの長さのレールで見ているだけなので、何とも言えぬが、TOMIXの二階建て客車サロ124がHOタイプで流通しているようなので、これを入手して本格的な「二階建て図書館列車」を改造構築したい。しかしこれまでのNゲージだと小さいから逆に誤魔化した言い方がをできるが、大型のHO模型だと細部まで作り込まないと人様に見せられない。たとえば、書架とか閲覧机をどうするか、頭痛がする。ときどき森博嗣さんの「欠伸軽便鉄道」(2009年 3月13日(金)15時43分29秒投稿記事)での実作様子を眺めるが、発狂しそうな手技が必要となる。余には無理無理じゃ。
6.「山裾の図書館」これは屯所の天井に放り出してある。もうこれ以上、手が回らぬわい(taurus)。物事を最後までやり抜く気力がないMuの悪い癖がでておるなぁ。いやしかし、「高台の図書館」が完成したなら手を付ける。高台も山裾も小さいタイプやから、大事にしたい。
7.「邪馬台国周遊図書館ジオラマ」はまあね、ぼちぼちと(笑)。現在、研究室を一番占拠しておる。
8.というわけで、研究のまとめ。これをそろそろ「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」を基本にしてまとめていく。今の手技では無理があるので、図書館や鉄道図書館列車にはいちいち名札をはったり、説明を加える必要がある。ジオラマをぱっとみるだけで「おお、おお~、これが鉄道図書館の未来の姿ですかぁ」とは、だれも言わない。せいぜい「センセ、これ、なんですか?」で終わる。ふむふむ。困った。
9.PCにカメラをセットして自動追尾で列車を追いかけて、ビデオを作る必要が出てきた。これは技術的には簡単だが、どんな情景を撮るのかがむつかしい脳。

夏期論文
 今年は芭蕉。これはもう始めておる。ことしこそゆったりとした論を展開したい。毎夏毎夏、時間に追われてなにかしら、最後の一点に鋭さがなくなり(笑)、ぼよよ~んとして終わる。

日曜作家
 原稿260枚まで進んだ。あと600枚をがんばって、900枚近くまで書き連ね、最後は一気に600枚ほどに圧縮するつもり。まことに、身を削りますねぇ。

日々
 体調のせいもあるが、ここ何年かぶりに青空の様な解放感に満ちておる。なにか目から鱗がおちたような、くびきをとかれたような、はればれとした日々が過ぎておる。人はしらぬまに、心に重い蓋をして、身体に鎖をまきつけて、我が身を痛めつけているような気がしてならぬ。
 もっと自由に、表現すれば、身も心も若やいでくることに気がついた。二階建て改造図書館列車という表現も心身によろしいが、おそらく、纒向遺跡を二週間かけて記事にまとめたことも晴れやかになった遠因なのじゃろう。

 さて、今日も一日がんばりましょう。

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2009年3月24日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(8)まとめ

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳
目次:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに

心の旅路
 こうして今回の私の「マキムク・心の旅路」もようやくまとめに入りました。現身(うつしみ)の私や同行二人Jo翁が実際に旅したのは、2009年3月10(火)午前十時に奈良県桜井市の近鉄桜井駅から始まり、終わりは同日午後四時前に奈良市の近鉄奈良駅前でしたから、ごく短い旅程だったわけです。しかしその夜から記録をMuBlogに掲載し出して、本日3月24(火)の午前四時まで、(0)~(8)に至る記録をまとめるのに丁度二週間かかったわけです。

 私はつまり、二週間の長い心の旅をしていたわけです。時代は纒向(まきむく)遺跡の始まる三世紀から、箸墓をへて、桜井・茶臼山古墳の四世紀初頭(参考1)までの約100年間だったことになります。距離にしますと桜井茶臼山から箸墓を経由して纒向小学校の北・勝山古墳まで、直線ではわずかに4.5kmほどでした。当時の健脚の人達だったなら、磐余(いわれ)の地から纒向まで数十分で歩いたことでしょう。

気がついたこと
 行った先での感想はそれぞれの記事に少しずつ記しておきました。全体的にまとめてみますと、どこからでも聖山「三輪山」を見ることができたのが印象深いことでした。大和三山は橿原の畝傍(うねび)山が時々目に入りました。南に目をやったときは多武峰(とうのみね)が青く見えました。ここには二十歳の頃後輩とYH(ユースホステル)に一泊しましたが、現在あるのかどうか知りません。翌日橿原神宮へ行き近鉄で京都に戻った遠い記憶があります。
 三輪山は三世紀~藤原京の時代まで、平城京に遷都する直前(710)の八世紀初頭まで、都の宮殿から常に眺めることが出来たはずです。もちろん難波や近江に遷った短期間は除いてですが。

 一種の事件のようなもので茶臼山古墳では発掘現場に出くわしました。
 その印象が強く残ってしまったのですが、同行のJo翁の解説とイメージからは、この古墳が南の鳥見山(245m:とみやま・とりみやま)という神武天皇伝承に直接かかわる尾根からの、丘尾(きゅうび)切断タイプの前方後円墳であることの確認と、そしてホケノ山古墳に立ったとき、同じく東の三輪山に続く丘尾切断タイプと話していたことが記憶に残りました。つまり、三輪山も鳥見山も聖山で、その山に続く丘を使って昔の前方後円墳が造られたということになり、山からの血脈(地脈)のようなものを想像しました。ある種の前方後円墳は、聖山に血脈(けつみゃく)を持っていたのかも知れません。もちろんJo翁説では箸墓はホケノ山古墳を通じて三輪山に直接接続していることになります。

 お山との関連から考えますと、石塚、勝山、矢塚、東田大塚の纒向古墳は平地に固まってありますから、異質でした。纒向遺跡という古代都市計画から考えますと、あきらかにホケノ山古墳や箸墓古墳は立地からみて別種のものと感じたのです。出土品や古墳形態の専門的観点をすべて棄ててみたとしても、次のようなグループ関係がみえてきました。

纒向遺跡関連古墳地図

  纒向の平地: {石塚、矢塚} {勝山、東田大塚}
  三輪山血脈: {ホケノ山、箸墓}
  鳥見山血脈: {茶臼山古墳}


纒向遺跡のこと
 この記事を連載中に、纒向遺跡の発掘成果が発表(参考2)されて、纒向・石塚古墳とJR巻向駅の間で古代宮殿跡が現れてきたようです。もちろん以前からの発掘の継続なので、結論が出たわけではなく、これからも徐々に全貌がわかってくるでしょうが、私は丁度そのあたりを何度も通り過ぎていたので、感激しました。

 ところで世間では邪馬台国論争とか卑弥呼のことで盛り上がっていましたが、私は少し冷静でした(笑)。考古学者や歴史学者などの研究者は事実を理屈で考えていきます。世間は新聞やTVの番組から好みで感じていきます。私はその間に立って、青年期からの三輪山伝承と現地の風景が心にこびりついていますので、その心の原風景から現代の現象を眺めています。

 だから今回の発掘成果も騒ぐほどのことではありませぬ(aries)。
 当たり前のことが当たり前のこととして現れてきただけの話です。邪馬台国とはヤマトの中華風訛りにすぎず大和朝廷のヤマトです。巨大な初期280m級前方後円墳、周濠を併せると500m近い結界を持つ箸墓とは卑弥呼、すなわち「日の姫巫女」の墓所以外何物でもありません。
 それは立地の問題です。現代の京都市伏見区にある桃山御陵にある明治天皇陵、その円墳を後世の人が眺めたら、立地から余程の方の墓所と自然に判断するのと同じです。(そこに立てば、実感できます)

 今回解けなかった深い課題は、JR巻向駅近辺から、南へ一里の磐余(いわれ)の地にある桜井・茶臼山古墳に向かって、歴史がどのように動いたのかということです。その間距離にして約4km強、徒歩で一時間、時代ではわずかに百年です。分かりやすく言うと、邪馬台国から大和朝廷への遷り話になります。そのあたりは記紀神話や文献に頼らざるを得ないでしょう。私は今度は文献学者の振りをすることになるわけです(taurus)。忙しいことです。

旅の想い出
 同行二人Jo翁は、枚方の樟葉で育った方なので本当は継体天皇の事跡を真剣に考えられているようです。継体天皇は還暦直前に樟葉宮(くすばのみや)で即位し、しかも大和入りをしたのは20数年後でした。その大和とは実は他でもない桜井の磐余(いわれ)の地(つまり、茶臼山古墳近辺)でした。
 同行している間、Jo翁の気持を「次は、継体さんだな」と、そんな風に想像していました。
 Jo翁の青年期は、大学の授業に出ず年がら年中山歩きをしていましたから、さすがに山や丘を見る目が鋭かったです。ホケノ山後円部にじっと長時間立ちすくんでいたJO翁の姿は写真に残しておきました。

 短時間の旅程とはいえ、午後に奈良ホテルの手洗いで、熱い湯で洗顔したときはほっとしました。
 また元気なうちに、あちこち走り、歩いてみる意欲がふつふつと湧いてきた、旅の終わりでした。

参考1(インターネット)桜井茶臼山古墳範囲確認発掘調査 記者発表・現地説明会資料(2003年3月24日)
参考2(MuBlog) 卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡

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2009年3月23日 (月)

小説葛野記:2009/03/23(月)解放の初春

 今日はなにやかやと朝から忙しく立ち働いた。まず午前七時ころに木幡をエドルン君と一緒にでて、駅に寄った。何度考えても、江戸と都は僅かに二時間少し。不思議な感じがいつもする。距離で500km以上は離れているというのに。そうそう、今年初めてのアイスコーヒーを飲んだ。先だって伏見で飲もうとしたが、エドルン君がホットだったので、自然にホットコーヒーにしていた。影響を受けやすいMuなのだ。

 エドルン君帰郷の用向きは単純で、ハルキ君と対面することだった。無事初対面も終わり15分後には、春ちゃんの最高の遊び相手になっておった。わが木幡研は猫族の一族なのかもしれない。なに、余は犬族じゃが。
 珈琲を飲みながら、ケータイでとったハルキの写真をもらった。余は不慣れで結局、待ち受け画面に設定するのはやってもらった。そういえばここ一年近くケータイで見ていたドクターイエローの新幹線写真はどこにいったのだろう。画面を変えると昔の写真がどこに消えるのか、むむむ、ケータイは難しい脳。

 そうそう、余は最近大枚はらってドクターイエローの新幹線3両編成(TOMIX )を入手した。諭吉さん一人で釣りはあったがな。全部揃えるとカタログには7両あるようだが、余は年の功というか、3両で十分目的をはたしたと、納得できるようになった。よいことじゃ。

 またそうそう。以前入手したこれもTOMIX の二階建て新幹線Max(朱鷺)も3両編成じゃったのう。今日の午後、仕事に疲れた合間に、先頭車一両をニッパーとヤスリで整形して、どこからみても「二階建て新幹線図書館列車」に改造した。まだアクリル天井を張っていないので写真デビューは先になるが、快適じゃった。二階に見える5人掛けのシートを2人か3人掛けにして、ひろびろとした図書室・読書室にするつもりじゃ。

 さて。
 仕事はいろいろあって。昨日日曜も会議ででてきて、明日も会議がある。四月からの準備が、いま一番ストレスになっておるが、なんとか4割こなせた。ふむふむ。
 そういえば、今日一番時間をとったのは教材・機関誌「Truth」の校正じゃった。副長が送ってくるのにすべて目を通すわけ。結局4時間はかかった脳。しかし昨日大学で会議の合間、副長が屯所でせっせと編集作業しているのを目撃したので、余も怠けるわけにはいかぬのう。

 ほかには、さっき疲れ果てて最後の仕事として、「高台の図書館」を屯所から研究室に運んだ。このごろは屯所で作業するよりも、研究室の方がなにかと気楽なのでそうした。明るいグリーンとか黄緑の粉をかけて、建物を紙粘土で整形固定して、少し色をいれれば完成となる。自慢の前方後円墳の長さを測ったら、15センチしかなかった。Nゲージ固有の縮尺として、150倍かけても22m程度にしかならない。うむうむ。

 あと。屯所の自前の古いノートPCも研究室に運んだ。これは邪馬台国周遊図書館ジオラマがスペースの関係で4面のうち2面が物陰に隠れて(裏になる)確認できないので、小型のビデオカメラをセットしてPC上で見るために使う。カメラは以前に入手したLogicoolの「Qcam Orbit AF」と言う優れもので、モニターの設定で、動く機関車(人も)を自動追尾してくれる。わずかに諭吉一枚前後で、こういう近代兵器を手にするとは、若い頃には想像もできなかったぞ。

 そういうわけで夕方になった。早朝から終日、初春のキャンパスを時々バルコニーから眺めて、「さあ、今年もがんばろう」と、声にはださなかったが、気持ちを引き締めていた。春はよい。おお、桜!

