卑弥呼の墓(010) 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』笠井敏光、金関恕、千田稔、塚口義信、前田晴人、和田萃(あつむ).学生社、2008.8
承前:卑弥呼の墓(009) 卑弥呼の館周辺を発掘開始:奈良県桜井市纒向遺跡
小説木幡記で古代史談議を数行記して、表題の図書に言及したところ、大方の興味を引いた()ので、さっそく一読した。目次を再掲し、それにそって感想を述べておく。
ただし本シリーズの「卑弥呼の墓」については、本書では確定的な論議はなく、「こういう説もあり、ああいう説もある」と断片的な情報に終始していた。それは本書が邪馬台国や箸墓を集中的にまとめたものではなく、巻末にあるように平成16年から東京で毎年行われた「三輪山セミナー」の講演録という性格にある。<邪馬台国の卑弥呼の墓>と直裁に書いてあるのは手元の別本『三輪山の考古学』学生社、2003.3で、河上邦彦先生に詳しい。あるいはさらに詳細な最新情報のある図書も予測できるが、それらはやがてMuBlogで紹介することにしよう。
1.鬼道を事とする卑弥呼/金関恕(かなせき ひろし)
節「中平紀年銘の鉄刀」(p11)では、天理大学が以前、東大寺山古墳で発見した鉄刀銘について、この「中平」とは後漢のもので西暦184~89,90年を指すらしく、このころ「倭国の乱」後に共立された卑弥呼の使者がこの太刀を贈られたことを示唆していた。
東大寺山古墳を地図で見ると奈良県天理市和爾(わに)にあたる。
大きな地図で見る
この銘文の入った鉄剣が卑弥呼の目にふれたかどうかは知らないが、この地方の人が中国と交流のあったことは解る。金関氏は『卑弥呼誕生』(東京美術)でこの鉄刀に触れて「騒乱を鎮めた大刀」を記している。カラー写真で金象嵌銘文が見られた。古墳自体は四世紀ころのものなので、銘文を刻んでから100年以上、どこを彷徨っていたのか気にかかった。相当に立派な刀なので、もらった人がただの人とは言えぬだろう。
さて。となると、卑弥呼の墓にも立派な大刀が副葬されているのだろう。金関氏は、当時の巫女は戦場に立った可能性があると「鬼道を事とする卑弥呼」で記していた。卑弥呼が直接戦闘に混じったわけではなく、指揮する巫女の立場として女性の墓に大刀があったと想像してもよかろう。(もちろん天理市の東大寺山古墳が卑弥呼の墓とは、誰も、そして私も思ってはいない)
2.三輪山と卑弥呼/笠井敏光
笠井氏の論考は、考古学や古代史の図書内容と少し違った所があった。視点が時々ふっと飛んで別の見方をしている。そこに興味深さがあった。
節「高地性集落」(p32)では、高地にある砦が狼煙(のろし)機能を持っていてこれが「情報ネットワーク」と書いてあるのでイメージをしっかり持てた。次に、その情報伝達の速度を、博多から近畿まで大体3時間で到達するとあり、古代史をそういう視点で見ることに驚いた(注:狼煙の伝達速度実験内容の詳細はなかった)。で、一番感動したのは、高地性集落のリンクが、北九州から大分県別府にまず結ばれ、そのまま瀬戸内海を通って近畿に到達するという視点の導入だった。ここに情報の伝達方向を考え、北九州には後の太宰府のような都市があっても、首都邪馬台国はなく、情報の伝達先、すなわち高地性集落の終点にあったはずと、邪馬台国近畿説を結論付けていた。中心地は九州からみて「東」であった、と。
また、近畿は弥生時代に面としての相互ネットワークを結んでいたから、広域の協力関係を成長させることが出来たとあった。たとえば、大和の集落、難波の集落、京都(山背)の集落、これらが生産(情報も)共同体を作っていたという話である。そこから、卑弥呼の立場「共立」という考えも分かりやすくなった。
邪馬台国(女王国)は倭の中心都市だった。日本全体を指してはいない。思うに、纒向地域なのだろう。卑弥呼はそこに住んでいた。しかし、統治していたのは、30国あまりをまとめた「倭国」全体だった、となる。倭(やまと)連合国女王卑弥呼と言える。このように説かれると、邪馬台国は明確にヤマト(大和)という首都だとうなずけた。
(注:他の論からすると、卑弥呼はヒ(メないしノ)ミコと考えられるので、女王卑弥呼=女王、となるだろう。女王卑弥呼とは、馬から落ちて落馬して、というようなものだ。現代の寺社仏閣も、「~ji(じ) temple(寺)」 とか、「~sya(しゃ) shrine(神社)」 と書いてあるが、おかしい)
肝心の卑弥呼の墓は、笠井新也説(注)によって、箸墓と結論付けている。講演録なので詳細な条件はなかったが、笠井敏光の見方が日頃の私の考えに近似なのでよしとした(笑)。
