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2008年10月18日 (土)

小説木幡記:2008/10/18(土)死と詩と文学

 分かりやすい文章や言葉、そして明晰な表現は、扇情的な流行にのった風潮の中では、より高い位置に置かれている。人の行動、言動も公の中では、理がととのってかつ受け入れやすいものが評価をうけて、信頼感を生み出している。
 そして人と人との間柄も、流行や「ノリ」を半分まぜて、それでも理解しやすい、そして結論の出やすい関係が長続きするものだ。

 他方、分かりにくいこと、難解なこと、理不尽なことは大抵の人が目や耳や身をそむける。なにかを理解するには、体を動かして歩いたり走ったりすること以上に脳を働かせないと、受け入れる前に、じゃまくさくなる。未知の外国語を前にして、分からないと途方にくれて、その場を退出するに似ている。

 ことは「脳」の出来不出来、「脳」の訓練具合によるとは限らない。人の知識や情念の体系は体型とおなじくどこかで固まってしまい、それとは異種の体系には関与する余力がなくなるものだ。

 私は以前から、文学とは死を鎮めるためのもの、と思ってきた。
 これは効果があって、死は確かに文学によって癒される。もちろん「死」とは言っても、文章中に「死」や「自殺」や「死への恐怖」を語ったものが文学とは少しも思っていない。文学が死を鎮めるとは、死が分かりにくく難解な事象であることに起因する。そして、優れた文学は「死」に匹敵するくらいに難しく、難解で、分かりにくい相を往々にして見せるものである。

 何故、人は生まれ生きそして死するのか。
 与えられた生と人生と、与えられた死を楽々とこなす人は少ないはずだ。苦がいつも伴う。おそらく、人生の九割は「苦」に満ちている。そして残りの一割が、脳内麻薬によって苦を緩和され、きらきらしい瞬間を味わい、次の苦に備えることができるようだ。この「苦」には倦怠も含まれる。

 優れた文学には、この苦に満ちた人生を見通すだけの展開がある。もちろん、苦じゃ苦じゃとわめき立てる文学が、優れた文学とは思っていない。苦も楽も一言もなくても、苦にみちた人生を透観している文学が、確実にある。そしてそれに触れたとき、「死」に対峙するだけの見通しと、勇気がうまれ、さらに人の死も、我が身の予測される死も、そっと鎮めてくれる力がにじみ出てくる。

 文学とは、そう言うものだと思っている。そして、軽佻浮薄、流行の中に、虚実皮膜の透明な一皮が極上の癒やしをもたらす好機を、つかみ取るだけの力をやしなうのが、優れた読書・文学教育であり、そして人生教育だと考えている。

 文学の形態の中でも、詩は古来、もっとも難解であるにもかかわらず軽やかに、文学の本質を重く抱え込んでいる。だから、詩を味わうことは、生きる上で人とけだものとの違い、人の脳とアメーバーとの違いを知るに大切である。それを知ったなら、人として生きる多重苦を背負えるだけの勇気がでてくる。

  おなじ世にまたすみのえの月や見む今日こそよそに隠岐の島守/後鳥羽院御製
  剣刀(つるぎたち)いよよとぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ/大伴家持卿

 日本古来の歌は、難しいところもあるが、母語に直結しているせいか、意味がぼんやりしていても、それを歌うことが生の苦に立ち向かう力をうみだしてくれる。だから、詩は文学は、死を鎮めてくれる。

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