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2008年10月24日 (金)

小説木幡記:2008/10/24(金)君は小林秀雄を知っているか

 今日、葛野で密かに「本居宣長 補記/小林秀雄」を読み切ろうと思って、いさんで登校したが駄目だった。あと小一時間あれば読了できたのに。
 週末の疲れもあったが、本を手にするたびに、授業の準備を思い出したり、Nゲージ図書館列車が変な脱線をしたり、急に寒くなったり、あれこれと邪魔が入ったりで、来週に回すことにした。薄い本だから、木幡に持ち帰ればよいものを、木幡には木幡研の事情があって、そこには「本居宣長(本編)」が昨夜から眼前に立っている。そこで今、本編の(一)を読んだところだ。十分間の短時間読書だが、昔のことが脳全体にぱっと花咲いた。

 松坂の本居宣長記念館には昔行ったことがあって、その頃は本居春庭の使っていた単語帳(春庭さんは宣長の長男で、全盲だったが、著名な国語文法学者だった)に目を丸くした記憶だけが残っていたし、なぜ鈴屋大人(すずのや・うし)と、鈴が好きだったのか、すきなものはしょうがないと、ひとりで納得していた、余であった。

 余ならN屋とでも自称するのか。気恥ずかしくてN屋大人(うし)とは言えぬ。大人とは人様によばれるものよ。(注:N屋とはNゲージ鉄道図書館列車で頭も部屋も一杯になっている状態をさす)

 さて、肝心の小林秀雄。今は書くこともないが、ふと気になって。
 余の年代の者達なら、少しでも日本文学に興味を持ったひとならば、小林秀雄と言っても「ええ、知っていますよ」と自然な会話が成り立つが、どうなんだろう。一体、いつ頃までの人が、小林秀雄という名前を身近に知っているのだろうか。今どきそんな名前をつぶやいても、「ひとりごと」にしかならないでのう。

 そんなことが気になった。もっと若い人なら、吉本隆明という名前の方が身近なんだろうか。いや、この御仁もすでに古典。
 思想家はある時代にぱっと花開き、多くの人を魅了するが、余の場合、小林秀雄とか吉本隆明とか松本健一とかいう名前は、余の青春の「絵」だった気がするなぁ。

 で、昨日疲れ切って横臥している中、不意に小林秀雄を、手で無意識に探って読んでみたら、ものすごく脳というか心、そして身体全体がきりっとした。
 しめしめ、これなら吉本隆明や、松本健一を読んだら、さらに快適になるかな、と思ったが、そのまま眠ってしまった。

 もう一度言うが、余のように、ひさしぶりに小林秀雄を読んで、カンフル(注:つまり、強心剤のようなもので、へなへなほけほけとした状態を、瞬時に立ち直らせる強烈な薬のような効能をもつものの、総称)注射を打たれたようになる、そういう年齢層はどこまでなのか、それが疑問として強くわきあがってきた。

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