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2009年3月22日 (日)

NHK天地人(12)兵糧と桑取

承前:NHK天地人(11)御館の乱:跡目争い


(中桑取)

 地図で見ると春日山城跡の西へ約5kmに中桑取という地名がありました。調査不足で、ドラマの桑取谷がどこかは分かりませんでした。しかし春日山城の背後にあって食料供給地であるという解説に従えば、一里強の位置からして、このあたりだと想像しておきます。

 この時代の桑取は土豪というか半農半兵と言いましょうか、上杉純粋の家臣団ではなかったようです。越後の山中に住み、半ば独立していたのでしょう。だから、兼続が食料調達のため桑取谷に向かう山中で、出会い助けた老婆は<あそこは、ややこしい村だから、行かぬがよい>と忠告しました。実はその老婆は桑取の長(おさ)の母親トメだったわけです。なにか、日本昔話の、なさけは人のためならず物語のようでした。

 独立心の強い土豪は、国主が代わったからと言ってそのまま新代と主従のちぎりをむすぶわけではなく、自分の目で確かめて、場合によっては与力する立場だったのでしょう。桑取谷は、謙信公でも手こずったほどに言うことを聞かない面もあったのでしょう(笑)。兼続はその長、斎京三郎右衛門(さいきょう・さぶろうえもん)を説得し、兵糧米を無事調達できたのですから、なかなかの実力を見せてくれました。
 もちろん、話し合いに行くのだからと言って刀をトメに預けたその誠意が通じたのですが、それよりも「理」もありました。北条の出である敵方景虎は、北条氏政の軍、および武田勝頼の軍を越後に導き、結局越後は踏みにじられると説いたわけです。どんな場合も占領軍の平和は、自尊心も独立心も損なわれ、当時なら生殺与奪権を他国の者にゆだねる事も意味しました。独立心の強い斎京は、そう言うところも分かったのではないでしょうか。

見どころ1:景勝の母
 景勝の実母仙桃院は、娘婿の景虎がいる「御館」に居ます。同居ですから景虎の情勢は良く解ります。北条(ほうじょう)氏政から、景虎助勢の軍が派遣されると耳にして、仙桃院は景虎の武将・北上(きたじょう)高広に話し込んでいます。<景虎は北条の軍を越後に招き寄せようとしている。越後が滅びる>、つまり景虎は才はあっても全体を見通す国主の器がない、という懸念をもらすわけです。そういう話を、景虎の武将にする情景は一つの見どころでした。
 敵味方と言っても、外には北条や武田が虎視眈々と上杉越後を狙っているわけです。景虎は聡明でしたから、実兄氏政の考えはすぐに分かります。景虎を人質に差し出したのは氏政でしたから、またしても兄は弟の私を裏切ろうとしていると、見抜くわけです。しかし景虎は北条という猛毒を用いてでも、景勝に勝ちたかったわけです。

見どころ2:武田勝頼と高坂(香坂)弾正、そして菊姫
 私は、高坂弾正(こうさか・だんじょう)と耳にすると、すぐに一昨年の風林火山を思い出します。つまり高坂はあの時、軍師山本勘助の薫陶を受けた第一番の高弟だったのです。その勘助が命かけて守った由布姫の遺児が勝頼です。因果はめぐるぅ~ですね。
 北条氏政から<一緒に越後の景虎を助けるために軍を派遣しよう>と誘われそれに乗ろうとした勝頼は、高坂弾正の強烈な諫言を耳にし、激怒します。弾正から<御屋形さま(信玄公)の遺言は、利に走らず無駄な戦はせず、頼るべきは上杉>と言われ、それを守らなかったから<織田・徳川に、長篠の戦いで敗れた!>と面罵されたからです。あまりに当たり前のことだから、余計に勝頼は切れかけたわけです。
 憔悴した高坂弾正は、庭先で弓を射る菊姫に慰められました。<もう、兄上(勝頼)にいろいろ言うのは止めた方が良い。兄上は、所詮父上(信玄公)の器には遠く及ばないのだから。いくら言っても、弾正の忠告は理解されない>と。
 この菊姫は後日、景勝の正室になるようです。なかなかきりっとした雰囲気がよくでておりましたなぁ。

見どころ3:米の威力
 昔からわが日本の兵事は兵站(へいたん:食料とか武器弾薬とか、軍生活を維持する資源及びその確保)に弱いと、たしか司馬遼太郎さんがあちこちで書いておりました。国がせまいせいか、どうしても短期決戦で決着を付けようとするわけです。つまり必要資源の確保が後回しになるのです。一方、北方謙三さんの三国志や水滸伝を読んでいると、北方さんは徹底的に兵站の確保を描写されています。戦う軍よりも、食料や医薬や武器をどんな風にして順調につなげていくかに筆をさいておられました。中国は猛烈に広いですから、一切合切を長い長いバケツリレーのようにして運ばないと、戦う前に餓死する国柄なのでしょう。感覚的には、日本は兵事に80%、兵站に20%程度なのに、昔の中国なんかだと、兵事に40%、兵站に60%という雰囲気ですね(北方作品からの印象)。
 さて。
 今夜のドラマはまさに兵站の弱さを克服する一夜でした。景勝は籠城戦に入っていたわけです。もとより謙信公の住んでいた春日山城ですから、お金も武器も食料も十分あったわけです。しかし、外敵ではなく内戦でしたから、食料(兵糧米)を戦時なみに確保する余裕がなかったわけです。あと半月で尽きるまで追い込まれてしまいました。
 その時、冒頭の桑取谷を兼続が思い出したのです。まさに、謙信公は桑取という「食料貯蔵庫」すなわち兵站も用意していたわけです。
 お米がどれほど貴重なものであったか、今夜の握り飯をほおばる景勝達の姿に良く現れておりました。

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卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡

間接承前:卑弥呼の墓(010) 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』笠井敏光、金関恕、千田稔、塚口義信、前田晴人、和田萃(あつむ).学生社、2008.8
直接承前:卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡

 一昨日(20日金曜)の夜間にインターネット(産経ニュース)で纒向遺跡・宮殿跡の発掘ニュースが流れた。そして昨日21(土)の朝刊では「卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡」と一面に出ていた(参考1)。
 なんら慌てることはないのだが、この十日間ずっと纒向遺跡の記事を掲載していたので、心が躍り記録しないと気持がおさまらないので、とる物もとりあえずメモしておくことにした。

新聞記事の概要
 参考1では
 おおよそ次の図が描かれていた。黒枠の建物は昭和53年にすでに発見され、黄色の建物と凸形の柵が今回の発掘である。上が北なので、建物は東西に整然と並んでいて、しかも柵があって柵の右(東)を内郭(ないかく)、左(西)を外郭(がいかく)とすると、これは中国の宮殿様式に近いとあった。
Cocolog_oekaki_2009_03_22_00_14
 図の真ん中の建物は一辺が5mで、今回発掘の建物跡は6m以上の大きさと推定される。すべてを発掘したわけではなく、まだまだ右側(東)に大きな建物跡が出てくるかも知れない。

 これを現代の目で復元した想像図は昭和53年の調査結果をもとに「考古建造物の尺度の発見/木村房之」にあると、参考4(p99)にしるしてあったが孫引きになるので引用掲載を慎む。正面が西面し大社造りと神明造りの中間形式を想定している。ところで、西面しているということは、東の穴師を背負った形になるので、私は背筋がぞくりとした(笑)。やはり千田先生の説にはすてがたいものがある(卑弥呼の宮殿を探る/千田稔)。

 参考2では
 石野博信・兵庫県立考古博物館長の話として、当時の中国・三国志、魏の使節との外交交渉上の宮殿という説があった。西暦239年に卑弥呼は難升米を魏に遣わしている。
 私が想像するに、この時「親魏倭王」の金印を受け取っているはずだが、この宮殿跡からは出ないだろう。そのことは後述する。

 辰巳和弘・同志社大学教授は、卑弥呼が鬼道(Mu注:呪術というかアイシャドーの濃い巫女さんが託宣する姿を想像。アイシャドーとは半ば冗談、半ば本気である。当時は巫女の目の力で敵を圧倒した)をよくする女王として、祭祀場の一部と想定している。
 このことは、政務を行う宮殿と、祭祀を行う神聖な神殿と、さらに卑弥呼の居室とを、発掘成果から今後どのように判定していくのか、私自身考えていきたい。

 寺澤薫・奈良県立橿原考古学研究所・総務企画部長は、凸形(西へ張り出した)の柵とか東西に並んだ建物の計画性からして、儀式を行う特別な場所と想定。また、中心施設はさらに東にあるとのこと。
 纒向遺跡全体が整然とした古代都市だったことを鮮明に書かれたのは寺澤先生だったと記憶する。幻視とは言わないが、大体どんな分野でも、人によっては結果がはっきりと見えている場合がある。多分、発掘は今後も東へ向かう気がする(笑)。

 邪馬台国九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長は、全体構造が不明瞭な現段階で、吉野ヶ里遺跡のような邪馬台国遺跡のある九州説とは、比較し論議する段階に至っていない、ということ。
 私は昔、短時間吉野ヶ里遺跡を探訪した。ものすごい古代空間だと記憶している。そこが邪馬台国であってもよいだろう。この場合、邪馬台国とは中国の史官がヤマトを聞き間違えて邪馬台国と卑字を当てたのだろう。コカコーラは可口可楽(口にすべし、楽しむべし、とか)と当てる国柄だから、邪馬台国は(倭)大和なのだろう。そして高島氏がおっしゃるように、全体構造が分明にならないと吉野ヶ里と纒向の比較は難しい。
 (今だって、博多や大阪や神戸や京都や名古屋や東京・横浜、仙台、札幌と都市があって、数千年後の遺跡発掘から、どこが首都だったかを探るのは難しかろう。しかしみんなヤマト(笑))。

 参考3では
 俳優というよりも、私にとっては「名著古典」といえる「まほろばの歌がきこえる」を記された市井の考古学者である。学問とか思考には、肩書きがなくてもよい。あればあるで利害得失もまたある。本当の学問とは肩書きのとれた隠居時代にこそ、事の真髄にせまると私は考えてきた。
 新聞記事では奇特な俳優として、手弁当で今回の発掘に参加された様子が写真付きで載っていた。
 しかし、実は苅谷氏は参考4の著書で、すでに1999年段階で大きな仮説を出している。その中で宮殿に関しては、第一次と第二次にわけ、今回の発掘は卑弥呼在世時代の第一次宮殿となっていた。今夜はその概念地図を引用掲載し、十年以上たった現在、ご自身の手で発掘された苅谷氏の想念を想像してメモを終える。

Photo
(参考4よりp246-247「図26 第二期宮都(初期大和王権の中枢)時代の纒向遺跡のようす」色円は私の追加)

 この図を見ていて、刈谷氏が別の挿図に寄せたコメントで、<石塚古墳とは墓ではなく聖壇だが、しかし卑弥呼のモガリの宮として、彼女は箸墓完成までそこに眠っていた>という趣旨の言葉を思い出す。

追伸
 金印「親魏倭王」の話題を最近耳にしないが、当時の中国に返還されたのか、失われたのか、誰かが拾って融かしたのか、良く解らない。しかし中国は王朝が次々と変わる国なので返還しようがないこともあるだろうし、簡単に失われたとも思わない。それが埋まっている所は、公印だから役所跡だろう。今回の苅谷流でいうと第一期宮殿跡よりも、もっと東の第二期宮殿政務所跡あたりから、でてくるかもしれない(eye)。

参考1(インターネット)卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡 2009.3.20 19:31
参考2(インターネット)「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃 2009.3.20 19:31
参考3(インターネット)苅谷俊介さんも発掘調査に参加 2009.3.20 19:31
参考4まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介 1999.3

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2009年3月21日 (土)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(6)纒向矢塚古墳

東田大塚古墳/桜井市教育委員会
 この東田大塚古墳だけが纒向小学校の南、約200mの位置に孤立しています。とは言っても200mですから矢塚古墳や小学校の南側から、はっきり見えます。

 現地の案内板の内容は古く思えますが、以前は全長96mで「纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚・ホケノ山などの古墳と同じ築造計画」と考えられていたようです。しかし参考1によれば、その後全長が120mとなり前方部の長さが特徴的にとらえられました。

 従前記しましたが、勝山と東田大塚古墳とは、全長が両者共に120m前後になり、前方部の短い矢塚古墳(全長96m)とは別のタイプであると分かってきたようです。このように別のタイプが現れてくると、難しい問題が生じます。過去の分類体系に組み込むことが困難になるわけです。

 ある種の学問とは、対象データを分類することで知識情報を積み上げて行くわけです。たとえば考古学だと、土器の編年とか古墳の大きさや形状の、時系列にそった流れを分類することで全体が把握出来るわけです。その分類表全体が学問の成果と言えましょう。しかし、そこに容易には組み込めない新種がでてくると、……。

 学問に於ける分類の難しさとして二つあると考えます。一つは要素の一つ一つに個性があって、他と比較するのも難しくまとめようが無い事例です。たとえば飛鳥の石造物などはあの地域、年代に固有な現象なので分類が難しくなります。つまり閉じられた世界の中でのものとなり、普遍性を見出しにくい結果となります。
 もう一つの事例として、今回の勝山や東田大塚古墳のように、ある時代に纒向形前方後円墳が主流だった世界に、突然そうではない前方後円墳が土中から湧き出てきたわけですから、どこに分類するか非常に難しいと想像できます。新たな分類項目をつくることになるでしょう。学問に於ける新分類項目とは、生物学でいうと新種発見に近いでしょう。時にはそれまで営々と積み重ねてきた分類表を破棄することもあり得ます。

 さて今回の東田(ひがいだ)大塚古墳見学で、Jo翁との纒向遺跡を中心とした桜井市古墳巡りも終わりとなります。まとめ記事は書く予定ですが、なにかしら古墳の決定的な数値データや発掘状況を入手できず、まとめとして断言することが出来ない状態です。ここで、参考2の地図図版をもとにして若干手を入れましたので、それと一緒に東田大塚古墳の写真を御覧ください。なお、巨大な?マークは「追伸」による今夜の飛び入り情報です。

 ところで昔、西夏学・文字の国際的研究者である西田龍雄(京都大学名誉教授)先生の側で仕事をしていたとき、遺物などに対しては <断域と断代とが大切です。二つの離れた点に一気に線を引き関係づけるのは、想像にすぎません。点と点の集合から線を浮かび上がらせるのが学問です> という内容のお話を直接うかがったことがあります。断代とはその遺物の時代を決定すること、断域とはその遺物のあった場所を決定することです。決定するにはものすごい時間がかかります。
 今回、いくつかの古墳を探検して思ったのは、まさしく纒向遺跡・古墳も神殿跡も壷も石棺も副葬品も、すべて断域と断代によって始めて全貌がわかることだと思いました。時間がかかりそうです。
(ただし、古墳のような不動産は断域に間違いは少ないと想像しますaries

Photo
(参考2→p150<図2 三輪山周辺の主要古墳位置図>より、範囲を狭め、擬似的に古墳形状を付加した)

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(竹藪の見える東田大塚古墳: 纒向小学校から南へ約100地点から撮影)

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(東田大塚古墳の後円部頂上から撮影: 人影は同行のJo翁)

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(左・箸墓と右・東田大塚古墳)

追伸
 昨日2009.03.20の夜間、インターネットの新聞記事で「卑弥呼の館」らしき遺跡の発掘成果が載っていました。
 「卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡」(産経ニュース)
 そろそろ桜の季節というのに、忙しいことになりそうです。しかし、まあ宮殿がJR巻向駅西近辺の平地にあっても、それは良いのですが、丁度聖壇石塚古墳の近くでもありますしイメージはわくのですが、居室は東の小高い山裾に別宮殿があったと私は幻視しています。

参考1東田大塚(ひがいだおおつか)古墳の範囲確認調査・広報「わかざくら」 平成20年5月
参考2:『三輪山の考古学』より「6 三輪山周辺の古墳文化/網干義教」学生社、2003.3

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2009年3月20日 (金)

