小説木幡記:2009/01/08(木)右か左か
今日も葛野では、会議や会談や、面談その他、いろいろな人の話を聞いた。余も話した。そして気がついた。
余は人の話をよく聞いて、その上で自由自在に右、左と分けている。間に残る灰色空間(グレーゾーン)が極めて少ないことに気がついた。判断が速いとも正確とも思っていない。根底に、右にしても左にしても、いつかこの世とおさらばさ、という諦念が深くなってきていることに、気がついたのだ。
判断の成否を問わなければ、人生は楽になると、思った。もちろん、結果が重いことについては、相手がいる場合は結論を濁したり、逃げたりしているが、それは生活の知恵であって、内心は決定的に決定している。実に簡単明瞭、単純なことだ。しかるに、年令が若くなる人に限り、年令に応じて灰色ゾーンが多くなる。右せんか、左せんかで、充分に悩む姿が悩ましい。
どの道をたどっても行き着くところは終着点。ならば、どちらでもよい。ただし生きてきたスタイルがあるから、そのガイドには従う。自分自身が自分のガイドという、これも気楽な方法だ。
物事の成否、善し悪しを考えすぎると、うまく行かない。いや、うまく行くということも、多くのうまく行く方法の一つに過ぎない。そして、うまく行ったかどうかを他人の判断にゆだねず、自ら判定すれば、それで済むことだ。殆どの人生不全症は、判断を権威や親や友人や、他人(両親も)にゆだねるから不全になる。
我、生を了解した。
ところで。
「島図書館」の海は海らしくなるかな? 樹脂を流すか、クリアボンド数本で工作するか、どちらがよいか悩ましい(笑)。
結論。両手法を、海ごとに試せば良かろう。
それだけのことだ。
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