小説木幡記:2008/11/01(土)父親たちの星条旗(映画)
不安神経症におののく週末
土曜日、週末は心身疲れがでて、早朝からぼんやりしていた。昼食は木幡漫画博士に寿司を買ってきてもらい、9つを余が食し、3つを彼に譲った。余の木幡研は、年中虎馬状態なので、貧苦が身にしみておる。宝くじなんぞあたったら、身を滅ぼす予感もするので、当たらぬ事を幸いとしておる。
友達も気付いておるが、余は終生軽鬱なのだ。それが疲労と重なると足が痛くなり、若年より杖突状態であった。その軽鬱の中身となると、むつかしいが、一つは貧苦、一つは未来予知、一つは脆弱蒲柳の質故となろうか。
要するに、貧乏生活で未来の餓死とはいわぬが、RSも維持できなくなり、PCの通信回線も止められ、電気水道とまではいわぬが、なにかしら爪に火をともす生活の到来、そういう予感におののいておる。
一種の神経症。不安神経症が余を追い詰め、軽鬱が深くなる。となると、人に会うのが億劫になり、町にもでない。今日は終日木幡研で黙想しておった。
いやはや、嘘もあってな、午後は実は映画を見ておった。
父親たちの星条旗
噂で、クリント・イーストウッドはハリウッドというか、米国映画の良心と言われている人らしい。彼の出演作は若年時によく見た。ダーティー・ハリーとか、マカロニ・ウェスタンでは棺桶を引きずりながら歩くガンマン(笑)だったなぁ(荒野の棺桶)。もちろん棺桶には機関銃が入れてあった。ゾンビー映画ではないぞ。
いつから監督を始めたかは、以前に木幡研の映画博士から半日講義を受けたが、忘れた。ともかく根性の座った才能のあるアメリカ人のようだ。
彼が監督した『父親たちの星条旗』の内容とかスタッフとかの情報はgoo映画によい記事があったのでリンクしておく。
父親たちの星条旗 - goo 映画
回想方式
回想方式タイプの作り方は好きだ。現在から過去を眺め、そして現在にもどる。「男たちの大和(MuBlog)」もそうだった。「プライベート・ライアン」も。そうそう、「スタンド・バイ・ミー」もそうだった。スタンドバイミーでは、スティーブン・キングらしい作家(映画ではゴーディ)が、書斎でIBM-PCを使って、幼馴染みが酔っぱらいの喧嘩の仲裁に入って刺殺されたのを、入力していた。そのキーの音が未だに忘れられない。カチャカチャカチャ、と~。
スタンド・バイ・ミー(1986) - goo 映画
回想を単純に郷愁だけとは思っていない。
今はないものは、未来も過去も同じなのだから。
ただ、余の資質から説明すると、余は幼少期から現在にいたるまで、昼の覚醒中の様々な外界情報が脳を刺激しすぎるようで、それが急速な睡眠に入ってもなかなか中和しない。早い話が、若い頃はよくよく夜中にがばっと起きて寝汗をかいてわけの分からない不安におののくことがよくあった。
そのことが回想と結びつくのか? それは分からない。回想は過去の脳の刺激が緩和されないまま、サスペンド状態、保留されたまま記憶として残っている。それが一挙に吹き出す様態をさすのだと思うが。物語と現実との境界が曖昧になってくると、その回想の迫真さは、日々あきないものである(笑)。だから酒を必要としなくても、酔っぱらった日々なんじゃろう。
帰還兵
回想と結びつくのは「帰還兵」物に多い。これはSFにもあって、余は愛惜してきた。
アメリカの話として、以前はベトナム帰還兵、最近はイラク戦争帰還兵の精神病理学的知見が話題になることが多い。兵士達の相当数が帰国・除隊しても、まともな生活をできなくなるようだ。
分かりやすい事例では、アルコール中毒、麻薬中毒、精神異常、犯罪となってあらわれる。つまり、戦場の恐怖から脱して日常に戻るのは、難しいわけだ。
「父親達の星条旗」では、戦場体験をした兵士達の、戦争終了後のその後の人生について洞察があった。
三人の男達は硫黄島の旗立て「英雄興業」に全米を行脚させられるという、通常帰還兵のさらに数倍のストレスに晒された者達だった。国債を米国民に買わせ戦費を補うことに狂奔した米国政府のサーカス芸だった。戦意昂揚の古来からある手法だが、この映画では、なんのてらいも現代反戦思想もなく、当たり前のこととして現実の裏と表を描いていた。
船団が硫黄島に向かうとき、だれかが船から落ちた。兵士達は、後続の船が停まって助けるだろうと、皆で落ちた兵士をはやし立てていたが、不意に「船団を止めるわけにはいかないから、あのままだ」という古参の声がした。そこで、兵士・海兵隊員達は愕然とする。映画では、そこが戦場の入り口だった。
実際の戦場は割り切れるものではない。敵も味方もない。善悪もない。
映画を見ている間に、ただ、戦友達を死なせたくないという思いだけがこみあげてきた。
現代の戦争は調査不足で分からぬが、第二次大戦のころは、兵士に昔風の盾も鎧もなかった。つまり、わかりやすくいうと、ロボット的な装甲兵装がなかった。だから小さな弾が一発当たると手足や首が飛び散って、ただの肉塊になる。考えてみればものすごい人間消耗品扱いが、戦場の真実なのだろう。失血死とか、刺された程度の穏やかな死はまれで、大抵はばらばら死体になり、原型をとどめない。それが毎日毎日眼前で繰り広げられる。まともな神経を保つのは至難だろうし、帰還してもその記憶は絶対に脳裏から離れない。
かくして帰還兵の多くは、肉体の損傷が見えなくとも、心はずたずたに引き裂かれている事例が多い。主人公の衛生兵「ドク」は、葬儀社の社長として成功をおさめたが、息子にすら「硫黄島の星条旗」について、語ることはなかった。心に重い蓋をしたまま、戦後の人生を歩いた典型だった。
フラッシュバックの集積
映画手法としてのフラッシュバックは、その文字の通り、閃光や爆音がしただけで、一瞬にして過去体験の時空間へ心を運んでしまう。兵士・ドクは、終生「衛生兵!」と、自分を呼ぶ声が耳の中に残り、幻聴から逃れられない。この映画は、フラッシュバックの集積だった。
クリント・イーストウッドは、この映画で、フラッシュバックを多用したが、そのありふれた手法が、実は人間の過去・現在・未来をとらえる最も有効な手法と知った上でのことだと想像した。戦場と現在は常に直結している。戦場の苦しみと現在とが貫通している。人は動物として、時間軸の中でのろのろと生から死に向かっていくが、人は人として、時間の動かない体験をかかえたままに生涯を過ごすものなのだろう。
よい作品だと思った。
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