小説木幡記:2009/03/20(金)宇宙の神秘:太陽系

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 ねっからの科学少年だったせいか、銀河とか太陽系という言葉には反応が強い。先月二月にご隠居さん達が葛野研(まだゴミ箱状態だった)に置いていってくれた。夢は太陽系をまたいで銀河の果てへ飛びなされ、という謎かけかなとふと思ったが、それは考えすぎというものだ。
 
 卒業して何年かたつといろいろな事情や気持の変化で仕事を変える人がいる。二人は結局司書として新しい職場を得たようだ。なかなか難しい世界だから、本人達も余も喜びひとしおだった。もう一人は昨年別の職場に変わったが、卒業して以来司書の経験がないので二人を羨ましがっておった(笑)。

 太陽系に人類が本格的に進出したなら、司書の数もポストも増えるだろうなと、ふと考えた。というと、識者はみんな「そんな科学文明の進んだ世界で紙の本なんかだれも読まないよ」と言うだろう。いや、言うに決まっておる。絶対に言う。しかし、司書は司書であってメディアの種類を区別せずに、まず司書なんだ。次に、如何にも司書らしい司書、つまり埃にまみれた紙の本や雑誌や絵本を片手で持ち上げて図書館を走り回る、あの司書のことだが、紙に印刷された図書という物体は、長い歴史の中で物神化されている面もあってな、人によってはマシンの深層記憶装置からずるずると引っ張り上げてきたデータをディスプレイで読むのと、初版本から読むのとでは、受容する質が異なってくる。「物」というものが持つ物部氏的呪術世界が絡んでくるのだが、目に見えないデータをメディア変換してディスプレイ上の液晶かプラズマを点滅させた結果と、古びた紙の匂いがして手垢のついた頁とでは、情報の質感が全く異なってくる。これも人によるが、その形ある本を枕辺に置いておくだけで安心してよく眠ることができる、すなわち「物」の威力を体感できる人もある。だから、紙の図書が宇宙の果てまで伝搬する可能性は実に高い、ぞ。eye

 ……。まあ、このことは我が「二階建てトロッコ鉄道図書館列車」に関係深いので今日は止めておく。
 それよりも、二月の中頃からずっと余の思念を去らぬ太陽系だが、数日前に京都駅の書店をあるいておったら、「昭和の鉄道図書館、じゃなかった鉄道模型をつくる」と似たような装幀で「太陽系をつくる」という習慣(週刊taurus)雑誌おまけ付きが置いてあった。初号はやはり790円だったので、つい手をのばしかけたが「まてまて、ここで太陽系の惑星や衛星に植民地図書館のようなものをつくりだしたら、プロジェクトが増えすぎてどうにもならなくなる!」「宇宙船の数だけ図書館を造ると、司書の数が膨大になって、供給不足になる!」と思いとどまった。余もようやく最近は物事に衝動的に対処せず、じっくり考え込む男になったようで、嬉しかったなぁ。

 しかし数日後、今日のことだ。なにか、気になってしかたない。あの太陽系モデル製作週刊誌は一体どういうものなんだろう、……。人間は、いつまでたっても少年期の憧憬から離れられないようなので、もっと老成しなくてはと思いながらも、ついつい本屋に走り出したくなった。せめて初号だけでも手にしたい。しかし最初が790円でも次号からは1800円近いから財政への悪影響も懸念されるのう。

 うむむ。む。
 週刊「天体模型 太陽系をつくる(全52巻)」ディアゴスティーニ 

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2009年3月19日 (木)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(6)纒向矢塚古墳

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(5)纒向勝山古墳

纒向矢塚古墳/桜井市教育委員会
 矢塚古墳は纒向小学校の西にあります。他の古墳にくらべてなんとなく華やぎが感じられます。これは古墳に色彩があるからでしょう。現代も生きている雰囲気でした。墓というよりも公園と言っても通ります。

 平成20年の桜井市資料(参考1)によると、矢塚古墳第3次調査の結果が「纒向型前方後円墳の規格である全長・後円部径・前方部長が3対2対1の比率を持つ」とありました。そして2009年の新聞報道では、勝山古墳、東田大塚古墳の全長が長いことにくらべて、この矢塚古墳は纒向型の典型であることが再確認されました。参考2によると「矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。」と発表されていました。全長96:後円径62:前方34=3:1.9:1≒3:2:1、ですから確かに纒向型となります。

 このことから私が理解したことは、前方後円墳の形式分類が多少複雑になったということです。古さはいまのところ纒向小学校をぐるりと囲む4つの遺跡、この矢塚も、石塚、勝山、東田大塚もすべて箸墓古墳より若干古いようです。
 現地で再確認できますが、4つの古墳は1カ所にまとまっています。徒歩で次々と現れる近さです。箸墓は約1キロ先の東南にあります。
 おそらく完成した時点では木々もないでしょうから明瞭な前方後円墳の特徴を示し、しかも前方部の長さの比が後円部に対して異なりますから、この同時代の隣接した古墳を当時の人ははっきりと「違った物」と分かっていたと思います。

 被葬者の社会的位置は首長クラスだったことでしょう。初期に普通の人が全長100m以上もの墓を作ることはないと思います。ではなぜスタイルが異なるのか。一つの推理は、性別。たとえば矢塚には女性、勝山や東田大塚には男性。その逆かも知れません。被葬者の性別によって古墳スタイルが変化するかどうかは、時代にもよりますから断定は出来ません。
 短期間に異なったスタイルの前方後円墳がまとまってあることの仮説が必要です。

 あるいは4つの古墳の築造時期の違いがせいぜい数十年の単位だとすると、首長家の身内の格付け。……。副葬品らしき物はそれぞれに少しずつ出ているようなので、調べると分かるかも知れません。ただし、盗掘は人類史に普遍的なことなので、完全には分からないでしょう。

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(勝山古墳から南に見える矢塚古墳)

 木々の多様性や、古墳の地が見えているので公園のように見えました。手前の掘削機器は発掘調査のものか他の目的のものなのか、分かりませんでした。ただし、前方部の長さを調べたのは後円部から離れたところなので、水田や田んぼの中だと思います。そしてそれらは埋め戻されたと記事にはありました。

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(南からみた矢塚古墳)

 農業のことが良く解らないのですが、この水は水田の水でしょうか。畦らしきものが左に見えますから、そういう推理を働かせました。こうして近くで写真を撮ると、なだらかな後円部だと分かります。真ん中の段のようなものは、古墳の段なのか、後世の道を付けた段なのか分かりません。
 想像ですが、1700年以上にわたりこの平地の中の小山はどんな風に見られ、扱われてきたのでしょう。時には段々畑になったり、砦になったり、家がたったり、祟りがあると怖れられたり、邪魔な凸地と思われたり、敬われたり様々だと思います。いろいろな経験を経て、今も如何にも古墳らしい姿があるのが不思議と言えば不思議です。

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(纒向小学校の西に位置する矢塚古墳)

 矢塚古墳は纒向(まきむく)小学校と道をはさんで真西に隣接しています。撮影地点は矢塚古墳から真南にある東田大塚古墳へ行く道の半ばから、北にカメラを向けました。
 このあたりは標高が70mです。そして丁度北西の約4km地点に弥生時代の遺跡として有名な鍵・唐古(かぎ・からこ)遺跡があります。鍵・唐古あたりの標高が50mです。平地ですが、直線4kmで20mの標高差があって、さらに纒向小学校から南東3km地点が三輪山の頂上(標高467m)です。

 順番で言いますと、最初は田原本の鍵唐古近辺に弥生の人達が住んでいたのでしょう? だんだん南東の三輪山に向かって移り住んだのか、あるいは突然天からJR巻向駅あたりに沢山の古墳時代人達が舞い降りたのでしょうか? その天とは、伝説では纒向の東、三輪山の北にある穴師と言われています。もちろん、穴師のもっと東の高原からだと想像しております(笑)。

 さて次回は、最後の「東田大塚古墳」の見学記ですが、ここでメモをしておきます。
 情報図書館学(図書館情報学)の世界では図書や雑誌およびその内容を含めて一次情報資料と言います。小説そのものとか、学術論文そのものとか、オリジナルな情報をさします。
 考古学でも、図書や論文は一次情報資料ですが、特に「遺跡」そのものは0次情報資料と言えます。遺跡そのものが最もオリジナルな情報であると考えられるわけです。そろそろ今回の0次情報資料探索の旅もおわりに近づきます。

纒向小学校の地図

参考1矢塚古墳の範囲確認調査(広報「わかざくら」 平成20年7月)/桜井市文化財課
参考2:(ネット情報)邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石/産経ニュース 2009.3.5 22:56

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2009年3月18日 (水)

小説木幡記:2009/03/18(水)気持の晴れやかな初春

整理整頓
 昨日遅くに葛野研の整理整頓、その第1期が終わり気持が楽になった。だから今日は朝から夜間まで快適に研究室に座っていた。もっとも、その間に会議が三つもあって、午後から夕刻までは会議室に座っておった。
 第1期は、目立つゴミをすてたこと。机上や床をふいたこと、小さなカーペットを敷いたこと、本棚の3割程度を整頓したこと、マシンを3台廃棄したこと、ついでにプリンターも一台、VTRも一台廃棄した。これで楽になった。

 第2期予定は、目立つところでは残りの本棚7割から不要本を抽出し整理すること。本棚に本以外のものが多数載せてあるが、これを処理すること。たとえばティッシュ箱、スプーン、割り箸、置物などなど、意外なものが棚と本の間に挟まっておる。これだけで2週間はかかる。4月上旬をめどとする。

 第3期予定は、机の引き出しをすべてぶちまけて不要品を棄て、重要書類をきっちり整理すること。特に過去の未開封の給与明細書などは扱いに困る。
 第4期予定は、ここから別種になるので別項目を立てる。

PCの整理整頓
 主力マシンには、MuBlogでもっともアクセスランキングの高い「涼夏2007PC」がある。また補助マシンにMacG3、G5、iMac、MacNote, SONY古代ノート、DELL古代ノート、……。
 レアものに、FM-TOWNS、SONY-SMC70。
 屯所貸与に古いWindowsマシン2台。

 これらを整理統合するわけだが、レア物は話が複雑になるので止めておこう。
 主にMac系の整理統合を図る。動画や静止画の整理。
 涼夏2007PCはいまや開発マシンの栄光を忘れ、メルマシンに堕しておる。これの改善。

 分かりやすく言うと、部屋を整理整頓したと同じく、何十もの階層下にあるデータをまとめたり、テラバイトのディスクアレイを造ってそこに一括管理したり、……。これは仕事になってしまう。

鉄道図書館列車の整理整頓
 Nゲージ(9ミリ線路)としての公開ジオラマに嵯峨野鉄道図書館(60X90センチ)。完成直前の「高台の図書館」(30X60センチ)と、講談社の「昭和の鉄道」。製作途上の「邪馬台国周遊図書館ジオラマ」(60X120センチ)、木幡研の「島図書館」(60X60センチ)。まだまだ先の見えないのが、「山裾の図書館」(60X60センチ)。

 現在手を付けだしたのがHOゲージ(16ミリ線路)で、これは60X180X1センチ板を二枚連結して折りたたみ、60X360センチ・レールレイアウトの予定だが、風景よりも純粋の図書館列車モデル走行用で名前はまだない。つまり直線のレールだけにして、そこに大型(と言ってもHOゲージ)のサロ124・二階建て客車を改造して図書館列車モデルをつくり、展示する。

 これらは物理的には今回の研究室整理整頓で、なんとなく部屋の一隅に場所を得た。HOゲージは、円を描いてエンドレスレールにしようとしたが、半径が49センチもあるので、横幅を90センチ以上とることになり、あきらめて直線にした。

少年司書ロボ初号~X号
 このプロジェクトは一年間休止している。事情は単純で、鉄道図書館列車・ジオラマに手がかかりすぎて、動作を組み込むソフトを使いこなせていない。またタンサーボーグという、センサーが幾つもあって無線LANで動かせる2号は今日にでも触りたいが、気力がいまだにわかぬ。これはビデオの目を持つから、楽しみなシステムとなる。

 これら少年司書ロボ初号以下を、二階建て鉄道図書館列車世界に組み込むことで、余の研究は完全になる。
 学生達の「未来の図書館」課題では、定番のように数年ごとに鉄道図書館やロボット図書館が現れる。若者の無意識の未来デルファイ託宣は、動く鉄道図書館と、ロボット司書の介護にあると余は見た!

というわけで
 夜の8時頃に研究室をでて京都駅に向かい、一時駐車場でしばらく待つ間、まだまだ残る整理整頓に思いを巡らしておった。

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2009年3月17日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(5)纒向勝山古墳

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(4)纒向石塚古墳

纒向勝山古墳/桜井市教育委員会
 なにかしら重要と見なされた遺跡は、何度も調査されるようです。もちろん一度の調査試掘でははっきりと全貌がわからないことも多いのでしょう。
 この纒向の勝山古墳は現地の案内板が古びていたので、参考1を読んでみました。すると第五次調査では「今回の調査と既往の調査成果を総合して古墳の形状を復元すると、前方部が前端に向けて広がる前方後円墳となります。周濠の形状は緩やかな鍵穴形を呈するものと想定できます。全長は115m以上、後円部径が70m、くびれ部幅は26mです。」という文言に吸い寄せられました。この調査は調査期間が2008 年1 月15 日~同年3 月4 日となっていましたので、昨年のことです。

 これは隣の矢塚古墳や東田大塚古墳も同じですが、その時の新聞報道をMuBlogで記録していました。参考2を御覧下さい。この段階で前方後円墳の規模がはっきり定まったと私は思っていました。もっとも、最古の前方後円墳と調査関係者達が判断したのはさらに1年前の2007年4月の事でした。(参考3)

 ところがそれでは終わらなかったのです。結論を言いますと、石塚古墳の記事でも記しましたが、要するに後の号で掲載する東田大塚古墳は(全長120m、前方部50m)で前方部が長く非纒向型。さらにこの勝山古墳も(全長115m、前方部48m)となり非纒向型と見直されました。(参考4)

 つまり、埋もれてしまった勝山古墳や東田大塚古墳は、何度も調査して埋没部分を復元していくと、意外にも前方部が長く、いわゆる「纒向型前方後円墳」のずんぐりした形とは異なる、ちょっとスマートなタイプになってきたのです。古いのは確か(多分)ですから、古墳形式の分類に異変が生じそうですね。その一つが、この勝山古墳のようです。

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(周濠に映える勝山古墳:背景に現代の纒向小学校)

 周濠の北西角から南東を撮したものです。右側は纒向小学校です。
 纒向小学校の周りの初期前方後円墳で一番古墳らしく思えたのはこの勝山古墳でした。理由は明確でして、周濠(池)があったからです。この池は現代の池として整備されていますが、調査報告書を読む限り古墳が出来た時から周りを池が取り囲んでいたようです。古墳全般に諸説はありますが、やはり前方後円墳と言えば周濠ですね。まわりに池の水が見えないとただの小山、丘、鎮守の森としかイメージできないです。

 石塚、勝山、矢塚、東田(ひがいだ)大塚古墳の4つは学術調査の結果としてはすべて前方後円墳で、前方部の長さは後円部に比して長短あると分かったわけです。しかし、実際に門外漢の目で遠望しているかぎり、これが前方後円墳と即断する人は稀でしょうね。掘って始めて分かるわけです。私の目には、田んぼや池のそばに丸い小山がある、としか見えなかったです。

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(北に向かって勝山古墳)

 周濠の水は枯れています。私が良く行く京都市右京区の広沢池は冬になると水を抜きます。あらかじめ放っておいた鯉や鮒が大きくなって、水抜きして捕って販売するわけです。漁業組合があるのでしょうか。関係者が自由に使える入り会い池でしょうか。分かりません。そして、この勝山古墳の周濠をみていて小学校時代を思い出しました。無断で捕ったら警察行きがわかっているのですが(当時の小学生だから、どうなんでしょう)、友達がタオルに撒いて持って帰ったのを目撃しました(笑)。あのころはみんな貧しくて、本当に貴重なタンパク源として食卓にあがったのだと思います。古墳時代にも鯉や鮒は食用にされたでしょうか? 

