NHK篤姫(36)寺田屋事件
今夜のNHK篤姫は、島津の実家が兵を率いて上京し、さらに久光が勅使を護衛して江戸幕府へ迫るという内容なので、テーマは江戸と薩摩の板挟みで苦しむ「篤姫」の心とすればよいのですが。
しかし、それは今夜見終わってからの感想、鑑賞文にまとめるとして、事前の予習を巻末に添えておきます。伏見寺田屋事件のことです。いま、京都では「寺田屋焼失問題」が、ちょっとした話題になっているのです。
今夜のこと
今夜22時頃に書きます。
↓
篤姫の圧力
見終わって、ふぅ~とため息をつきました。
宮崎篤姫さんは演技に圧力がありますね。想い出の品々を火にいれて、家茂のわびを聞いたとき、「私は徳川の人間です」と言ったとき、グゥ~と押さえつけられました。
今夜はTVブラウン管(まだ液晶じゃないのです(笑))が張り裂けんばかりの、篤姫の圧力を味わいました。
火に名品を投じる篤姫をみて、家茂、天寿院さま、和宮さま、御所方達、お付きの重野、滝山さん~、それぞれが胸にこたえた表情を見せていました。特に、和宮さまは、家茂さんに、「薩摩のことは、天璋院さんに聞けばよくわかるでしょう」と言いはなったあとなので、複雑だったことでしょう。
天璋院さんが、過去を火にくべるのをみて、女、というよりも人間の覚悟を間近に感じ取ったのだと思います。和宮さんも、降嫁というのですから、実質的な皇籍離脱を意味していますね。「内親王」という品(ひん)は、本人だけのものであり、今は御所方お付きに取り囲まれていますが、徳川に組み込まれない限り、住む家は三界にはないのです。だから、実は篤姫大御台所の覚悟は、和宮さんの覚悟にも通じていくのです。
家茂(いえもち)さんの気持ですが、これもよく分かります。
家茂さんも紀州の殿様から一人で江戸城に入って、井伊大老の激しい政治にどきどきし、10歳ほど年上の聡明な篤姫が、後見役として相談に乗ってくれたのですから、「母上さま」は少し白々しいですが、「姉上様」と考えると、その姉上を泣かせてしまったのですから、辛いところだったでしょう。
ところで。
よく考えてみると、篤姫は大御台所ではあっても、この頃は以前の島津斉彬や、阿部老中のような幕閣の支援がなく、そばの重野、老練の滝山以外には、強力な後ろ盾が無かったわけです。たよりになるのは、年若い家茂将軍だけだったのですから、その家茂から自分に向けた不信感をちらりとでも感じ取った篤姫は、いわゆる「ご乱心」じみた決意を自分に言い聞かせて、乗り切るしか無かったのでしょう。
寺田屋事件
詳細は午前中に記した予習にまかせて、今夜の上意討ちについての感想です。
まず、西郷さんはまたしても島流しになりますね。久光と下関で会合する約束を破って、大阪へ行ったわけです。何故行ったのかは、突出組を宥めに行ったのかどうかは別途調べないとよく分かりません。
ただ、小松さんや大久保さんを前にして、「私は、結局久光さんとは仕事を一緒にできないようだ」と、もらします。斉彬の死がまだ尾を引いているわけです。このあたりの鬱さかげんは、なんとなく足利尊氏を思い出します。そして西郷さんの場合は、「すでに死んだ男」と、自分自身を見ている様子でした。
このことで、寺田屋事件には西郷さんが関与しなかったことになります。
さらに刺客を放つとき、久光は小松と大久保に「残れ」と、言います。
久光の気持ちを想像して見ていました。
彼は、小松帯刀の愚直なまでの忠義と、大久保の冷徹な性格を、彼自身がコントロールしたかったのではないでしょうか。だから西郷が間に入ることを嫌ったのでしょう。そして、上意討ちになるような修羅場に、小松や大久保を出したくなかったのだと思います。武力温存の心でしょうか。
と言うわけで、見終わって、やはり心地好い疲れがありました。
世間の大奥もの、家庭ドラマ、とはひと味違っていますね。
附録:予習・寺田屋事件と寺田屋のこと
「寺田屋事件」のことは幕末史として、多数の記事がネットにあり、そして教科書、百科事典と情報は豊富です。小説では司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』(文庫で八冊ありますが、あっというまに読めます)にもありますし、数年前のNHK新選組!!や、再来年平成22(2010)年のNHK龍馬伝でも、エピソードとして描かれると思います。
