小説木幡記:2009/02/24(火)古代の話
古代からの伝言
記憶ではMuBlogに八木荘司さんの「古代からの伝言」シリーズに言及したのは一度しかなかった。
実は最近2冊(上下)読んで、宣伝をみると文庫で全7巻完結と記してあったので、どうもシリーズが完了したようだ。全部読んだ今となってはさびしいものだ。いやよく眺めてみるとハードカバーとの関係が不明瞭なので、まだ終わったわけではないのかもしれない。わからぬ。
以前読んだハードカバーは『遙かなる大和』上下だった。今回は『青雲の大和』上下(角川書店)で、主な登場人物は中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)、蘇我入鹿(そがのいるか)、そして高向玄理(たかむこのくろまる)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)。
上巻は鎌足と中大兄による入鹿打倒、大化改新の詳細。下巻は改新なってから国博士に取り立てられた玄理が唐にわたって、日中の平和協定を結ばんとする詳細が描かれていた。なお、『遙かなる大和』は隋から唐に移る時代に、遣隋使として渡航した若者達、青春をすごした玄理や請安の物語であった。隋から唐への革命の実態が詳細に描かれていた。
遙かなる大和から青雲の大和は、高向玄理によって結ばれていた。玄理たちは唐の二代目皇帝や大将軍とは、青年時疾風怒濤の付き合いをしたことになっている。だから、玄理が病んだ身体に鞭打って晩年唐に渡って交渉した現実性が高まる。残念ながら旧知の皇帝は亡くなって代替わりし、大将軍は政争に巻き込まれていた。
まだ終わりではないかも知れないが(笑)、建国から壬申の乱までの長い道のりがあった。その解釈は、人様々だろうが、余には一本の道が見えた。「長く、辛く、危うい時代を、なんとかくぐり抜けて、天平時代、平安時代に続いたのだ。本当に大変な時代だったのだ。中国の革命は過去を一掃し、隣接した朝鮮半島は百済も高句麗も、そして新羅もみんな滅亡した。そういう激しい時代に、我が国は現代まで続く道を残した」という大きな感慨だった。
三輪山と邪馬台国・卑弥呼
さて別件。
最近面白い図書を入手した。『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社、2008.8)。まるで余のために書かれたような良書と思ったぞ。よくみると、Joさんが聴講した「三輪山セミナー」の講義録をまとめた図書のようだ。出版された昨年夏は、夏期論文や倶楽部の飛鳥研修旅行や諸行事で、書店を見る間もなかったんだなぁ、と長嘆息した。この三月にでも居眠りしながら完読しようと思ったが、せめて目次だけでも記して、読み忘れないようにしておこう。
1.鬼道を事とする卑弥呼/金関恕
2.三輪山と卑弥呼/笠井敏光
3.卑弥呼の鬼道と大三輪の祭祀/前田晴人
4.卑弥呼に見立てられた女性たち/千田稔
5.卑弥呼の宮殿を探る/千田稔
6.「神武伝説と日向」の再検討/塚口義信
7.「神武伝説の熊野」の再検討/塚口義信
8.倭成す大物主神/和田萃(あつむ)
それぞれの詳細目次を眺めていると、たっぷりてんこ盛りの内容なので胸が震える脳。このタイトルだけからは、<2.三輪山と卑弥呼/笠井敏光>が気になる。実は卑弥呼に三輪山がどう関係するのかが分かりにくいからだ。ヤマトトトビモモソ姫を媒介にして崇神記の話(蛇さんとの婚姻)で三輪山が明確にでてくるが、そこのところが「こうだ」と、分かればよいのじゃが。そうなると次の<3.卑弥呼の鬼道と大三輪の祭祀/前田晴人>はさらにわくわくする。鬼道は白川静さんの「孔子伝」では、原始儒教のようだな。それを小説にした「陋巷に在り/酒見賢一」を読むと孔子さんはまるで怪力乱心の権化に見えてくる(笑)。となると、飛躍が大きいが、鬼道と古神道がどんな関係を持つのか、持つかも知れないのかが気になる。
現実的な遺跡話をからめると今話題の<5.卑弥呼の宮殿を探る/千田稔>もよろしいなぁ。三月に纒向あたりに畏友Joさんと行ってくるから、「ここじゃ~」と余が立て看板を立ててこようか。ふむふむ。ついでに親魏倭王の金印レプリカでも密かに作ってな、埋め戻すとか。(嘘です)
以上は、目次タイトルからみただけの下馬評。読んでみないと分からぬ。トリの和田先生の章の最終項目名は「大神神社(おおみわじんじゃ)の真実」となっていた。たぶんこっそり最初に読むのは、ここになりそうじゃ。ふむふむ。
と、わずか2000円の書籍代で余は数年間楽しむようだ。読書の快楽極まれり!