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(異様な繁茂)

 周りが畑ですから、この植物の繁茂は異様に見えました。良く解らないのですが、これらの古墳には地権者がいるはずです。それぞれの古墳毎に微妙に違うことに気がつきました。石塚古墳だけは史跡ですから、多分桜井市の土地なのでしょう、如何にも円墳と見えました(実際は前方後円墳です)。ところがこの勝山は木々が生い茂り、円墳どころか、小山ですね。ここまで来ると鎮守の森にも見えませんでした。離れて見る限り道も見えません。ただ生い茂っていました。

参考1勝山古墳第5 次発掘調査の成果〔纒向古墳群発掘調査報告会資料〕
参考2:(MuBlog)纒向遺跡の三つの古墳:勝山、矢塚、東田大塚古墳(2008.03.07)
参考3:(MuBlog)最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳(2007.04.14)
参考4:(MuBlog)桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(4)纒向石塚古墳

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小説木幡記:2009/03/17(火)平成・葛野の贅沢

 余は本日午前11:10頃に葛野の「ザめしや」で昼食を取った。介添・随行員なし。
 総額651円の希に見る贅沢をした。
 覚えている限りの品目は、主菜にイカ天1個、若鶏と豆腐の煮物1椀、温泉卵86円1個、小ご飯1椀、わかめ味噌汁1椀、サービスでタクワン2切れ。イカ天は126円だからこれを我慢すれば500円少しになって贅沢感は消え、後ろめたさもなくなるが、イカ天1個が命取り。

 このイカ天は小学生時代の記憶から、味噌汁に入れて具にした。祖母が作った先夜の天ぷら(なすびとか芋)を、翌朝のなすびの入った味噌汁に添えていただくのが余の朝食であった。

 おお説明しよう。余は一時期父母の仕事関係で、祖母と住まいしておった。野菜は大体自宅の庭になっておった。夏は特に、来る日も来る日も茄子を食しておった。うまかった(焼いて、水で冷やして、ショウガと醤油で食べるのが絶品)。

 今日の昼食、味わい深くいただいた。
 「ザめしや」はお総菜が多様で、お造りもあってよく利用するが、このお造りが曲者じゃ。気を抜くとあっという間に千数百円にもなって、単なる「贅沢」を越えて、酒池肉林の様相を醸し出す脳。時々学生なんかが、見たところ発狂しそうな贅沢をしている光景に出くわす。多分1600円前後じゃろう。お造りが2種類も載っておる。ザめしやで一食1600円前後も食べるなんて、あれは一種のビョウキだと余は素知らぬふりして眺めておる。

 世間のサラリーマンがどうしているかは知らぬ。おそらく800円から1000円のランチを楽しんでおるのじゃろう。都会のサラリーマンやOLは、贅沢になれておる。しかし余は651円をかみしめながら、職を失い食もままならぬわが国民の姿を思い出しておった。

 普通の学生達は、見ている限り学食で500円までやな。倶楽部の者ら相対的に貧しいわけじゃなくて倹約家が多い。インスタントラーメンをよく食しておる。米好きは100円おにぎりを2個程度。金銭的に苦しいものはパン一個とか、あるいは昼食をとらぬ。その世界に住んでおると、余の651円は破天荒の贅沢三昧に写るであろう。

 ただし余にもごくまれに、たまに、発狂しそうな贅沢をすることがある。
 たとえば、嵯峨野蕎麦だと、季節限定鴨なんばは1300円。
 嵯峨野珈琲だと、ビフカツサンドが1300円で珈琲が500円、合計1800円。破天荒な振る舞いじゃ。
 伏見の牛タン塩焼きだと1500円やな。
 鳥せいランチで、やはり1600円。
 この世に贅沢の種は尽きぬ脳。

 こういう贅沢は天に唾する所行故に、よほどのことがないと試さない。
 そうそう、近頃のラーメンは値上げしておる。チャーシュー麺が850円。これは贅沢すぎる。
 さて、あすは399円程度の、セブンイレブンおにぎり弁当にでもしよう。
 なお、ときどきお弁当を自家製にする話がでるが、めずらしく余は断っておる。余は神経質故に、人に作ってもらったものは何がなんでも「喰わねばならぬぅ~」状態になって、お腹の調子が悪くても残せない。故に青ざめてくることも時にある。だから、よその家には滅多に、絶対に行かないようにしておるのだ。

 ひととは、さまざまやなぁ。

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2009年3月16日 (月)

小説葛野記:2009/03/16(月)春だから花見の準備

 まだ桜も咲かないだろうに、今春の桜狩りの準備が始まった。
 数日前に二人組から連絡があって、伏見の桜狩りの約束をしてしまった。

 今日は朝から研究室を整理整頓していたら(もう四週間目にはいるのう)、突然三人組の二人が来て桜狩りの作戦会議に入らざるを得なくなった。結論は祇園の桜を約束してしまった。あと二つ三つ噂には聞くが、日程が難しいのだろう。ふむふむ。春は仕事が変わったり、気持ちが変化したりで、葛野への連絡も比較的多くなる(日頃は絶無だから、これで普通だな)。いずれもJo翁紀行とおなじく会費制になっているので、余はカメラを写しておるだけですむ。Jo翁とのときは、桜井市の纒向遺跡に案内するだけで、豪華昼食、華麗スイーツで得したのう(笑)。ただし、桜の影もなかった(いや、茶臼山古墳で桜らしき花も写っていたな)。

 というわけで、今春は祇園、伏見が最初に定まり、MuBlog好評・天神川桜は入学式の夕方写そう。あとは嵐山と、大覚寺大沢池(この2箇所は別途倶楽部行事に含まれるかな)、広沢池と佐野桜と、元気良ければ飛鳥の石舞台桜とか湖北の桜を早朝4時頃出発して撮っておきたい。いやいや今年こそ、鴨川の植物園あたりの桜も写しておきたい。いやはや夕桜、夜桜も撮りたいと、思っている間にもし倒れたら辛いねぇ。

 さあ、あと3月末までは毎日が整理整頓がんばろう。葛野研究室が完全に綺麗になったら常時施錠して、余も使わなければ数年間は綺麗な部屋のままじゃのう。

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2009年3月15日 (日)

NHK天地人(11)御館の乱:跡目争い

承前:NHK天地人(10)春日山城本丸の占拠

みんな鬼になった
 兼続は、内紛の責任に悩みながらも景虎を討つことを決断します。鬼になって、と。
 そのとき、兼続が鬼になるなら、私は夜叉になるとお船が言いました。後ろでそれをそっとみていたお船の夫は、二人の仲を気にしているようです。お船のお付きには「二人は従姉どうしだから気心がわかるのだろう」と、言ってはみましたが、暗い横顔が画面にアップされました。

 もう忘れたのですが、お船の亡き父・直江景綱はなぜお船を兼続に嫁がせなかったのでしょう。姉の方は生前・謙信のそばめに差し出していました。もしも子が産まれていたら上杉家を継げなくても、直江家は外祖父になります。兼続は景勝の小姓には取り立てられていましたが、そのころは見どころが無かったのかも知れません。泣き虫だったから。

 一方、上杉の内紛を知り、自滅を確信した信長は遮る者が居なくなり怖れていました。何を怖れていたのかはドラマでは曖昧でしたが、つまり天下を取ることを止める謙信が居なくなった、前進することの畏れをあらわしていたのですが、……。そばにいた初音は「鬼になれば、怖れは消えます」と囁きました。今夜のクノイチ初音は信長の思い女(びと)の立場で現れてきたようです。

 ドラマでは明示していなかったのですが、神仏を滅したほどの信長の怖れとは、天皇家簒奪だったのでしょうと、貝柱をたべたとき思いました(Mu夕食に貝柱がでた!)。この時代を16世紀末期とすると、それまで公式には万世一系の天皇でしたから、信長にとっても簒奪を実行するのは比叡山焼き討ちとは比較にならない蛮勇が必要だったと思います。遮ってきたのは負けることのない軍神上杉謙信でした。その上杉家が、景勝、景虎に別れて内戦状態にはいったのです。兵は疲弊し自滅の可能性が充分にありました。信長は、鬼になる予感にうちふるえたのでしょう。

 みなさん思い切ったことをするときは、鬼や夜叉になるようです。ならない人は、初めから鬼夜叉だったのでしょう。

女性の辛さ
 政略結婚と言い切るには複雑すぎるのが男女の仲です。お船の夫ですが、これも直江家を存続させるために父・直江兼綱が娘のお船に紹介したのでしょう。というよりは、父や家としての命令ですね。ドラマでは夫婦仲が悪いようでもないです。喧嘩もしていません。しかし、やがてお船の夫が代わり、再度養子を迎えるのですが、これは後の話。

 そもそも上杉謙信公はなんらかの事情で(毘沙門天への義理立て)妻帯しなかったようです。だから、謙信は女性だった! というトンデモ話もありますが、結果として子供がなかった。それで養子を二人迎えたわけですが、この段階で複雑です。

 当初景虎は上杉家からの「人質」として来たわけです。しかし謙信公は養子にまで格上げし、さらに、自分の姉の娘「華姫(はなひめ)」を景虎の妻にします。これが政略なのか謙信公の人情の篤さなのかは、両方あるでしょう(笑)。この段階で複雑さがまします。つまり華姫の兄が、謙信のもう一人の養子「景勝」だからです。

 今夜はすでに華姫には景虎の息子が生まれていました。この時、華姫は<兄(景勝)との縁を棄てて、あなた(景虎)の側に生涯おります>と、離縁を迫る景虎に伝えました。謙信の姉は実子景勝を残して、娘婿・景虎のいる「御館(おたて)」に移ります。

 華姫の辛さは、自分の兄と夫が戦うことです。
 華姫の母「仙桃院」は、実子景勝を残して、娘婿景虎のもとに行き、娘と孫との面倒をみることにしました。この決断は戦を止めるという深謀があったとしても、辛かったことでしょう。母にとって実子と孫とどちらが大事か、などと無理難題は考えないでおきます。

 女性は古来、自分の父と夫が戦う、兄と夫が戦うというように、複雑な立場に置かれることがよくあります。「夫」がキーになっていますから、婚姻の結果でしょう。そう言えば、昨年の篤姫は、薩摩という父や兄と、徳川将軍という夫(ないし義理の息子)との戦いでした。篤姫は、徳川の嫁であると最後まで踏ん張りました。今回の物語も、おそらく華姫は最後まで夫に付くことでしょう。

 この真理や心理は、おそらく女性の方がよく解る気がします。現代は一方でどんどん離婚し、じゃかすか実家にたよる風潮が顕著ですが、そうでもない時代があったのでしょうか。あるいは、華姫や篤姫の事例が特殊だったからこそ、後世の人達が感動したのかも知れません。どうなんでしょう。

 私などは、素直に振り返ってみると「他家に嫁ぐ、養子になる」という感覚が非常に薄かったです。だから、根底において他家に嫁いだ多くの女性の葛藤も知らず、のほほんとすごしてきたのだと思います。さらに、景虎の兄は著名な実力派大名「北条氏政」です。景虎は北条家から、人質として上杉家に渡され、そしてそこで養子にまでなったのです。このドラマの序盤の山場「御館乱(おたてのらん)」の複雑さは、想像以上のものだったと、良く解りました。

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桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(4)纒向石塚古墳

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(3)ホケノ山古墳

纒向石塚古墳(市指定史跡)/桜井市教育委員会
 桜井市指定史跡となっていて、昭和46年から調査しているのですから比較的早くに始まったようです。←写真をクリックすると現地の案内記事が見られます。
 築造年代はむつかしいようですが、3世紀の中頃まではほぼ当たっているようです(笑:わからない苦笑い)。参考1の「3 纒向石塚古墳の築造年代」(p130-136)の結論では、石野氏は3世紀初めとされています。弥生時代から古墳時代の、当時の人はおっとりしていたでしょうから、五年や十年の違いは気にしていなかったと想像しています。

 参考2には第八次調査の結果までがあります。それによると、全長93m、後円部径64m、前方部幅32mとなっています。そして、後円部にトレンチ(試掘溝)を掘ったところ、主体部(埋葬施設でしょうね)の発見はなかったようです。これは現在、あるいは将来発見されるかも知れませんが、もし本当に無かったとすると参考3で苅谷氏が述べていた、纒向石塚古墳は墓所ではなく日の神を祀る聖壇だった可能性を再び思い出さざるを得ません(同書 p103~)。前方部・後円部の正中線はまっすぐに東南の三輪山に向かっているのです。

