卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認
箸墓古墳の周濠(堀というよりも、回りに巨大池があるような)
古墳域全長が450mにもなる巨大な周濠
27日水曜日、夕刊を見ると、箸墓古墳のニュースがあった。古墳の回りを幅60m以上の周濠(堀)が取り囲んでいた形跡が見つかった。この周濠まで含めると古墳域の全長450mほどになり、ものすごく大きな古墳になる。もちろん前方後円墳単体としても、3世紀の初期古墳としては280mもあって、巨大さは以前から有名だった。
だから、卑弥呼の墓と噂されてきた。
とる物もとりあえず、想像図を作ってみた。だいたいこんな風だったのだろう。
ところで。
産経新聞の記事の最後で、おや?と思った。「発掘現場はすでに埋め戻され、現地説明会はない。」ふむふむ。ここで、私はいろいろ別のことを想像しだした(笑)。大体、大きな発掘があると、大抵は一週間後くらいに現地説明会があって、数百人の人が押し寄せるものだが~。
(もしかしたら、ついでに親魏倭王の金印が発見されて、大騒ぎになるのを怖れて、埋めたのかしら)
研究者の箸墓被葬者推定
産経新聞では3名の専門家の意見がまとめてあった。一応、卑弥呼の死を248年と仮定しての上だ。
以下は、私が意訳した内容。
◎白石太一郎(奈良大教授)
箸墓造営には10年くらいかかるから、古墳の築造を260年頃と見ても、卑弥呼の墓だろう。
◎寺澤薫(橿原考古学研究所)
卑弥呼の後の、トヨ、かその後の男王。卑弥呼の時代はクナ国との対決があり、不安定だったから、これほどの大規模古墳を作ることが出来ないだろう。
◎石野博信(兵庫県立考古博物館長)
被葬者はトヨ。
上記三氏の内、寺澤氏のことはMuBlogに触れたことがあった(最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳)。いずれにしても、お三方とも纒向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国比定地としてとらえておられるので、後日、じっくりその御説を学び、MuBlogにまとめるつもりである。
Muの今回周濠確認の感想
現在の箸墓古墳(当地の石碑には、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓)は、皇室の「墓」として待遇されている。ヤマトトトビモモソ姫は、崇神天皇(10)の姑(みおば)として相談相手になる巫女だが、系図上では孝霊天皇(7)の娘になるので、年令は離れていたことだろう(昔のことはよく分からない)。
崇神天皇を中心にして話したのは、この巫女姫(三輪山の大物主神の妻)が崇神紀にあるからだ。そして「墓」となっているので、天皇陵ではない。
現地の風景や空気を味わって、この箸墓古墳を眺めてみると、「天皇陵に比定されなかったのに、なんと大きく、そして威令高き姿よ」と、思わず感動してしまう。
そして。
諸説はあるのだが、三世紀中頃の、初期前方後円墳として最大級の大首長墓と考えられている。そこから、当時の邪馬台国女王卑弥呼(3世紀中頃死亡か?)が浮かんでくる。
景観を私は大切に考えている。箸墓の位置は、三輪山を背景にして、いわゆる神話のど真ん中にある。大物主神の三輪山がキーになっている。これほどの巨大前方後円墳を、三輪山の西麓につくってもらえるのは、余程の方だろう。第一人者の古墳と考えられる。
一等地に眠る方は、邪馬台国を呪術でまとめ上げた卑弥呼以外にはなく、東西全長450mにもおよぶ大規模結界で、静謐を保ったのだろう。
この話は、まだまだ語り終えない。シリーズ「卑弥呼の墓」に続く。
箸墓古墳地図
大きな地図で見る
参考 (インターネット上の新聞記事は、各社後日有料になるでしょう)
MSN産経 浮かぶ権力者の威光、被葬者論争にも一石 箸墓古墳周濠初確認
asahi.com 女王・卑弥呼眠る墓?の周りに幅60M超の濠 箸墓古墳
毎日jp 箸墓古墳:天皇陵に規模匹敵「卑弥呼の墓」強まる? 周濠、推定より40メートル広く
箸墓の想像図については以下を参考にした。
近畿の古墳と古代史/白石太一郎.学生社、2007.5 p131の図38
まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介.H&I、1999.3 p166の資料27
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コメント
これで決まりですかね
古代の歴史にはうとく、箸墓古墳がどこにあるのか知りませんでした。
この記事で地図が示されていてビックリしました。
長谷寺へ行くのに何度も乗った桜井線の傍じゃありませんか。
桜井というのは当方のおふくろの里である愛媛県今治市の桜井と同じ地名なので親しみを感じているのです。
JRの駅名は(伊予桜井)といいます。
そういう歴史音痴ですがグーグルでチラチラ見ると、この数年の発見や議論でどうも卑弥呼のお墓であることが固まってきたようですね。
しかも今度の発見で規模がとてつもなくデカイとなると・・・。
しかしなんですなあ。
百襲姫といい、お墓の名前の由来といい、幻の古代王朝の時代はおどろおどろしい時代だったようですねえ。
投稿: ふうてん | 2008年8月28日 (木) 14時20分
ふうてんさん、こんにちわぁ
先般、ハーレーダビッドソンに跨っている写真を眺めて、息災であると安心しました。
ハモの季節は過ぎゆく最中ですが、松茸土瓶蒸しの季節が近づいていますね。と、まず大切な事を先に書きました。
私は、ずっと、地名がでたらまず地図をみることにしています。PCとか、ネットの成熟成果は、地図ですね。ごく最近、Googleの地図が「ストリートビュー」という奇想天外なサービスを始めております。御覧になりましたか?