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コメント
Muの旦那さん
奈良マキムク紀行、楽しみにしています。天気が良ければいいですね~~。ひょっとすると大阪の義父の事務所で寝泊まりしているかもしれません。その時は現地の何処か最寄の駅で拾って下さい。
関係記事を書きました。http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2009/02/post-deac.html
それでは 楽しみにしています。
投稿: jo | 2009年2月25日 (水) 11時07分
JOさん
というわけで大阪からなら、JR奈良かJR櫻井かJR三輪かJR巻向でしょうね。事情が分からないので、また秘密の手紙をください。
茶臼山古墳を一番にするなら、櫻井でしょうが、大阪から行けるんですかね(笑)。
纒向遺跡のど真ん中なら、巻向駅ですな。奈良でまず腹ごしらえするなら、奈良駅にきまっとりますが、うまい物あるでしょうか? (ウナギ茶漬けなんかなら~)
えっつ? 大阪までRSで、迎えに来い! という文脈でしたか、ふむふむ。(高速代が高くつきますぜ、旦那はん)
投稿: MU→JO | 2009年2月25日 (水) 17時29分
Muの旦那はん
御苦労かけます、大坂で家政夫をしているので、又、別途連絡させて貰います。
先日、森浩一先生が監修の探訪「日本の古墳」西日本編を読んでいましたが、メスリヤマも茶臼山古墳も重要な古墳なんですね。
イワレという場所ですから、ヤマト王権成立と深い関係があるようですね。古墳も前方後円墳としては一番古い形態のようです。
楽しみです。
投稿: jo | 2009年2月26日 (木) 07時18分
三輪山関連の図書、とても気になります。
読後のご報告楽しみにしております。
投稿: namiko | 2009年2月26日 (木) 09時50分
近鉄大坂線
鶴橋駅から近鉄大坂線で近鉄桜井駅までは急行で40分程度で到着しますよ。随分と大坂と三輪王朝とは近いのですね。京都からだと随分と電車でも時間がかかりますよね。
という事は、やはり難波とヤマトとは関係が深いという事やね。平城京と山背は近いけれど、日本建国のヤマトはやはり、難波抜きには考えられないのか知れない。
やはり、現地踏査が重要ですね~~。
投稿: jo | 2009年2月26日 (木) 10時52分
JOさん
返事がおくれました。なにかと体力低くて眠っておりました。
ともかく茶臼山古墳を出発点にしましょう。南から北上するわけです。
そいで、近鉄桜井で待つことにします。
磐余と難波の話ですね。神武さんは最初難波から東行したわけでしょう。で、あきらめて紀伊から北上したわけだから。山城よりも紀伊よりも、磐余は難波に近いですね。
今度実体験してください。
投稿: Mu→Jo | 2009年2月26日 (木) 21時03分
波兎さん、
意外すぎる登場ですね。
つまりですね、三輪山の卑弥呼の邪馬台国のが気になる人って少ないと思っていました。
そんなのがメシより好きなモンって、大抵は世間じゃスネモノです。波兎さんは、人もうらやむ秀才じゃなかったかなぁ~(邪笑)。大体、MuもJoも、斜に構えたひねくれ爺さんですって。
まっとうな現代人だと、いまどき邪馬台国とか卑弥呼って、話題にもなりませぬ。
きっちり読んで、お笑い邪馬台国、じゃなかった、真説・卑弥呼さんの墓、論を展開します。
お楽しみに(笑)
投稿: Mu→Namiko | 2009年2月26日 (木) 21時10分
箸墓=卑弥呼の墓説が強くなってきたので、井沢元彦なんかそれを認めながらも、自説を変えても、それでも、なお、邪馬台国東遷説を主張しているけどw
神武東遷の伝承を強力に主張している人って、意外に記紀をちゃんと読んでいないw
あれって、どう考えても、王朝の首都を移したというような大規模なものに思えない。
非常に小規模の軍隊の東征伝承であり、神武軍は河内で激しい戦闘をしたが、神武の兄が戦死するぐらいの大敗北をし、命からがら、和歌山方面から大和盆地へ入っている。しかも、そんな状態でも、なぜか勝利し、その後、イワレに居を構え、イワレ彦を名乗るのだが、彼の支配権をその狭い地域限定だったとか...