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(纒向石塚古墳)纒向小学校の東端から南西に向けて撮した
 ↑写真の位置は、現地案内碑からです。後円部が削られているのか、もとからこういう状態だったのかはわかりませんが、古墳というよりも「聖壇」の雰囲気が濃厚です。参考4には、以前「地中レーダー調査」(p30)をしたところ何かがありそうだったが、トレンチを掘っても、何も無かったとあります。戦時中に軍が高射砲を設置したのでその基礎かとも推定したようですが、そうでもなかったようです。

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(纒向小学校と石塚古墳) 人影は同行のJo翁

 最近の話題は参考5によれば、同地域の纒向型古墳(前方部が後円部の半分程度)の判定に変化が生じたようです。矢塚古墳は(全長96m、前方部34m)で従来通り纒向型。東田大塚古墳は(全長120m、前方部50m)で前方部が長く非纒向型。さらに勝山古墳も(全長115m、前方部48m)となり非纒向型と見直されました。
 そして石塚古墳には言及がなかったのです。

 参考6に記しましたが昨年すでに3つの古墳の調査はされ、全体の規模がほぼ出ていました。それから1年たってようやく、纒向型ではない、前方部が明らかに長い東田大塚や勝山古墳を別種と見なしたのだと思います。
 そして石塚古墳はどうなのでしょう(笑:興味津々の笑い)。円墳と見まごう超纒向型であることに変化はないのでしょう。私の頭の中に、水晶玉が座布団に座っているシルエットが浮かびました。
 謎は深まるばかり、予断を許してくれません。

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(三輪山と纒向石塚古墳前方部)

 石塚古墳に関係する情報をいろいろ眺めてみましたが、主体部の未発見が気になりました。深部に埋葬したのか、あるいは高射砲を設置するときに破壊されたのか、あるいは古墳墓所ではなく聖壇だったのか。そしてここでも三輪山が見えました。きっと三輪山が当時の様子を見て知っているのでしょう。

参考1 邪馬台国と古墳/石野博信 学生社、2002.4
参考2 三輪山周辺の考古学/桜井市立埋蔵文化財センター 2000.12
参考3 まほろばの歌がきこえる:現れた邪馬台国の都/苅谷俊介 エイチアンドアイ、1999.2
参考4 桜井・発掘調査現場から/桜井市文化財協会 1999.3
参考5 (ネット情報)邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石/産経ニュース 2009.3.5 22:56
参考6 (MuBlog)纒向遺跡の三つの古墳:勝山、矢塚、東田大塚古墳 2008.03.07

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2009年3月14日 (土)

小説木幡記:2009/03/14(土)復讐の春ちゃん:小猫の知能

 今朝朝食中のことだった。ハルキ(通称・春ちゃん)が余の足に飛びかかって噛みつき両手をふって叩いてきた。一度なら甘えているのだろうと、忘れるところだが、攻撃は執拗だった。払いのけても五度ばかり同じ事を繰り返した。思いあまってお仕置き部屋に入れたが珈琲を飲みかけだったので、戸を閉めずそのままテーブルに戻った。すると、だだだっーと脱兎のごとき走行音をたてて、またしても猛然とジャンプして余の同じ右足を攻撃してきた。

 生後三ヶ月だというのに、これは一体何なのだ、と考え込んでしまった。
 前提として、春ちゃんと余とは仲が悪いわけではない。余が出掛けるときは玄関まで見送りにくる。洗面台に立つと追いかけてくる。まるっきり姿がなくても、「春ちゃーん」と呼べば必ずでてくる。最近は、朝はかならず足にすり寄ってくるので、ご飯のカリカリ(栄養満点の乾燥宇宙食だな)を袋からとりだして皿にのせると、感謝のゴロゴロ音を発し、食べている。

 相変わらず猫じゃらし遊びをすると、延々と余と遊んでおる。しかるに何故? 恐怖を感じるくらいの執拗な攻撃だった。たとえ甘噛みで、手の爪は丸まっていても、力があった。これが来年10キロくらいになって、本気で襲ってきたら、逃げられないなぁ~という怖さだった。

 思い当たる節もある。これは復讐なのだ、と解ってきた。
 高いところが好きなのだが、テーブルに乗るのを厳禁してきた。強い口調で「駄目!」を連発し、降りないときは右手で掴んで(まだ、片手で持てる)、お仕置き部屋に閉じこめる「躾」をしてきた。しかし、最近は知能が発達したのか、一度二度で一旦引き下がり、隙をみてまた登るようになってきた。今朝はそれが朝食前に繰り返された。

 そして。
 余にジャンプして攻撃を繰り返したのは、春ちゃんの「復讐」だと、ようやく解った。
 驚いた。
 単純攻撃ではない。駄目と言ってしばらく余は朝食をとっていたのだから、その間に時間がある。万全の攻撃態勢に入るまで、春ちゃんの脳は何を考えていたのだろう。そこに明確な知能を余は察知した。殴られたら速攻で殴り返すの、昨今キレる少年少女とは違って、江戸のカタキを長崎で返す時間差があった。まず攻撃対象を余と認知した。そして余の朝食の様子を観察していた。余が完全に春ちゃんを忘れて「うまい、うまい」と食事に没頭した頃を見計らって、足を攻撃してきた。この一連の攻撃には本能を越えた「知能」がある。

 余は今朝、生命の神秘、知能の発達という現象に直面し、この世の不思議を再確認した。

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2009年3月13日 (金)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(3)ホケノ山古墳

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望

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(ホケノ山古墳全景:前方部から後円部を写す) 人影は同行Jo翁

ホケノ山:後円部
 ホケノ山古墳は箸墓から東に向かってJR桜井線を渡って、三輪そうめん山本研究所を左にみてさらに進むと国津神社があって、そのすぐ東を左に折れると駐車場があり車を停めます。ところで左折せずにさらに三輪山に向かっていくと檜原神社にたどり着きます。 (MuBlog:三輪山遊行(2)箸墓から檜原神社

 今回は現地の案内板を中心にして、ホケノ山から見た景色を掲載しました。案内板は第2次調査のもので、その後の2000年第4次現地説明会の調査結果は、現地では解りませんでした。
 想像するに、1次(平成7年 1995)、2次(平成8年 1996)までは桜井市の埋蔵文化財センターに情報があり、3次(平成10年 1998)と4次(平成11年 1999-2000)とは橿原考古学研究所に整理されているようです。

 ホケノ山がこれからも重要な遺跡として考えられるのは、いろいろな参考情報を併せますと、箸墓よりも古いことや、後円部中心から発掘された独特の埋葬様式だと思います。末尾参考にあげた第4次現地説明会の図版や、『三輪山の考古学』で網干氏の解説を読むと、ご遺骸は高野槇(こうやまき)の木棺におさめられ、木棺は木と板で囲った木室で覆われ、その外に石が積まれていたわけです。{ご遺骸、木棺、木槨(もっかく)、石槨、盛り土}と、丁寧な造りです。現代のネット情報(新聞報道)ではわずかに各地に似たものがあるようですが、2000年初期には類例がなく、その特殊性に驚いたようです。同行JoMuが後円部に立ったときその痕跡はなく綺麗に埋め戻されていました。

 橿原考古学研究所友史会のサイト情報では「「ホケノ山古墳の研究」¥7,000 売り切れ」(2009.3月確認)となっていました。情報というものが過不足なく公開されるには時間がかかり、そして「売り切れ」というのはホケノ山のことを気にされている人が現在も多いのだなと、推測した次第です。

 本記事で確認できたことは、現地案内板(2次調査までの結果)からホケノ山古墳が重要なことと、現在の姿、及び現地ならではの三輪山や箸墓を含めた全景写真による、位置景観情報です。
 考古学の専門家でない私にとって、古代を幻視する一番確かな方法論は現地全体の景観を眺めることです。机上で文献を読んでも、博物館で遺物を眺めても、実は(笑)よく解らないのです。しかし、ここに立つと三輪山が見える、そして箸墓が見えるがホケノ山古墳が出来た時には箸墓はなかったはず! 遠くに畝傍(うねび)山が見える、空が見える眼下の纒向が見える。この全体感です。
 稀な本記事読者の方も、どうぞ「現地景観」の視点で、記事写真をご笑覧ください。

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(↑ホケノ山古墳/桜井市教育委員会↓)

「この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纒向(まきむく)遺跡の南東端に位置します。
 また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く解っていません。平成七年以降、古墳の史跡整備に先立って二次に亙る発掘調査が行われ、様々な事柄が解っています。

★合計十二本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。
★周濠は第一次調査の第一トレンチ(調査抗)では幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと、西側に行くほど幅が広くなっています。
★葺石(ふきいし)は墳丘側の総ての調査区において確認されています。葺石の構造は地山(Mu注:元の丘陵の地肌)を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。
★また、周濠や墳丘は前方部前面が旧巻向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。

 今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括(くく)れ部のデーターを基にして復元したものです。」
  桜井市教育委員会

 (Mu注:一部に★や読みの挿入、算用数字などの変更をしました)

 ホケノ山古墳の復元規模は『三輪山周辺の考古学(平成12年度秋季特別展)/桜井市立埋蔵文化財センター』によりますと、「全長80m・後円部径60m・前方部幅20m」とありました(p21)。規模からすると、MuBlogでこれから見学する他の纒向型前方後円墳と同じ程度です。なお高さですが後円部頂上に立つと盆地が見渡せました。約9mあり、箸墓後円部が13mですから、地上高は低くても三輪山の尾根に連なる立地として海抜は高いわけです。
 桜井市のこの案内板でも解るのですが、実際の周濠跡や前方部は私の目では不明瞭でした。専門家の目で見るには経験が必要です。しかし葺石は一部再現してあったのでよく解りました。一般に葺石(ふきいし)は土盛りが崩れないように置かれたとなっていますが、遠望するとデザイン的な効果があったと思います。特に前方部の傾斜は緩やかですから、土盛り機能よりも、酒船石遺跡にみられる石組(亀形石造物)の美しさを想像していました。

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(↑前方部東斜面検出の埋葬施設/桜井市教育委員会↓)

「ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙(Mu注:ぼこう・墓穴)の規模は全長4.2m/幅1.2m残存する深さは30~50cmになります。
 墓壙内には南端に大型複合口縁壷が、中央には底部を穿孔(せんこう)した広口壷が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m/幅45cm、現存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
 また、木棺内部の南側からは40X45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壷・底部に穿孔のある広口壷を供献した埋葬施設である事が確認されました。

 この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで堀り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
 これらの土器は、概ね三世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています。」
  桜井教育委員会


ホケノ山:前方部の葺石再現
ホケノ山:南東部
 この写真のお墓は要するに後円部中心に埋葬された方よりも後世に亡くなられた人の埋葬施設です。葺石を取り外して前方部に埋めたわけですから、近い親戚とか肉親だったのでしょうか?

 当日確認はできませんでしたが(多分発掘跡が埋め戻されていた?)西側にも後世の横穴式施設があったようです。前方後円墳の横穴式となりますと、以前Jo翁と同行した滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳(その模型)を思い出します。鴨稲荷山の様に後円部中心に埋葬されていても、横穴の位置は変則的になりますね。このホケノ山古墳だと、後円部中心には竪穴式の特殊な埋葬があり、さらに後世に横穴式施設を造ったのですから、古墳の使い方には当時の人達も工夫や考えをめぐらしたはずです。お骨があればDNAなどによって、血縁の有る無しなども解ることでしょう。

 なお中心となる後円部墳頂の主人公になる方の埋葬施設は、埋め戻されていたので現地では解りませんでした。おそらく早々と売り切れになった「ホケノ山古墳の研究」に詳しいはずです。その概要は末尾参考にあげた2000年の現地説明会内容でうかがえます。

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(ホケノ山古墳から東に、穴師、巻向山(567m)、三輪山(467m)を見る)

ホケノ山:三輪山

ホケノ山:周濠跡でしょうか?

ホケノ山:頂上から見た三輪山

ホケノ山:畝傍山と箸墓

 主に後円部に立って四方を写したわけですが、同行のJo翁はここで新説をつぶやいておりました。考古学とか山の様子についてはJo翁が遙かな先達ですので、そのつぶやき内容の可否をここで論評する力はありません。ただ、東に三輪山を仰ぎ見、そこから麓の檜原神社を想像し(施設が小さいので見えません)、そこから写真を撮っているホケノ山古墳までを確認し、振り返り箸墓後円部の森を眺めていると、これらが地勢的にも当時の人の考えの上でも、一連の関係を持っていたような気分になるから、不思議です(笑)。もちろん、ホケノ山古墳が築造された時には箸墓はまだ無かったはずです。箸墓はホケノ山古墳が完成したあとの数十年内に偉容を見せたのでしょう。

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(↑ホケノ山古墳と纒向(まきむく)古墳群/桜井市教育委員会↓)(歴史街道)

「ホケノ山古墳の周囲には纒向遺跡がひろがっています。纒向遺跡は東西約2km南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の諸遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。この遺跡は三世紀初めに出現し、およそ150年後の四世紀中頃には消滅してしまいます。
 遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纒向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか)・ホケノ山古墳の六基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、その築造時期がいずれも三世紀に遡るものと考えられており、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。」
  桜井市教育委員会

 最後になりましたが、現地案内板地図から近辺の箸墓や北西の纒向遺跡全体を確認してください。せまいような広いようなこの地域から日本の国の始まりが湧出してきたような幻想に襲われます。
 ということで、ホケノ山前方後円墳の考古学的な発掘情報は未消化に終わりましたが、なかなかの古墳であるとの実感は得ました。その埋葬様式の丁寧さにも感心しました。鏡も第4次調査で出土しているわけですから、盗掘はあったとしても良好な残り方をした古墳だと思います。そしてまた、ネット情報ですので正確には何とも言えないのですが、調査の入るずっと昔の出土鏡の一枚は近所の大きな神社にあり、二枚は別の大学研究室にあるとか、あるいは埋葬された方はトヨスキイリヒメさんという説もあり、興味津々これこそMuの世界と、ひそかに手を打っております(eye)。そういう混迷の謎話は別途の滋養といたします。

 さて次は、纒向遺跡の中心地、古式前方後円墳の見学となります。

参考
  ホケノ山古墳(新聞報道)
  桜井市ホケノ山古墳(第4次調査) 現地説明会(2000年4月)/奈良県立橿原考古学研究所サイトより、大和古墳群調査委員会(河上邦彦、萩原儀征、岡林孝作、水野敏典)
  『三輪山の考古学』学生社、2003.3 この中から「三輪山周辺の古墳文化/網干善教」を参考にしました。

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2009年3月12日 (木)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場