24日の日曜日に友人に教えてもらって触りだしたのですが、魔法ですね。青い表示の道路から、360度全景を見ながら前進後進回転しながら回りを見渡して、歩ける(実際は自動車からの目線のようです)のですから、Googleは発狂しそうな会社だと、痛感しました。国立近辺なんて、青で埋まっていますねぇ。
残念ながら、箸墓あたりはまだサービスがいき届いておりません。
箸墓の被葬者が卑弥呼だという話は、それを書いただけで刺客を放たれるほど恐ろしいことなので、私はまだ「確定した」とは書いておりません。業界や邪馬台国アンダーグランドでは、命がけの話になります。
仮に著名な研究者が、邪馬台国関連図書を40年間に40冊書いて、「これ以外にはない」と30冊目くらいから書き始めて、別の結論がでたら、なかなかに苦しいものです。
というわけで、ふうてんさん、「これで決まりですね」というセリフには、「かもしれない」と、修飾したほうがよいです(笑)。
ともあれ、再見の折には、邪馬台国跡地とか卑弥呼館跡と、大市墓に替わってGoogleに載るのを、楽しみにしておきましょう。
投稿: Mu→ふうてん | 2008年8月28日 (木) 15時18分
Muの旦那はん お元気そうですね
先日、三輪山セミナー第5回 イン東京に参加しました。第一回から皆勤です。(笑)
セミナーの印象は記事にしましたが、箸墓古墳とヤマトトトヒモモソヒメの関係はこれからの発掘成果に期待したいですね。
水野さんは卑弥呼の宮殿を大倭神社の付近に想定されているが、三輪山との関係とか箸墓古墳の位置関係を考えると、まだ、疑問が残りますね。
奈良盆地がまだ、満々と水を蓄えていた時代の弥生時代、三輪山はまさに聖なる山だっつたのでしょうね。
誰が、奈良盆地の水を抜いたのか?これが、個人的には興味が湧いています。土木技術を持った人というか集団が入植したのでしょうね。
考えてみると、京都盆地も秦氏、鴨氏が排水工事をして人が住める盆地にした経過を考えると、奈良盆地を開拓したのは誰か?
出雲の土師氏が有力ではないでしょうかね。
投稿: jo | 2008年8月29日 (金) 19時26分
Joさん、こんばんわ。
箸墓のことは、新聞では、ぱたりと情報が途絶えました。
以前からなにか、纒向あたりの発掘は、いろいろ考えるところがあるのです。
Joさん、一度関係者に探りを入れてくれませんか? 金印がすでに出ているのかもしれませんで(笑)。
ところで。
誰が倭の水抜きをしたのか?
出雲の土師氏ですか?
巻向の東、近所に鍵・唐子遺跡がありますね。あそこは弥生時代そのものですね。一体、奈良盆地のいつ頃まで、どこらあたりまでが湖だったのでしょうか。
一説には箸墓あたりは丁度岸辺だったようですが。
で、いま基本的な疑問にぶつかったのです。幅60mもの馬蹄形の周濠には、水をどうやって供給していたのでしょうか。巻向川、穴師を流れる川の水でしょうか。いろいろ、昔のことは、分からないことが多いですね。
投稿: Mu→Jo | 2008年8月29日 (金) 22時01分