小説木幡記:2008/07/08(火)文学研究と図書館列車研究
朝からお勤め
早朝から『日本の美術史』テキストを綿密に検査している。荒い言葉の集合をいちいち確認し、変則的な用語、意味の分からない用語や読みをチェックする作業である。
テキスト読解に3割、テキスト調整に3割、論立・論述に3割、残り一割を持論の検証、つまり日をおいての読み返しに使っている。その一割を開始するには論述し終わってから、最低1週間~10日間を間にはさまないとうまくいかない。
上記の流れの中で、今はテキスト調整となる。昨年はこの感覚を見誤って、8月上旬にテキスト調整にはいり、論述は9月に入ってからだった。首尾は、よくなかった。テキストが内包していた意外な伏兵に出くわしたからである。破綻したと、言える。悔悟。
今夏は、それを早めた。すでに読解は終わった。
今朝は、テキスト調整にはいって数日経過した。順調である。ふむふむ。
鉄道図書館:未来の図書館
これはある意味で停滞、ある意味で充電中、ある意味で待機している。
停滞:鉄道図書館の本館を造りあぐねている
図書館列車の原型はアクリル板などを使い、すでにMuBlog で発表した。しかし詳細はNゲージの佳さか悪さか、あまりに小さくて、年季の入った職人技を要求される。たとえば列車の書庫をNゲージで表現するのは今の余には無理がある。せいぜいプラスチック板に色を塗って立てかける程度に終わっている。これは、Gゲージモデル程度の大きさでしか、細部や細工は造ることができない(と、内心断定)だろう。
それにもまして、たとえば「嵯峨野鉄道図書館本館」だが、これはKATOという会社の警察署モデルを使っているが、ある日内部を開けてみて、驚いた。一階と二階、それぞれ丁寧に部屋割りがあって、階段やテーブルのような原型が揃っている。
これをきっちり図書館風に改造しないと、鉄道図書館モデルとしては、手抜きが甚だしい。しかるに、何度眺めても妙案が浮かばない。図書館のイメージはくっきりとあるのだが、鉄道図書館として自立した構造物にするアイデアがなかなか浮かばない。
さらに、たとえ浮かんだとしても、今の技量ではそれを作り上げることができない。
停滞、甚だしい。
充電:よい図書はあるものだ
先般、図書館の司書から一冊の図書を紹介され、かり出した。デザイナーが描いた九州の方の鉄道および、列車の内部イメージと、そのウンチク、あるいは文明論であり、まことに上質な図書だった。
それを時々眺めている。
鉄道列車という狭い、制限の多い空間を、これほどまでに、工夫しデザインし、実用に供しているというそのすばらしさに感激しているわけだ。
また、ぶらりと入った書店で、小型ジオラマ(レイアウト)の製作工程がのったムックを手にした。
たとえば、日本の古い夏を再現した小型ジオラマを観ていて、余は知らず涙ぐんだ。その感動を今、文章に表すほど筆力もないし、心の余裕もないのだが、ともかく「古い日本を走る鉄道模型」というテーマは、郷愁だけでなく、「美」を観ることさえ出来る。
そこに、一つの忘れられた美しい世界を、再現する。
これは、芸術なのだろう。
事例がすべて小型、つまり30センチX60センチ程度、あるいはB4判、場合によってはA4判の大きさなので、余もさっそく散らかった葛野研の机上に小さな発泡スチロールを敷いて、レールを組み立てた。
それ以上は、今は手を出せない。ただそこに古ぼけた村の公民館、その一角にある図書室、小学校、そして古いレールバス図書館が走るのを、想像するだけに止めている。
待機:夏のジオラマ
八月の上旬に大学オープンキャンパスがある。そこに余も「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」を出展する。図書館列車よりも、鉄道模型に目が行って、それが17~18歳のJKの好むものかどうかは心許ないが、身近にいるJD達は、「結構、おもしろがるかもね」と言ってくれてはいるが、能?
実は細部の点検調整がまだまだある。鉄橋の色塗りや、はげた粘土を補修したり、本館をそれらしく図書館風にすることなど~
しかも、小型と言っても、60センチX90センチのジオラマを、屯所の机上に常時置くことが、丁度今の季節は無理がある。倶楽部で、あらゆる懸案事項の会議があり、演習末期の受講生が毎日屯所にくる。
しばらく、まとう。待機するしかない。
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