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(三輪山と箸墓:纒向小学校の東に隣接する纒向石塚古墳から、東南方角を写しました)

 この度のJoMu同行二人の前方後円墳紀行では、箸墓を入れておりませんでした。これはカテゴリー「卑弥呼の墓」シリーズで別途考察している所なのです。
 午前10時に近鉄桜井駅前で、大阪の親戚の家からJo翁が合流し、とる物とりあえず桜井・茶臼山古墳を探索しました。先回の(1)に記したように茶臼山古墳では僥倖に恵まれました。遺跡発掘の見学会には滅多に行かない私などは、特に喜びがひとしおでした。非公開・偶然飛び入り見学だったので、記事には書かない点も多数あって、机上ではなく現場を歩くことの大切さを痛切に味わいました。

 茶臼山古墳から徒歩20分ほどで近鉄桜井駅前の駐車場にもどり、そこからRSに乗って大神神社(おお・みわじんじゃ)近くの千寿亭という三輪そうめんのお店に着いたのは、11時40分ころでした。温かいにゅうめんを美味しくいただき、Jo翁はヱビスビールを飲んでいました。

 最初の予定では、昼食後にすぐ近くの桜井市の埋蔵文化財センターへ行くつもりでしたが、生憎月曜と火曜日が休館日で閉まっていました。駐車場には車両が数台あったので、関係者は仕事をしていたのでしょう。そこでは纒向遺跡に関する発掘調査資料や遺物を見ようと張り切っていたのですが、残念でした。

 予定を変更して、そのまま箸墓の東にあるホケノ山古墳を確認し、その後で纒向関係古式・前方後円墳を直接訪ねることにしたのです。今回の記事は、千寿亭から少し北上し、箸墓の見えるところで右折し、ホケノ山古墳に行く直前のしばしの箸墓参拝ということです。

箸墓:前方部とJo翁
箸墓:前方部と後円部
箸墓:三輪山全景
箸墓:三輪山の頂上部・望遠
箸墓:纒向小学校から見た箸墓と東田大塚山古墳

 箸墓から見た三輪山、後に行く纒向小学校・纒向石塚古墳から見た三輪山と箸墓。桜井市はどこからでも三輪山が見える町でした。そして箸墓が三輪山の麓にあることからも想像できますが、箸墓は三輪山との関連から作られた初期最大の前方後円墳でした。前方部と後円部を結んだ正中線が三輪山の北麓周辺・穴師の兵主(ひょうず)神社を指しているのもなにかしら小説のヒントになりそうですね(笑)。


(地図:箸墓)

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2009年3月11日 (水)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行:初期・前方後円墳(0)はじめに

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(ずれた天井石)

 この写真は私にとっては貴重なものです。何故そうなのかは、あまり説明できませんが、後日畏友のJo翁が懇切丁寧な解説記事をJoBlogに掲載されるはずなので、そちらでご確認下さい。(推定掲載時期は2009年3月中旬、検索キーは{JoBlog、茶臼山古墳})

 さて桜井茶臼山古墳の後円部墳頂はまだ発掘調査中でした。調査員らしき人や発掘作業従事者、見学に来た専門家の人達、合計十数名の人影がありました。同行二人JoMuを合わせるとさらに増えます。従前のニュースによれば奈良県立・橿原考古学研究所が再調査しているとのことだったので、その関係者が中心だと想像できます(不明)。発掘従事者以外の人影があったのは、作業が一段落したのかもしれません。

 写真のトレンチ(試掘坑)は、十文字のうち東西に掘られた部分の西端にあたります。見どころは左下の四角い石板です。風に乗って聞こえてきた声では、ずり落ちた天井石板の可能性があります。他のトレンチ部分では、地震によって後円部全体が南北二つに割れてずれた形跡もあるようでした(風の噂です)。しかしとにかく「国指定史跡」ですから、調査の範囲や深さは厳密に取り決められているせいか、なにかがどうかしても、途中で掘り進めたりすることは出来ないようです。いずれにしても、私には何一つ正確には判断出来ませんでした。しかし、なにかがある、という予感ときめきはあったのです。

桜井茶臼山:後円部墳頂西側の発掘調査現場
 ←小さな写真で分かると思いますが、後円部は広々としていました。長い歴史の中で削られたのか、初めからそうだったのかは分かりません。ただ、以前神戸で五色塚古墳の再現公園を歩いたときは、後円部は頂上部分が平坦な広場になっていましたから、そう言う物かも知れません。昔から茶臼山古墳の頂上も今見ているのと変わらなかったのでしょうか。何が言いたいかと申しますと、またしても風に乗った声では、ここには様々な施設があった可能性があるようです。JoMuも、後日の発掘調査結果を新聞で見たりあるいは報告書を読まないとわからないのですが、なんとなく掘っ立て柱があったような想像をしました。要するに、後円部に建物があったのかもしれない。なんとも、あまり聞かない話です。

桜井茶臼山:後円部から前方部を見下ろす
桜井茶臼山:後円部を見上げる
 もちろん後円部の鳥居などは古地図絵図には時々あるようなので、縦穴式石槨のまわりにいろいろしつらえた時代があったのかもしれません。どういう発表がこれからされていくのか、大いに興味があります。あるいは私の幻視だった可能性も大きいです。少なく見積もっても1600年以上は経過していますから、途中で誰かが家を建てたり、別の目的に使われたりと、一筋縄ではいかないのが古代遺跡だと思いました。

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(桜井茶臼山古墳の全景)

桜井茶臼山:案内表示
 未整備の前方後円墳は樹木に覆われていますから段とか葺石で覆われた美麗さとか、なにも分かりません。ただ大きな写真は二枚を合成したもので、18mmの広角レンズでも入りきらなかったのです。全長207mは写真の左から右までの長さです。後円部の地上高は19m、後円部の直径は110m程なので全長の半分程度です。右の前方部は幅が61m程度と現地に書いてありました。2003年の調査では高さが最大23mに伸びておりました。桜井市のパンフレットでは高さが22mでした、まあ大体そんなところでしょう(cancer)。
 あいにく柄鏡形の古墳姿は別の解説などを読まないと分かりません。Googleの航空写真も現在(2009年3月)時点では、奈良県桜井市近辺の写真分解度が低くて茶臼山古墳を仁徳天皇陵のように上空からはっきり確認することは出来ません。

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(後円部登頂ルート:ゼンリン電子地図Zi9より)

桜井茶臼山:後円部麓の桜
桜井茶臼山:発掘調査仮小屋
 ↑この地図で分かるように、茶臼山古墳は前方部と後円部とがほぼ南北に位置しています。同行二人JoMuは、午前10時頃に近鉄桜井駅から徒歩で西に進み、近所のお寺(大願寺)で行き先を尋ね親切にも地図に経路まで付けた複写(住宅地図をA3見開きで貼り付け下さった!)をいただき、ようやく古墳後円部の見えるところまでたどり着きました。

 桜井の方は親切だとJo翁も私も感心しました。帰路もJR桜井駅前通りで休んでいると近所の洋品店のご主人らしい人が、カメラを持ったJoMuに、メスリ山古墳出土埴輪を小学生の頃に見て感動したと、話しかけてくれました。Jo翁の人徳もありますが、お寺のお母さんとお嫁さんか娘さんにしても、駅前の旦那にしても、見ず知らずの他国人に望外の親しみを見せてくださったのです。

 写真地図には全景を撮った位置と角度を記しました。そしてどういうルートで後円部に登ったかも記録しました。いささか乱暴ですね。真北から真っ直ぐ後円部までよじ登ったのですから! そして登った途端に人影があってびっくりした笑い話は、後日のJoBlog記事に任せます。調査が入ったのは知っていたのですが、作業が終わり無人で、すでに埋め戻されていると信じて疑わなかった次第です。

復習:←近畿の古墳と古代史/白石太一郎(学生社、2007.5)
 同著によると、全長が200m以上もある3世紀中葉過ぎから4世紀中葉過ぎの前方後円墳はひとまとまりの古墳として説明されていました。つまり初期倭国王墓だったというのです。たとえば桜井(外山:トビ)茶臼山古墳からは昔、玉杖が発掘されていて橿原考古学研究所の博物館サイトに写真があります。大王の持ち物らしく見えました。

 同著によると(p50)古墳の古さは、箸墓(280m)→西殿塚(234m、天理市・手白香皇女陵)→茶臼山古墳(208m)→メスリ山古墳(250m)とありました。茶臼山古墳とメスリ山古墳とは記紀に明確な記述がないので、一般には注目されてこなかったようです。しかし、このように系列化して眺めてみると、なにかしらすっぽりと落ち着くところに落ち着いた気持ちになります。感覚的な云い方ですが、記紀に名のある著名な大王ないし大女王の墓だったのでしょう。そして、茶臼山古墳のあるトビとか磐余(いわれ)一帯は神武天皇伝説の中心地でしたし、胸騒ぎがしてきます(笑)。

 このたび、橿原考古学研究所(だと想像)が茶臼山古墳を再調査をしているのは、一体真の狙いはどこにあるのか、後日に発表があるとしても、私などは岡目八目、意外にも纒向遺跡との関連に結びつけたりしてしまうのです。仮に纒向遺跡を件の邪馬台国と幻視するなら、そのわずかに半世紀後、距離にして南に4キロ弱に位置した巨大・前方後円墳・桜井茶臼山古墳とは一体なんだったのでしょう、謎は深まるばかりです。邪馬台国と大和朝廷との失われたリンクなのかも知れませんなぁ~。

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2009年3月10日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳

承前:白髭神社と鴨稲荷山古墳:近江の継体天皇 (0)はじめに

 畏友のJo翁と一日使って奈良県桜井市の前方後円墳の幾つかを実際に歩いてみました。次の地図に印を付けましたが、全部で7つの初期・前方後円墳です。

 (Jo翁もようやく紀行文に着手したようです

1.桜井・茶臼山古墳
2.箸墓
3.ホケノ山古墳
4.纒向・石塚古墳
5.纒向・勝山古墳
6.纒向・矢塚古墳
7.纒向・東田大塚古墳
8.まとめ

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(JR桜井駅前の案内地図)

 忙しいJo翁と暇人Muですが、わざわざ出掛けるのにはそれなりの理由があります。二人とも考古学や古代日本史が好きなわけですが、特に今回はなにかしら私の方に胸騒ぎがして、行き先を指定したふしもあります。私は思うのですが、どうやらここ数年のうちに、日本古代史の多くの謎が今回旅したいくつかの前方後円墳によって解明されるのではなかろうかと~、予断を許さないわけです(taurus)。

 1.桜井・茶臼山古墳は、今年初めの小説木幡記でほんの少し触れましたが、橿原考古学研究所が戦後60年ぶりに再調査をすると知っていました。事前に2003年のまとめを読みましたが、いくつか興味がわきました。
 4世紀初期の柄鏡形の前方後円墳で、207mもあって大きいです。しかし古墳の年代はなかなか分かりにくいわけです。柄鏡形については同行Jo翁の解説もあって分かってきました。ですがそれとは別にこの3月5日の産経新聞(邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ・古墳誕生の謎に一石→引用しますが後日リンク切れになるでしょう)では、纒向の古い古墳(後で述べます)は、最近になって前方後円墳の形状がこれまでとは違っていたことが分かったのです。で、私は柄鏡形と、その古い纒向形との違いを知りたかったわけです。
 前方後円墳の形の変遷の図式は「 前方後円墳の形の変遷」を見ると分かりやすいです。

 2.箸墓は、今回は旅の途中にお参りしただけです。これは別途「卑弥呼の墓」シリーズで詳細に考えていきます。

 3.ホケノ山古墳は、纒向遺跡の一つとして著名ですが、以前檜原神社へお参りした時に通りすがりに遠望しただけなので、今回は詳細に写真を撮りました。Jo翁は三輪山とホケノ山古墳と、そして西の国津神社北の丘(古墳でしょうね)と、箸墓後円部を眺めて、これは一連の物であると新説(笑)をつぶやいておりました。楽しみです。

 4~7の、4つの纒向前方後円墳は纒向小学校の周囲にあります。この4つをすべて徒歩で観察してみました。どの古墳もここ数年の間に話題になり、そして、3月5日にも橿原考古学研究所の新しい発見(異なった形状)があり、なかなかに予断を許しませんねぇ。

 というわけで、お昼は千寿亭という三輪そうめんのお店でたいそうな御膳を御馳走してもらい、帰路は奈良ホテルでこれまた美味しい珈琲やケーキやサンドイッチをJo翁から賜りました。ありがたいことです、合掌。「千寿亭」はRSのナビシステムで、入力すると出てきました。有名なお店なんですね。奈良ホテルは混んでいましたが、快適に疲れをいやせました。さすがに到着時は、めずらしく一日に5~6キロも歩いたせいか、ふらふらでした。熱いお湯で洗顔して珈琲を飲んだら、すっきりしました。

 さてまずは、出発地点。近鉄桜井駅の写真を掲載しますので、同行JoMu・旅の始まりを想像して下さい。
Musakuraiekiimg_2256

参照
 MuBlogでは関係記事を過去にいくつか掲載していますが、整理のつき次第参照リンクをセットします。

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2009年3月 8日 (日)

NHK天地人(10)春日山城本丸の占拠

承前:NHK天地人(09)草食性・妻夫木聡→変身→肉食性・直江兼続

 今夜の見どころは景虎の側近、遠山さんの顔つき目つき表情のすごさでした。NHKの「登場人物」には載っていませんが、他のネット記事では俳優は蛍雪次郎さんらしいです。脇役っていう立場は難しいわけですが、その脇役が独特の個性、雰囲気を出す映画やドラマ、そして小説は見応え、読み応えがあるものです。

 景虎をそそのかす遠山さんは北条の家臣だったわけですが、景虎が上杉謙信の人質(後に養子)になったとき付いて来たようです。お守(も)りでしょうか。一方、景勝さんをそそのかすのは兼続や与七のお父さん、樋口惣右衛門です。どちらも側近ですから、主人の利益をまず優先します。もちろん兼続主演のドラマですから、どうしても兼続の主人・景勝に分があって、結果的に惣右衛門さんのそそのかしは、遠山さんとは逆の印象を与えました。惣右衛門さんは<一生一代の大博打>というような云い方で、景勝が不同意のまま息子の兼続に本丸占拠を指導します。