どういうことかというと、まず笠井敏光は日本史の中で300年も続いたのは古墳時代(卑弥呼含む)と江戸時代だけと言う。それは個人為政者の力だけでなく、システムが完備していたからとなる。
(注:「卑弥呼即ち倭述述日百襲姫命/笠井新也(『考古学雑誌』第十四巻第七号、1924.2))
それを私流に申すと、おそらく卑弥呼のカリスマは強烈だったのだろう。しかしそれを支えたのは30国前後の連合国だった。連合国女王を作り上げるほどのシステム志向があったからこそ、三国志・魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)によればおそらく60数年は君臨した大巫女の墓を作るにも、相当な考えが在任中からあったはずだと想像できる。現地の箸墓は280m級で、大きい。一朝に出来たとは思わない。それが三輪山の麓、纒向遺跡の南にある。この景観全体からみて、箸墓に卑弥呼が眠ると考えるのが、私なりのシステム志向の結論である。
3.卑弥呼の鬼道と大三輪の祭祀/前田晴人
節「王号の由来」(p50)で、『魏志倭人伝』すなわち中国の魏が日本国王をどう認識していたを解説していた。これがわかりやすかった。つまり、魏志倭人伝は現地の自称・王は認めないから、そこでの「王」とは魏皇帝が認めた者という条件がある。すると王とは、倭国女王ヒミコ、狗奴国王、伊都国王、この三人になるらしい。それを前田氏は「当時の日本には二重王制が布かれていた」といい、「倭」と魏に認知された国家の女王と、二人の小国の王(狗奴国王、伊都国王)で、二世紀初頭には伊都国がもっとも強力だったと想定している。
肝心の卑弥呼の墓だが、章末の注記にまとめてあった。
三輪山周辺の古式古墳(ホケノ山、東田大塚、……)は箸墓を起源とする大規模・前方後円墳の起源と位置づけ、それらは「邪馬台国(ヤマト王権)」の30国・卑弥呼共立までの、邪馬台国・王墓であった。しかし、箸墓はそれとは異なり邪馬台国王墓ではなくて、それを超えた「倭国女王の墓として造営された画期をもつ」としていた。
そしてまた三輪神とはヤマト王権が自ら奉祭していた国家の最高神との結論があった。
私は、この前田氏の論調がすっと頭に入ったことを付言しておく。
4.卑弥呼に見立てられた女性たち/千田稔
博識の大先生なので話があちこちに飛び、読んでいた私は困惑した。ただ、日本書紀の編纂者達は神功皇后紀に邪馬台国、卑弥呼、「倭の女王」と書いているので、神功皇后が桜井に宮居したことから、「もう邪馬台国は大和で決まりなのです」と結論があった。
なぜ日本書紀が神功皇后紀に、邪馬台国の話を挿入したのかは難しいので私には理解できない。ただすべて神功皇后紀の四十年、……、六十六年というように紀年表示してあるので、書記の編纂者達は邪馬台国女王が神功皇后であると言い切っていたのは事実である。それが嘘か真かを確かめる前に、書紀にはそう記したという事実によって、大和朝廷のご先代に卑弥呼がいたことを認めているのは確実なことだろう。となると、やはり千田氏の言うように、邪馬台国は大和となる(笑)。
その墓となると、当然千田氏は神功皇后陵ではなく、笠井新也説に言及し箸墓らしいとほのめかしながらも、なお、ヤマトトトビモモソヒメを卑弥呼に比定することは避けていた。
私は千田説をこう考えた。箸墓は卑弥呼の墓と考えられもするが、そのことと崇神記などのヤマトトトビモモソヒメ伝承と合致させるのはよろしくない、と。なぜそのように、千田説をとらえるかというと、卑弥呼は伝承の中に生きたよりも、もっと現実的に倭国女王だったのだから、卑弥呼とヤマトトビモモソヒメとを合体させなくても、280mの巨大前方後円墳をあの時代(3世紀中頃)に作らせた威力からみて、そして女王の格式から見て、卑弥呼の墓は箸墓しかないと思うからだ。逆に、崇神記のヤマトトトビモモソヒメの時代考証とか、神功皇后紀の時代考証とか、それらの矛盾は箸墓自体の壮大さの前では、<始原の複合した幻想年代>と断じてもよいと思うほどである。
5.卑弥呼の宮殿を探る/千田稔
この章でも困惑した。結論だけを記しておく。
つまり、新羅から渡来したと噂のある天日槍(アメノヒボコ)が、三輪山北麓に近い穴師の「兵主神社」の祭神の一柱かもしれず、そのことから天日槍は穴師に拠点をすえていて、それが実は卑弥呼のバックボーンとなったという説が展開されていた。そこから卑弥呼宮殿は、穴師の里を東に下ったあたりと想定されていた。この説は、実は私が昔読んだ本によると、穴師の上(東方向)を登っていくと高原があって、そこが高天原だという伝説がある。卑弥呼宮殿がどこであるかの前に、この穴師あたりは三輪山に等しく昔から神話伝承の濃い地域だと言ってよいだろう。
