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2009年3月22日 (日)

卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡

間接承前:卑弥呼の墓(010) 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』笠井敏光、金関恕、千田稔、塚口義信、前田晴人、和田萃(あつむ).学生社、2008.8
直接承前:卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡

 一昨日(20日金曜)の夜間にインターネット(産経ニュース)で纒向遺跡・宮殿跡の発掘ニュースが流れた。そして昨日21(土)の朝刊では「卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡」と一面に出ていた(参考1)。
 なんら慌てることはないのだが、この十日間ずっと纒向遺跡の記事を掲載していたので、心が躍り記録しないと気持がおさまらないので、とる物もとりあえずメモしておくことにした。

新聞記事の概要
 参考1では
 おおよそ次の図が描かれていた。黒枠の建物は昭和53年にすでに発見され、黄色の建物と凸形の柵が今回の発掘である。上が北なので、建物は東西に整然と並んでいて、しかも柵があって柵の右(東)を内郭(ないかく)、左(西)を外郭(がいかく)とすると、これは中国の宮殿様式に近いとあった。
Cocolog_oekaki_2009_03_22_00_14
 図の真ん中の建物は一辺が5mで、今回発掘の建物跡は6m以上の大きさと推定される。すべてを発掘したわけではなく、まだまだ右側(東)に大きな建物跡が出てくるかも知れない。

 これを現代の目で復元した想像図は昭和53年の調査結果をもとに「考古建造物の尺度の発見/木村房之」にあると、参考4(p99)にしるしてあったが孫引きになるので引用掲載を慎む。正面が西面し大社造りと神明造りの中間形式を想定している。ところで、西面しているということは、東の穴師を背負った形になるので、私は背筋がぞくりとした(笑)。やはり千田先生の説にはすてがたいものがある(卑弥呼の宮殿を探る/千田稔)。

 参考2では
 石野博信・兵庫県立考古博物館長の話として、当時の中国・三国志、魏の使節との外交交渉上の宮殿という説があった。西暦239年に卑弥呼は難升米を魏に遣わしている。
 私が想像するに、この時「親魏倭王」の金印を受け取っているはずだが、この宮殿跡からは出ないだろう。そのことは後述する。

 辰巳和弘・同志社大学教授は、卑弥呼が鬼道(Mu注:呪術というかアイシャドーの濃い巫女さんが託宣する姿を想像。アイシャドーとは半ば冗談、半ば本気である。当時は巫女の目の力で敵を圧倒した)をよくする女王として、祭祀場の一部と想定している。
 このことは、政務を行う宮殿と、祭祀を行う神聖な神殿と、さらに卑弥呼の居室とを、発掘成果から今後どのように判定していくのか、私自身考えていきたい。

 寺澤薫・奈良県立橿原考古学研究所・総務企画部長は、凸形(西へ張り出した)の柵とか東西に並んだ建物の計画性からして、儀式を行う特別な場所と想定。また、中心施設はさらに東にあるとのこと。
 纒向遺跡全体が整然とした古代都市だったことを鮮明に書かれたのは寺澤先生だったと記憶する。幻視とは言わないが、大体どんな分野でも、人によっては結果がはっきりと見えている場合がある。多分、発掘は今後も東へ向かう気がする(笑)。

 邪馬台国九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長は、全体構造が不明瞭な現段階で、吉野ヶ里遺跡のような邪馬台国遺跡のある九州説とは、比較し論議する段階に至っていない、ということ。
 私は昔、短時間吉野ヶ里遺跡を探訪した。ものすごい古代空間だと記憶している。そこが邪馬台国であってもよいだろう。この場合、邪馬台国とは中国の史官がヤマトを聞き間違えて邪馬台国と卑字を当てたのだろう。コカコーラは可口可楽(口にすべし、楽しむべし、とか)と当てる国柄だから、邪馬台国は(倭)大和なのだろう。そして高島氏がおっしゃるように、全体構造が分明にならないと吉野ヶ里と纒向の比較は難しい。
 (今だって、博多や大阪や神戸や京都や名古屋や東京・横浜、仙台、札幌と都市があって、数千年後の遺跡発掘から、どこが首都だったかを探るのは難しかろう。しかしみんなヤマト(笑))。

 参考3では
 俳優というよりも、私にとっては「名著古典」といえる「まほろばの歌がきこえる」を記された市井の考古学者である。学問とか思考には、肩書きがなくてもよい。あればあるで利害得失もまたある。本当の学問とは肩書きのとれた隠居時代にこそ、事の真髄にせまると私は考えてきた。
 新聞記事では奇特な俳優として、手弁当で今回の発掘に参加された様子が写真付きで載っていた。
 しかし、実は苅谷氏は参考4の著書で、すでに1999年段階で大きな仮説を出している。その中で宮殿に関しては、第一次と第二次にわけ、今回の発掘は卑弥呼在世時代の第一次宮殿となっていた。今夜はその概念地図を引用掲載し、十年以上たった現在、ご自身の手で発掘された苅谷氏の想念を想像してメモを終える。

Photo
(参考4よりp246-247「図26 第二期宮都(初期大和王権の中枢)時代の纒向遺跡のようす」色円は私の追加)

 この図を見ていて、刈谷氏が別の挿図に寄せたコメントで、<石塚古墳とは墓ではなく聖壇だが、しかし卑弥呼のモガリの宮として、彼女は箸墓完成までそこに眠っていた>という趣旨の言葉を思い出す。

追伸
 金印「親魏倭王」の話題を最近耳にしないが、当時の中国に返還されたのか、失われたのか、誰かが拾って融かしたのか、良く解らない。しかし中国は王朝が次々と変わる国なので返還しようがないこともあるだろうし、簡単に失われたとも思わない。それが埋まっている所は、公印だから役所跡だろう。今回の苅谷流でいうと第一期宮殿跡よりも、もっと東の第二期宮殿政務所跡あたりから、でてくるかもしれない()。

参考1(インターネット)卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡 2009.3.20 19:31
参考2(インターネット)「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃 2009.3.20 19:31
参考3(インターネット)苅谷俊介さんも発掘調査に参加 2009.3.20 19:31
参考4まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介 1999.3

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