 さらに見どころは、兼続が景勝説得に失敗したあと、惣右衛門(高嶋政伸)は兼続に本丸占拠を続行させ、自らは景勝の説得に行きます。そして、「手打ちにして下さい」と自分の脇差しを前に置いて、景勝に首を差し出す仕草をします。まだ若い景勝としては、側近兼続の父親、というよりも自分の亡き父の家臣にここまで迫られると、同意せざるを得ないでしょう。そして他方、景虎側も遠山は<景勝さまは無体なことをするお方ではありません。しかし側近の上田衆、兼続などはなにをしでかすか分かりません>と、耳打ちするわけです。ますます景虎は疑心暗鬼に追い込まれていきます。

 というわけで、今夜のまとめはお互いの謀略がどんどんエスカレートして行って、ついには行動に移るという、争いの普遍的な姿をコンパクトにまとめて演じてくれたとなります。一人一人の疑心暗鬼は一人一人が冷静に考えれば、それほど膨らまないわけですが、傍にいる信用する者達の言動によって、ついには後戻りできないことにまでなってしまいます。この場合の側近は、客観的にみるなら双方に一理あって、どちらが悪で善かなんて判断はできないわけです。惣右衛門さんは、遠山さんの小田原(北条)あての密書を横取りできたわけですが、そりゃ遠山さんにとって大切な景虎さんが人質養子のまま終わる瀬戸際ですから、北条家に相談するのは当たり前ですね。一方、上田衆としては他国からの養子よりも、もともと越後県人(笑)の景勝が後を継ぐのは当然ですから、それを確固としたものにするため本丸に一刻も先に入るのが、当たり前の事だったのでしょう。

 惣右衛門さんはもともと経済官僚として仕えていたからなのか、息子の兼続や与七に、本丸にある厖大な金こそが謙信の軍資金であり、これがあったからこそ越後の龍は連戦連勝だったことを正確に伝えます。謙信公は戦だけでなく、経済面でもきっちりお金を大切にした方なのだと伝えたわけです。<本丸の金蔵を嗣いだ者こそが、名実共に越後の後継者>と、言っておりました。

 さて来週は遂に乱が乱を呼び「御館の乱」となります。今夜の最後は、景虎が兼続を切ろうとしたところで終わりました。当たり前ですが、ここで兼続が景虎に手打ちになったら、ドラマが動かなくなります(笑)。

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2009年3月 6日 (金)

小説木幡記:2009/03/06(金)人生時間の変更→ 新世紀人生時間

 以前の結婚式やなにかのことで、若い人達へのオジサン連の言葉として「人生時間」がよく話題になった。この頃は耳にしなくなったので、古びたのか。
 つまり年令を3で割って、今の自分が一日のどのあたりにいるのかを分かりやすく知る方法である。

 たとえば、24歳ころの人は3で割って午前8時ごろに相当するから、会社に向かって家を出た直後。30歳の人ならようやく午前10時、昼食にはまだ早い。36歳でやっと正午、午前の仕事が終わって休憩。
 一般的な定年60歳なら20時だから午後8時、夕食の前後でほっと落ち着く頃だろう。となると人にもよるが、そろそろ寝ようかいとなる24時だと逆算して、72歳になる。

 72歳でサヨナラは早すぎるわけでもないが、どうにも落ち着かない(笑)。夜更かしする人なら調整はつくが、余のように22時には闇の中にいる者は、なんと66歳でサイナラとなる、……。これは実情とずれてきた。
 そりゃそうだ。人生50年の時代に当てはめると、殆どの人が17時、午後の5時にはサイナラしていたことになる。もっとも奈良時代というか古代の朝廷は日の出ともに仕事して、昼には終わりだったらしいから、午後の5時がホントのサイナラでもおかしくはない。

 と言うわけで、余は割る数を3から4に変更した、「新世紀人生時間」をここに提唱する。
 ほっと一息つける20時、つまり夜の8時は逆算すると80歳。まだまだだねぇ。
 ほんとにサイナラしてもよい90歳だと、4で割って10時半ころか。まだ起きていたいのか? なら96歳でちょうど日付の変わる24時。よろしいなぁ。

 となると、大学卒業してしばらくの24歳だなんて、まだまだ午前6時、寝ぼけ眼の人生じゃないか。悩みに悩む20歳って午前5時、まだみんな寝ているのと同じ。悩みがあるならそれは悪夢に過ぎない。幸せすぎてもただの夢にすぎない。これから、これから日が昇る。

 年令÷4→ 新世紀人生時間
 君は、あんたは、翁達は、今何時? そうね、だいたいねぇ~。

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2009年3月 4日 (水)

小説葛野記:2009/03/04(水)夢のまた夢なれど、捨てられない物もある

 今日は比較的気持が安定し、やや小ぎれいになった研究室で、涼夏2007PCに向かって「小説葛野記」を書く気分になった。これはよい兆候だ。

1.大学図書館から、図書延滞学生(卒業生)への督促状文案の可否を問うてきた。一読して可と返事した。しかし今更ながら、丁寧さに感心した。つまり、延滞の長短によって、督促内容が微妙に異なるということだ。この四年間、気がつかなかった。不覚なり。わが葛野は、総じて丁寧なところがあると、思った次第。
 なのに余が何事に付けても荒っぽいのは、これは反省を通り過ぎて、気質なり。しかたない(cancer)。

2.教授会で見知りの准教授が教授に昇任した。その学科の同僚が業績説明をしていた。ふむふむと余はうなずいていた。やはり、一般に研究者とは艱難辛苦の業績を積む人が多いと思った。
 評決が終わり、入れ替わりにご当人が会議室に来られた。案件はそれで終わったので、帰路挨拶した。「おめでとうございます」と。すると<いや、堕落したようなものです>と、軽口をもらされた。余も破顔した。一般に昨今大学では、教授職につくと、ありとあらゆる委員会や役職が回ってきて、研究教育時間は激減する。
 そういうことなのだ(笑)。

 ああ、余は極楽とんぼというか、なにかしら鵺のような生き方をしておるので、気味悪がってだれも余に無理難題を押しつけてこぬ。よいことじゃ。

3.掃除整理整頓は、順調に進んできた。捨てるべきものの7割を部屋の一隅にまとめるところまで来た。後の三割は、いまだに「捨てるに捨てられない」物がのこっておって躊躇しておる。しかし近頃はすべて「夢のまた夢」「いずれ、全部無用になる」という諦観が強くなり、今回はだいぶ整理整頓が成功した(しそう)ということだ。

 しかしたとえば、倶楽部初代達が卒業時、屯所に残してくれた小さな裁断機はわざわざ研究室に移動した。屯所では切れ味のよい最新の大型裁断機を入手したので、無用になったからだ。「先生、これが無かったから苦労しました。倶楽部屯所で後輩達と使ってください」と、当時の局長達の言葉が耳朶に残っておる。ふむふむ。

 あるいは30代のころ自分で作った、アメリカ議会図書館のLC分類記号を日本のNDC分類記号に、自動変換するプログラムのメモや仕様書も捨てられなかった。捨てて捨ててエッセンスだけ残した、フォルダー一つ分だが、そしてそんなアルゴリズムは二度と再利用しないものと分かってはいるが、捨てられなかった。棺桶にでも入れてもらおうかのう。

 あるいは、……。
 30代のころに作ったゲームソフトや、PC-DBMS/MDB11の仕様書も捨てられなかった。そういうものなんだろう。
 すべては、夢のまた夢、と思いながらも後生大事に抱え込んで、余生を生きていくのじゃ労。
 おお、そういえば今回も、またしても博物館行きPCが研究室の一隅に燦然と輝く位置を得た。名機FM-TOWNSと、SONY-SMC70也。まあ、これを無くしたら余の人生はゼロになるのう。

 というわけで、夕刻になった。副長2009が屯所で編集作業をまだしておる。明日は、機関誌の編集会議や助勤会が早朝からある。みなみな精勤なり。余も、もうすこし部屋を整理整頓しよう。

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2009年3月 3日 (火)

小説木幡記:2009/03/03(火)部品が飛んで珍鳥が飛ぶ

飛んでいった部品
 帰宅して書斎工作瞑想室に入ったら、なにやら様子がおかしい。島図書館が少しゆがんでいた。列車も海面に転落しているではないか。そして、……。カプラーという列車の連結メカニズムの片割れが机上にぽんと乗っていた。おかしい。さっそく転覆(金太郎、EH500!)電気機関車の先頭部分をみると、片方のカプラーが無い! そして、そして片割れが見つかっても、肝心の押さえパーツがない。30分さがしたが見つからなかった。今頃は掃除機の中に塵芥と同居しておるのだろう。

 実はここ数週間ずっと葛野研を掃除整理整頓しているので、さすがに木幡に帰ってまで、掃除機の中をピンセットでより分ける気力はなかった。……。かくして、EH500は片方しか客車や貨物車を牽引できなくなった。部品をネットで買えばよいのだが、なんとなく部品代(300円)よりも送料が高くなりそうなので、結局、余は他の形式のカプラーを接着剤で付けることになろう。精密モデルはやっかいで、微妙繊細だな。あるいはボール紙で作ってみてもよいな。

 部品が飛び散るとき、どの方向に行ったか、落下したかを予測するソフトはないじゃろうか。それがあれば30分も一時間も探したり、掃除機の中まで見ることもなかろう。これからますます老眼が強くなる。うむ、ふむ。

珍鳥が飛んだ
 知り合いのblogを眺めていたら(あえて引用はしない。神経質なくらいに自己隠蔽工作をしておるので、余がネタバレすると怨まれる)、一生に一度みられるかどうかの珍鳥が、余の近辺に現れたようじゃ。ただ鳥の名前は、その者がぼかしておるので詳細は分からない。そこに上がっていた他の鳥名は、平等院で緋連雀(ひれんじゃく)とか黄連雀(きれんじゃく)を見たとか、サンコウチョウとかだったが、余は生憎どれも区別がつかぬ。

 それよりも幻の珍鳥が余の近辺にいるとは、~、なんとなく感じていた。というのも、むかしから近辺は野鳥観察で有名なところらしいが、ここ二週間ほど連日オジキ連が望遠カメラや双眼鏡を使って余を眺めているような、終日うろうろしているのを見て、なんとなく気味がわるかった(笑)。
 そうだったのかぁ。
 まるで、大・役満貫、九連宝燈(ちゅーれんぽーと)みたいじゃないか。ホールインワン、と言った方が現代人は理解しやすいかな。
 余の父は幼き余にいつも語っておった。「Muよ、父ちゃんの友達がな、チューレンポートであがった途端に、心臓発作で死んだ。あれは怖い役萬じゃ。あがるなよ!」と、小学校低学年(2年生くらいかな)の余に戒めておった(笑)。

 ようするにその珍鳥は、一目見ると心臓発作を起こすくらいに、怖い役鳥かもしれぬのぉ。

さて
 今夜は、どの本を読もうかい。木幡研は文学書と歴史書ばかりじゃから、なあ。たまには自然科学本でも読んでみよう。どれどれ、「ロボットを作る」おお、また同じ悪夢にもどる。部品を無くして、あしかけ2年間も、ロボットを触れなくなった。余は、いささか神経質というか、気の弱いところがあるというか、この世のことがすべて心的外傷の要因になるようじゃ。どうりで、花粉症にならない。(?) そういえば、アトムが死んだPluto巻は未だに読めない。困った人生じゃ。

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2009年3月 2日 (月)

卑弥呼の墓(010) 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』笠井敏光、金関恕、千田稔、塚口義信、前田晴人、和田萃(あつむ).学生社、2008.8

承前:卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡

 小説木幡記で古代史談議を数行記して、表題の図書に言及したところ、大方の興味を引いた(taurus)ので、さっそく一読した。目次を再掲し、それにそって感想を述べておく。

 ただし本シリーズの「卑弥呼の墓」については、本書では確定的な論議はなく、「こういう説もあり、ああいう説もある」と断片的な情報に終始していた。それは本書が邪馬台国や箸墓を集中的にまとめたものではなく、巻末にあるように平成16年から東京で毎年行われた「三輪山セミナー」の講演録という性格にある。<邪馬台国の卑弥呼の墓>と直裁に書いてあるのは手元の別本『三輪山の考古学』学生社、2003.3で、河上邦彦先生に詳しい。あるいはさらに詳細な最新情報のある図書も予測できるが、それらはやがてMuBlogで紹介することにしよう。

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(大神神社境内)

1.鬼道を事とする卑弥呼/金関恕(かなせき ひろし)
 節「中平紀年銘の鉄刀」(p11)では、天理大学が以前、東大寺山古墳で発見した鉄刀銘について、この「中平」とは後漢のもので西暦184~89,90年を指すらしく、このころ「倭国の乱」後に共立された卑弥呼の使者がこの太刀を贈られたことを示唆していた。

 東大寺山古墳を地図で見ると奈良県天理市和爾(わに)にあたる。

大きな地図で見る

 この銘文の入った鉄剣が卑弥呼の目にふれたかどうかは知らないが、この地方の人が中国と交流のあったことは解る。金関氏は『卑弥呼誕生』(東京美術)でこの鉄刀に触れて「騒乱を鎮めた大刀」を記している。カラー写真で金象嵌銘文が見られた。古墳自体は四世紀ころのものなので、銘文を刻んでから100年以上、どこを彷徨っていたのか気にかかった。相当に立派な刀なので、もらった人がただの人とは言えぬだろう。

 さて。となると、卑弥呼の墓にも立派な大刀が副葬されているのだろう。金関氏は、当時の巫女は戦場に立った可能性があると「鬼道を事とする卑弥呼」で記していた。卑弥呼が直接戦闘に混じったわけではなく、指揮する巫女の立場として女性の墓に大刀があったと想像してもよかろう。(もちろん天理市の東大寺山古墳が卑弥呼の墓とは、誰も、そして私も思ってはいない)

2.三輪山と卑弥呼/笠井敏光
 笠井氏の論考は、考古学や古代史の図書内容と少し違った所があった。視点が時々ふっと飛んで別の見方をしている。そこに興味深さがあった。

 節「高地性集落」(p32)では、高地にある砦が狼煙(のろし)機能を持っていてこれが「情報ネットワーク」と書いてあるのでイメージをしっかり持てた。次に、その情報伝達の速度を、博多から近畿まで大体3時間で到達するとあり、古代史をそういう視点で見ることに驚いた(注:狼煙の伝達速度実験内容の詳細はなかった)。で、一番感動したのは、高地性集落のリンクが、北九州から大分県別府にまず結ばれ、そのまま瀬戸内海を通って近畿に到達するという視点の導入だった。ここに情報の伝達方向を考え、北九州には後の太宰府のような都市があっても、首都邪馬台国はなく、情報の伝達先、すなわち高地性集落の終点にあったはずと、邪馬台国近畿説を結論付けていた。中心地は九州からみて「東」であった、と。