事件の概要は、1862年4月の深夜、薩摩藩過激派・有馬新七(先回、小松帯刀や大久保さんの制止を振り切って誠忠組からも飛び出した人ですね)らが、島津久光の放った刺客達によって、「寺田屋」で惨殺された事件です。
突出した過激派が粛清されたと思ってよいでしょう。後に朝廷の一部公卿からは久光が感謝されているので、複雑な内情もあると思います。
今夏、例の「葛野図書倶楽部2001」の隊員が、「戊申(ぼしん)戦争」をテーマにして、仲間達と伏見界隈を調査したようです。「寺田屋事件」などは戊辰戦争前史として、詳細な報告を年末に出してくれる予定です。その者らに聞けばもっと「寺田屋事件」も詳しく分かると思いますが、ここでは「幕末に、伏見寺田屋で事件があって、薩摩藩の過激派が、島津久光の命令で粛清(しゅくせい)された」にとどめておきましょう。
今日の予習は、その「寺田屋(MuBlog)」が、当時幕末1862年頃の家屋ではなくて、鳥羽伏見の戦いで焼失した後、明治の遅くに西隣の土地に作られたものである、という話です。ですから、現在旅館や観光資料室をかねている「寺田屋」は幕末の物ではなく、寺田屋事件も竜馬襲撃も「現在の寺田屋」で起きたわけではない、となります。
以前からこの話はくすぶっていたし、なにかしら京都市の態度も煮え切らなかったのですが、最近確かに京都市の観光案内サイトから「寺田屋」が消されているのです。
Googleを使って「寺田屋」で検索された「京都市観光文化情報システム」に、消される前のキャッシュ情報がありました。
私は寺田屋には何度か行きまして、嘘っぽく思ったのは「刀傷」「風呂場風呂桶」や「竜馬居室」でした(笑)。本当かなと思ったのは、薩摩藩過激派が刺客に討たれた一階の居間でした。こういう話は、長く生きていると時々経験するので、ショックはないのですが、以前倶楽部の大勢と行ったときに、それらしく騙った記憶があって、「笑ってすませるか」「いやいや、そんな話は覚えておるまい」とするか、迷うところです。
寺田屋東隣の空き地に立った石碑の写真が京都大学図書館サイトにあります。明治27年5月に建てられたようで、その中の前から12行目に「寺田屋遺址」とあるわけです。これが焼失の根拠の一つになっているようです。
歴史の真実と事実。
事実としては、おそらく寺田屋は一旦消えたのだと思います。明治27年の石碑に「寺田屋遺址」と書いてあるのは、私の考えでは重い事実です。明治時代の最高位「参謀総長兼神宮祭主(Mu注:神宮とは伊勢の皇大神宮、つまり伊勢神宮のことでしょう)陸軍大将大勲位(Mu追加:有栖川宮)熾仁親王」が関与したものですから、事実誤認は少ないと思います。もちろん、このタルヒト親王は和宮の元許嫁だった方です。
風説では、熾仁親王殿下におかせられましては、和宮さんと別れてからは、たびたび伏見に出向き船宿で若いお女中と昵懇になったようです。その間に生まれた子どもが~お女中の実家亀岡で育てられ~と、いろいろ興味深い話はインターネットにありますが、検証する力がないのでほのめかしで、とめおきます。
現在の寺田屋へ行くと、分かりやすいパンフレットが入手でき、そこに当時の復元家屋図版があります。私が思うに、刀傷とか竜馬居室という断定を取り下げて、「鴨居が低いので、刀傷がこんな風に残るでしょう」とか「竜馬さんは船宿寺田屋のこんな風な二階から、伏見港を眺めていたのでしょう」と、復元モデルとすれば、問題は全くなくなると思います。
(焼失といっても、全焼か半焼かで、部材が使われた可能性があるのかどうか?)
なにしろ歴史というのは、国宝金印がニセモノと取りざたされたり、箸墓の被葬者が卑弥呼かどうかで命がけの論争()があったり、法隆寺が再建かどうかで問題があったり、聖徳太子は居なかったという説もあるくらいですから、古いことはよくわからないものですね(爆)。
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