で、ここで重要なのは、神武が畿内へ入ったときに、彼を出迎えた仲間が、神武の親戚筋だったということである。つまり、神武が東征する以前から、神武の親族は畿内で豪族をしていた。
しかも、神武軍が河内で戦っていたときに、「自分たちは天津神の出自なのに、天津のほうを相手側にして戦うのは良くない」と言っている。つまり、神武は天津の出自であり、その天津は河内よりも東のほうにあると告白している。その河内の東側の天津とは、葛木地方のことであり、延喜式でも葛木は高天原とされている地方なのである。
つまり、神武の曽祖父のニニギ命は、この葛木(高天原)の出身であり、ここから日向の高千穂に派遣されたことがわかる。つまり、神武の一族は、葛木地方に首都があった大和王朝か九州を統治するために派遣された、大和王朝の傍系筋にあたるのである。
投稿: ひみこ | 2009年2月26日 (木) 22時27分
ひみこさん
始めまして。
お説、よく分かりました。
つまり太古に、葛城一帯に大和王朝があって、そこからニニギさんが九州に派遣された。時代が移って九州ので育った神武さんは、長い植民地生活に飽きて、故郷本国へ帰ろうとした。
しかし他方、大和王朝の子孫ニギハヤヒは、葛城から近所の下界に降りて、いつのまにか三輪山近辺を統治していた。
ニギハヤヒが三輪山にまで達したときには、葛城の原始大和王朝は滅びていたわけですな。貴種ニギハヤヒは、地元のナガスネヒコの娘婿となって勢力を温存し、同族神武さんが帰郷したときは、舅を殺して神武さんを助けた。やがて亡くなり三輪山の頂上に祀られました。しかしその一族は物部として残って、神武さんの作った新・大和王朝(磐余&橿原王朝)に組み込まれたのでしょうねぇ(笑)。ただし、新王朝の皇后は物部というか、三輪山から出すという条件で。
さて問題は、卑弥呼さん。邪馬台国のこと。
神武東征と三輪山が如何なる関係にあるのかは、読書してのお楽しみ。謎が謎を呼び、暗黒神話・建国のベールがとられ、白日の歴史の光に三輪山が照らされたとき、すべての謎が解ける、……。
投稿: Mu→ひみこ | 2009年2月26日 (木) 22時49分
Muさん、どうも。
私の説は微妙に違いますよね。
まあ、ここのブログでは詳しくは言えません。すみません。
ああ、それとニギハヤヒと火明命が同一神なのかは、断定できないと思います。少なくとも、新撰姓氏禄では、ニギハヤヒの末裔の物部氏は、天孫(高天原出身・王家の親戚筋)ではなく天神(高天原出身・王家の家来筋)あつかいですし。
それに、仮にニギハヤヒと火明命が同一神だったとしても、ナガスネヒコの妹が産んだ子の子孫である物部氏は、たいして重要ではないように思います。物部氏は聖徳太子の時代には有名すぎる一族なので、過大に取り扱われすぎですが...
投稿: ひみこ | 2009年2月28日 (土) 12時04分
ひみこさん
ご丁寧に、どうも。
いえ、Muの考えはイメージにすぎませぬ。
物部については、物部が呪術を生業とすることから、卑弥呼の鬼道との相似を、掃除しながら考えていたのです。
それと。
Muは、親友のJoと言う人もそうですが、ここ数年、先代旧事本紀の周りをうろうろし、ニギハヤヒや物部のことをあれこれ考えていたので、どうしても考えが物部重視になっていくのでした。
それではまた。
投稿: Mu→ひみこ | 2009年2月28日 (土) 21時26分