 また、近畿は弥生時代に面としての相互ネットワークを結んでいたから、広域の協力関係を成長させることが出来たとあった。たとえば、大和の集落、難波の集落、京都(山背)の集落、これらが生産(情報も)共同体を作っていたという話である。そこから、卑弥呼の立場「共立」という考えも分かりやすくなった。

 邪馬台国(女王国)は倭の中心都市だった。日本全体を指してはいない。思うに、纒向地域なのだろう。卑弥呼はそこに住んでいた。しかし、統治していたのは、30国あまりをまとめた「倭国」全体だった、となる。倭(やまと)連合国女王卑弥呼と言える。このように説かれると、邪馬台国は明確にヤマト(大和)という首都だとうなずけた。

 (注:他の論からすると、卑弥呼はヒ(メないしノ)ミコと考えられるので、女王卑弥呼=女王、となるだろう。女王卑弥呼とは、馬から落ちて落馬して、というようなものだ。現代の寺社仏閣も、「~ji(じ) temple(寺)」 とか、「~sya(しゃ) shrine(神社)」 と書いてあるが、おかしい)

 肝心の卑弥呼の墓は、笠井新也説(注)によって、箸墓と結論付けている。講演録なので詳細な条件はなかったが、笠井敏光の見方が日頃の私の考えに近似なのでよしとした(笑)。
 どういうことかというと、まず笠井敏光は日本史の中で300年も続いたのは古墳時代(卑弥呼含む)と江戸時代だけと言う。それは個人為政者の力だけでなく、システムが完備していたからとなる。
 (注:「卑弥呼即ち倭述述日百襲姫命/笠井新也(『考古学雑誌』第十四巻第七号、1924.2))

 それを私流に申すと、おそらく卑弥呼のカリスマは強烈だったのだろう。しかしそれを支えたのは30国前後の連合国だった。連合国女王を作り上げるほどのシステム志向があったからこそ、三国志・魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)によればおそらく60数年は君臨した大巫女の墓を作るにも、相当な考えが在任中からあったはずだと想像できる。現地の箸墓は280m級で、大きい。一朝に出来たとは思わない。それが三輪山の麓、纒向遺跡の南にある。この景観全体からみて、箸墓に卑弥呼が眠ると考えるのが、私なりのシステム志向の結論である。

3.卑弥呼の鬼道と大三輪の祭祀/前田晴人
 節「王号の由来」(p50)で、『魏志倭人伝』すなわち中国の魏が日本国王をどう認識していたを解説していた。これがわかりやすかった。つまり、魏志倭人伝は現地の自称・王は認めないから、そこでの「王」とは魏皇帝が認めた者という条件がある。すると王とは、倭国女王ヒミコ、狗奴国王、伊都国王、この三人になるらしい。それを前田氏は「当時の日本には二重王制が布かれていた」といい、「倭」と魏に認知された国家の女王と、二人の小国の王(狗奴国王、伊都国王)で、二世紀初頭には伊都国がもっとも強力だったと想定している。

 肝心の卑弥呼の墓だが、章末の注記にまとめてあった。
 三輪山周辺の古式古墳(ホケノ山、東田大塚、……)は箸墓を起源とする大規模・前方後円墳の起源と位置づけ、それらは「邪馬台国(ヤマト王権)」の30国・卑弥呼共立までの、邪馬台国・王墓であった。しかし、箸墓はそれとは異なり邪馬台国王墓ではなくて、それを超えた「倭国女王の墓として造営された画期をもつ」としていた。
 そしてまた三輪神とはヤマト王権が自ら奉祭していた国家の最高神との結論があった。
 私は、この前田氏の論調がすっと頭に入ったことを付言しておく。

4.卑弥呼に見立てられた女性たち/千田稔
 博識の大先生なので話があちこちに飛び、読んでいた私は困惑した。ただ、日本書紀の編纂者達は神功皇后紀に邪馬台国、卑弥呼、「倭の女王」と書いているので、神功皇后が桜井に宮居したことから、「もう邪馬台国は大和で決まりなのです」と結論があった。

 なぜ日本書紀が神功皇后紀に、邪馬台国の話を挿入したのかは難しいので私には理解できない。ただすべて神功皇后紀の四十年、……、六十六年というように紀年表示してあるので、書記の編纂者達は邪馬台国女王が神功皇后であると言い切っていたのは事実である。それが嘘か真かを確かめる前に、書紀にはそう記したという事実によって、大和朝廷のご先代に卑弥呼がいたことを認めているのは確実なことだろう。となると、やはり千田氏の言うように、邪馬台国は大和となる(笑)。

 その墓となると、当然千田氏は神功皇后陵ではなく、笠井新也説に言及し箸墓らしいとほのめかしながらも、なお、ヤマトトトビモモソヒメを卑弥呼に比定することは避けていた。
 私は千田説をこう考えた。箸墓は卑弥呼の墓と考えられもするが、そのことと崇神記などのヤマトトトビモモソヒメ伝承と合致させるのはよろしくない、と。なぜそのように、千田説をとらえるかというと、卑弥呼は伝承の中に生きたよりも、もっと現実的に倭国女王だったのだから、卑弥呼とヤマトトビモモソヒメとを合体させなくても、280mの巨大前方後円墳をあの時代(3世紀中頃)に作らせた威力からみて、そして女王の格式から見て、卑弥呼の墓は箸墓しかないと思うからだ。逆に、崇神記のヤマトトトビモモソヒメの時代考証とか、神功皇后紀の時代考証とか、それらの矛盾は箸墓自体の壮大さの前では、<始原の複合した幻想年代>と断じてもよいと思うほどである。

5.卑弥呼の宮殿を探る/千田稔
 この章でも困惑した。結論だけを記しておく。
 つまり、新羅から渡来したと噂のある天日槍(アメノヒボコ)が、三輪山北麓に近い穴師の「兵主神社」の祭神の一柱かもしれず、そのことから天日槍は穴師に拠点をすえていて、それが実は卑弥呼のバックボーンとなったという説が展開されていた。そこから卑弥呼宮殿は、穴師の里を東に下ったあたりと想定されていた。この説は、実は私が昔読んだ本によると、穴師の上(東方向)を登っていくと高原があって、そこが高天原だという伝説がある。卑弥呼宮殿がどこであるかの前に、この穴師あたりは三輪山に等しく昔から神話伝承の濃い地域だと言ってよいだろう。

6.「神武伝説と日向」の再検討/塚口義信
 興味深いが卑弥呼とは話がずれるので割愛。九州南部の日向(ひむか)から大阪湾の日下(くさか)に神武天皇は、太陽を追って進んだ。その事情が書いてある。すなわち両地に日向系の王族がいて、その伝承が記紀に反映している、とのことだった。
 (注:要再読。つまり、神武天皇伝承の原型は五世紀前半に存在していたという論考部分が興味深く、かつ難しく思えた。それが分かれば、卑弥呼とのリンクが張られる。語られた伝承はもっと古代の内容と想定できるから)

7.「神武伝説の熊野」の再検討/塚口義信
 興味深いが卑弥呼とは話がずれるので割愛。日下で緒戦に敗れた神武天皇は、なぜ熊野に廻って再上陸したのかが、書いてある。熊野は「黄泉の国の入り口」だったからとあり、死と再生の儀式が色濃いようだ。ただし塚口氏は熊野が死国そのものとは言っていない。熊野は黄泉の国、および常世の国への入り口でもあるが、暗黒魔界ではない。

8.倭成す大物主神/和田萃(わだ あつむ)
 出雲の大国主と大和三輪の大物主を、相似ではあっても同一視は出来ないという論調だった。すなわち出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこ・かんよごと)」では、斉明朝に出雲信仰の影響が大和にあったことは分かるが、古代の三輪山信仰は大王自らが祭祀に当たっていたわけで、出雲側の主張は新しいものだと、結論している。
 私はこの説は知らなかったのでこれまでのもやもやとした霧が晴れた思いがした。たしかに出雲神話の影響が三輪にあると感じるのだが、原始性においては、出雲大社の豪壮な社にくらべ、三輪には今でも拝殿だけで本殿がないが、江戸時代まではその拝殿もなく瑞垣だけだったという箇所を読み、納得した。

 もし出雲の大国主と三輪の大物主神が同一ならば、出雲大社のような、もう少し肝心なところで似ておればよいのに、もともと大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿も拝殿もなく、三輪山だけが祀られていたという事実の違いは大きい。おそらく、三輪山の麓に現在ある檜原神社(ひばら)のように三鳥居だけがあって、清浄な砂が三輪山の正面に聖域としてあったのだろうか(想像也)。そういう原始性と、「大国主」と「大物主」という表現からみても、二柱は別なのだろう。「国」を当てたのは現実的だが、「物」という呪術的な言葉を当てたのは、より卑弥呼世界に近い。日本には古来神様は沢山おられるから、わざわざ一緒としたのは、別の考えがあったように思える。

 さて、私の脳裏には、倭を作った大物主神に仕え、全国30国をまとめ統治した大巫女の姿が瞼に浮かぶ。これが遠国の出雲からの渡来神だと思うと、これまでなにかしらしっくりこなかった。今後は、出雲は出雲、三輪は三輪と独立して物をみようと思った。その中で相似性を考えると楽になる。和田氏は、国造りの点で近しいと書いていた。そして、大物主神を祀っているのが大神神社で、その荒霊(あらみたま)は隣の狭井神社であると、くくられていた。

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(狭井神社境内)

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2009年3月 1日 (日)

NHK天地人(09)草食性・妻夫木聡→変身→肉食性・直江兼続

承前:NHK天地人(08)天下取りの系譜:上杉謙信

御館乱
 今夜は上杉家史上「御館の乱(おたてのらん)」と言われる、上杉謙信死後の家督相続にまつわる内乱の発端でした。景勝(北村さん)と景虎(玉山さん)のどちらが謙信の後を継ぐかで越後が戦争状態になりました。乱が起きてから収拾まで天正6年~8年まで(1578~1580)かかっていますから、足かけ三年もの長期戦でした。最初は実家の北条氏政や、そこと同盟を結んでいた武田勝頼の支援があって、景虎が優勢をしめました。しかし三年もかかったのは、これらの外部支援がうまく機能しなくなったからでしょう。結局、兼続の主君「景勝」が上杉家を実効継承するわけですが、それはそれは大変なことだったのでしょう。

 その経験の中で、、、兼続が今週あたりから、それまでの草食性から、いよいよ智将、謀略をあやつる(笑)、肉食性戦国武将になっていく始まりにあたります。愛と義を旨とした武将ですから、屍肉むさぼる他の戦国武将とは異なりますが、やはり黙っていては攻め滅ぼされる弱肉強食時代でしたから、泣き虫の癒し系だけではドラマが成立しません。今夜はこれまでの妻夫木さんから、別の妻夫木・兼続が誕生するわけです。

みどころ
 上杉謙信の姉で景勝の母・仙桃院(高島礼子)は、お船の母・妙椿尼(みょうちんに・萬田久子)の「嘘の遺言」を聞き、自らも「泥をかぶる」と決意し、兼続を呼び寄せました。「家督を景勝にゆずる」話が無かったと知り、兼続はたじろぎます。そこでの、仙桃院の言葉が印象的でした。

<嘘と本当の端境(はざかい)に、まことのまつりごとがある>という言葉でした。

 これまでいささか一本調子の役柄だった兼続が、こういう言葉をどのように消化して生きていくのか、そこが今年のドラマの見どころなのでしょう。愛と義を信条とした生き方の中で、戦国武将として兼続は「まこと」を貫けるのでしょうか。というよりも、まことを貫きながら、生き抜けるのでしょうか。その難しい問題が若い兼続に突然ふりかかります。その上ドラマでは謙信の最後の言葉が兼続にむけてのもので、「兼続の義」と聞こえたようです。

 そのころよりずっと離れた現代の視点からすると、ここには兼続を中心とした謀略説があるようです。もっと激しい内容としては、謙信謀殺説もありました。いろいろですね。

 そのあるなしを検証する力量は持ち合わせませんが、もっと単純に考えるならば、景虎は北条家出身の息子で、その妻は景勝の妹です。そして景勝は、謙信の甥で、その母は謙信の姉です。血族的には景勝が有利です。景虎を押す家臣達は、無口な景勝では家臣をまとめられない、景勝の出身母体上田衆が跋扈するといいますが、逆に景虎は北条家の跡継ぎになってもよいほどの立場ですから、越後の人にとっては異国の王を迎えるようなものです。それこそ北条衆が越後を跋扈する可能性もありました。

 現有勢力として上杉謙信に最も近い者は姉であり、その息子の景勝が後継者になるのは当然のように思われました。これが、景勝ががとんでもない愚鈍な者なら、景虎が引き継ぐ妥当性もありますが、これまでのところ景勝は無口なだけで、謙信の怒りや失望をかったエピソードはありませんでした。

それよりも予告編
 予告編を見る限り、そして今夜の最後を見る限り、すでに内乱は始まりました。その上来週は兼続の父親・惣右衛門が、まだ甘さの残った兼続を、政略・軍略の面で一気に一人前にするために画策するようです。上田衆は領主長尾政景が当時の謙信によって謀殺されたという恨みを持っています。その謀殺が事実かどうかは分かりませんが、政景の息子10歳の景勝が謙信を怨んでいたのは、ドラマで表現されていました。兼続の父親は長尾政景の家臣でしたから、その主人の遺児景勝が越後を継承するかどうかは、理非なく当然のことだったのでしょう。

 このあたりの複雑さは、一昨年の「風林火山」でも諏訪家と武田家の関係、および諏訪家の男子が出家し、後に今川の策略で武田への刺客となった場面、あるいは諏訪家の長女由布姫が武田に嫁いだ関係など錯綜していましたが、今回の上杉家内紛でも一瞬の相似を味わいました。

 なんというか。
 今夜あたりから、ようやくMu流の筆致が上手に流れ出す予感がしました。たしかに、45分間が短く感じられたのです。妻夫木・兼続さん、そろそろ肉食系男子になってください。まわりは草食系の人達男女が多いので(Muもそうです)、せめてドラマくらいは日常から離れて楽しみたいですなぁ。

近未来の参考
 御館乱跡の地図と解説:「上越を歩く

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