小説木幡記:2008/07/05(土)環境、心境、ともに変化無し
天気晴朗なれど気温高し
ここで上記の「なれど」は誤用である。せいぜい、天気晴朗ナレドモ、気温低シ、なら意味がすっと通る。もともとは、天気晴朗ナレドモ、波高シ、という海軍の通信内容だったと覚えている。もっと正確にいうと、テンキセイロウナレドモナミタカシ、のような雰囲気だったろう。電文だから。いやいや、それは通信兵がカタカナ変換・翻訳しただけで、トンツー、ツツトンツーというモールス信号のようなものだったのか?
この通信文は平成に生きる余の頭にも残っている。司馬遼太郎さんが明治時代を描く前から、記憶にあった。つまり、日本の一部では有名な「言葉つかい」なのだろう。司馬さんの「坂の上の雲」では、これを受け取った海軍の上層部の中には「軍事に美文は不要」と貶したらしい。送信者の海軍将校は若く才人だったから、おもわず筆をとったのだろう。そして、後世に残ってしまった。
曹達村の村長
ところで。ソーダー水を飲みながら思ったのだが、「ソーダー村の村長さんが、ソーダー飲んで死んだそーだ、葬式饅頭うまかった」と、口をついて出た。京都の嵯峨小学校だけの俗謡と思っていたら違った。広島県でも謡われていたと知って、驚いた。
これはどういう経緯で生まれ、普及し、そして少なくとも関西以西で謡われたのだろうか。東北の人にも聞いてみよう。ただ、年齢層はもうすこし合わさないと、現代の青年達だと、たとえ嵯峨小学校出身の大学生でも、知らないと思う。
京都の夏は暑いですねぇ
話をもとにもどすと、ここ数日の京都は温かいというよりも、暑いらしい。らしいというのは、余は寒暖を楽しむほうなので、苦にはならない質なので、ただ世間にあわせて「暑いですねぇ」というだけだ。内心はにこにこしている。しかし物理的に高温は事実なのだから、新しい夏用の帽子を買った。これも気に入ったので、夏がうれしい。夏も冬も、帽子を付けていると脳付近の温度差が最大10度ほどになるらしい。つまり冬は脳を保温し、夏は脳を冷却するのが、帽子の効用なのだろう。似合う似合わないのは二の次話である。
余は生を受けて以来、就職するまでは、いわゆるエアコンの経験がなかった。高校にも大学にも自宅にも現代風の冷暖房がなかった。だから、蒲柳の質ながら、夏も冬も、寒暖が気にならないのだろう。
嫌いな物?
一般に、余は外から来る「物」を拒まない。出された食事、手にした自動車、手にした本やDVD、着るもの、環境、なんでもすっと受け入れる所がある。これはこれまでの「生」で幸いするところが多かった。だから、あれが嫌い、これが好きという人士をみていると、それが青年であっても、「あいつ、あほやなぁ」と、思ってしまう。理由は、経験則から、人生に好き嫌いを激しく表明する人士に限って、その環境の本質面で、不遇が多いから。あれだけ好き嫌いをいうのだから、逆に周りに押しつけるのだから、一体どんな快適な環境や心境の中でいきているのかなぁ、と観察すると。おお、ご本人の理屈による「嫌い」なもので、その人生が埋まっておるではないかぁ。これは大いなる皮肉であるぞ。なぜアホかというと、その嫌いな物を「好ましい」と、思えば人生が晴れやかに一変するからだ。それに気がつかないのじゃろうか、脳。
まとめ、その1
このままおわると、余は嘘をついてはいないが、情報操作をしたことになる。
余に「嫌いな物」が存在しないという環境、心境だが、その実態は、この世に「余の好ましくない物は、初めから存在しない」。もっと分かりやすくいうと、嫌いなものは、脳内から追放されるから、存在しようがない、となる。実に、脳というものは、重宝な物よのう。
で、来週は夏期前の最後の会議週になる。おお、会議とはなんと甘美なものよのう。
まとめ、その2
本論は(笑)、当初、「腕時計の電池替えが、1400円で簡便に済んだ話」だったのだが、例によって話がねじまがって、別の論考になった。よくあることじゃ。
京都ファミリーという施設が近所にあって、そこをうろうろして、おろしトンカツを食べながら店員さんに聞いて、やっと二階の時計屋にたどり着き、丁寧な応対のもと、すっきりした。
考えてみると、余はこの五年か六年間、最初(2003年)に入っていた電池のママ過ごしてきたようだ。もし記憶違いがないなら、驚異的、奇跡的長寿命電池じゃないか、「SEIKO」の腕時計君!
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コメント
Joさんからのフランス便りです。
「昨日はシャルトルのノートルダム寺院に行き、ベルサイユ宮殿にも行きました。ココログには何故かアップ出来ないので、ほかもさんのブログに書き込みます。
Muさんも、私も、ふうてんさんのブログにみ書き込めない。
今日はモネの家に行きました。素晴らしいね。」
着いた日は、小雨が降って寒かったようですが、お元気そうです。
P.S.
腕時計の電池交換が1400円。ちと、高めですね。いい腕時計だからでしょう?
奈良の田舎では、普通は1000円、セール中だと630円ですね。ホホ・・。
投稿: ほかも | 2008年7月 5日 (土) 11時00分
いま、そちらのblogを確認し、Jo翁のコメントを読みました。
わざわざありがとうございました。
電池交換代1400円が安いとはまったく思っていません。あらゆるこの世のマシン系に対する性能、機能、価格、入手条件など、日々神経質に考えています。
しかし、だからこそ、時計店の人に丁寧に対応してもらって、久しぶりの美味しい昼食をたべて施設内の書店をながめて、良いムックを2冊も見付けて買って、駐車代が無料で、機嫌良く仕事に戻れた、そういう総合的な条件の中で、1400円はとても貴重な対価、「1400円で、こんなに素晴らしい昼時を過ごせた」という思いがしたので御座います。
というよりも、終わりよければすべてよし。個々の好悪の違いは、きれいにくすんでよい手触りになる、理想的な人生の断面だったのです。
さらに、こまかく説明しますと、「くすんだ状態」これがえもいえぬ心地なのです。流行、輝かしさ、極端な明るさ、若さ、鋭さ、このような、世の中で肯定的に見られることへの、居心地の悪さ。
私めも、ようやく、枯れたというか(爆)、芭蕉翁の晩年によりそってきたようですなぁ~。
投稿: Mu→ほかもはん | 2008年7月 5日 (土) 11時46分