6.「神武伝説と日向」の再検討/塚口義信
興味深いが卑弥呼とは話がずれるので割愛。九州南部の日向(ひむか)から大阪湾の日下(くさか)に神武天皇は、太陽を追って進んだ。その事情が書いてある。すなわち両地に日向系の王族がいて、その伝承が記紀に反映している、とのことだった。
(注:要再読。つまり、神武天皇伝承の原型は五世紀前半に存在していたという論考部分が興味深く、かつ難しく思えた。それが分かれば、卑弥呼とのリンクが張られる。語られた伝承はもっと古代の内容と想定できるから)
7.「神武伝説の熊野」の再検討/塚口義信
興味深いが卑弥呼とは話がずれるので割愛。日下で緒戦に敗れた神武天皇は、なぜ熊野に廻って再上陸したのかが、書いてある。熊野は「黄泉の国の入り口」だったからとあり、死と再生の儀式が色濃いようだ。ただし塚口氏は熊野が死国そのものとは言っていない。熊野は黄泉の国、および常世の国への入り口でもあるが、暗黒魔界ではない。
8.倭成す大物主神/和田萃(わだ あつむ)
出雲の大国主と大和三輪の大物主を、相似ではあっても同一視は出来ないという論調だった。すなわち出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこ・かんよごと)」では、斉明朝に出雲信仰の影響が大和にあったことは分かるが、古代の三輪山信仰は大王自らが祭祀に当たっていたわけで、出雲側の主張は新しいものだと、結論している。
私はこの説は知らなかったのでこれまでのもやもやとした霧が晴れた思いがした。たしかに出雲神話の影響が三輪にあると感じるのだが、原始性においては、出雲大社の豪壮な社にくらべ、三輪には今でも拝殿だけで本殿がないが、江戸時代まではその拝殿もなく瑞垣だけだったという箇所を読み、納得した。
もし出雲の大国主と三輪の大物主神が同一ならば、出雲大社のような、もう少し肝心なところで似ておればよいのに、もともと大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿も拝殿もなく、三輪山だけが祀られていたという事実の違いは大きい。おそらく、三輪山の麓に現在ある檜原神社(ひばら)のように三鳥居だけがあって、清浄な砂が三輪山の正面に聖域としてあったのだろうか(想像也)。そういう原始性と、「大国主」と「大物主」という表現からみても、二柱は別なのだろう。「国」を当てたのは現実的だが、「物」という呪術的な言葉を当てたのは、より卑弥呼世界に近い。日本には古来神様は沢山おられるから、わざわざ一緒としたのは、別の考えがあったように思える。
さて、私の脳裏には、倭を作った大物主神に仕え、全国30国をまとめ統治した大巫女の姿が瞼に浮かぶ。これが遠国の出雲からの渡来神だと思うと、これまでなにかしらしっくりこなかった。今後は、出雲は出雲、三輪は三輪と独立して物をみようと思った。その中で相似性を考えると楽になる。和田氏は、国造りの点で近しいと書いていた。そして、大物主神を祀っているのが大神神社で、その荒霊(あらみたま)は隣の狭井神社であると、くくられていた。
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コメント
ワニ氏
東大寺山古墳の後漢の鉄剣は九州だけでなく、奈良で発掘されたのは意義が大きいですね。昔から気になっています。
多分、楽浪郡という中国の半島植民地司令部から運ばれたものでしょうね。平城京の場所は元はワニ氏の拠点、春日山の春日氏もワニ一族、山背へのルートも和邇博士の墓がある位ですから、ワニ氏が押さえていたんでしょうね。
朝鮮半島を制圧した中国の勢力、特に商売をする華僑の連中が日本列島に触手を伸ばしていた可能性がありますね。
さて、ますます奈良行きが楽しくなりました。私も今後の人生で少し考える事があり、4月からは第二の人生として、やり残した古代史の世界に真正面から取り組む事になるかもしれません。
投稿: jo | 2009年3月 2日 (月) 23時31分
Joさん
「古代史の世界に真正面から取り組む」
こういう言葉をみるとほっとします。
できるなら、纒向遺跡と限定はしませんが、関西の方で活躍してください。
及ばずながら、Joさんの足となり手となり、ついでに脳となりましょう(爆)。
あはは、手足脳の代わりをつとめたら、Joさんは一体なにをするのでしょう、と思って自笑したのです。
なお、茶臼山・ホケノ山・纒向方面前方後円墳紀行は、鋭意計画をつくっております。
問題は、観光地と異なり、対象を探すのが大変だと想像しています。立て看板や案内は無いと思います。
投稿: Mu→Jo | 2009年3月 3日 (火) 00時53分