« NHK篤姫(23)慶福(よしとみ)と慶喜(よしのぶ) | トップページ | 邪馬台国周遊図書館ジオラマ(1)レール・レイアウト »

2008年6月10日 (火)

恭仁京と紫香楽宮 (2)紫香楽宮(甲賀寺)跡

承前:恭仁京と紫香楽宮 (1)恭仁宮跡

 さて、恭仁宮を後にして一路東北方向にRS君を走らせようやく、紫香楽宮(甲賀寺)跡に無事たどりついたのです。
 地図をクリックして、画面一杯にして御覧下さい。

(滋賀県甲賀市信楽町黄瀬)

 恭仁宮(この地図の左下)を出て、163号線を木津川にそって少し東行、加茂のあたりで北東に道をそれて和束町(わつか)、湯船を経て、307号線に合流し、信楽の狸や街並みを眺めながら、新名神高速道路にぶち当たる手前に「紫香楽宮」がありました。ただしそれは一部であって、おそらく大安殿などの中心は、信楽ICの北にある「宮町遺跡」と言われています。

 ほぼこういう道を聖武天皇さんも、恭仁宮からたどったわけでしょうか。
 
 さて以下、当日の写真を元に記憶を蘇らせて、記録しておきますが、この間随分時間(四週間近く)を費やしたのは次の事情からです。

(1)翌週に、紫香楽宮(宮町遺跡)から万葉集の歌木簡に関するニュースが流れました。
 そこで私は混乱というか興奮し始め、頭の整理が出来なくなったのです。歌木簡の内容が家持卿に直接関連していたわけではないのですが、種々の理由で私は大伴家持に関係する話に出くわすと、心が乱れるわけです。
 つまり、根底には、今ある万葉集のすべてについて、家持卿が目を通しているという、既視感・幻視があるわけです。
 実は、と私事ながら(笑)、柿本人麻呂という名前よりも、家持卿の悲劇に若年時から心をとらわれてきた経緯があって、その名を思い出すとそわそわしてしまうのです。当然、紫香楽宮について書くことが難しくなりました。
 この点については、紫香楽宮遺跡考本道とは切り離して、このシリーズで最後に「紫香楽宮跡の歌木簡」とでも題して、メモを記し、それで心を鎮めたいと考えています。

(2)紫香楽宮は、恭仁京以上に分かりにくい。
 一体、この宮が首都(都)だったのか、離宮だったのか、あるいは仏教聖都だったのか、分かりにくいわけです。なにをもって「都」とするのでしょうか。元旦朝賀の式をあげる所が都なのか、詔(みことのり)を発した所が都なのか、私にはよく分からないわけです。
 さらに、宮跡とされているところが、一応は現「宮町遺跡」と言われ、Jo翁と当日訪れた所は「甲賀寺跡」というのが通説です。しかし、その甲賀寺跡というのも、資料をいくつか参照すると、また霧の中ですね。混乱を避けるために、この記事では「われらは甲賀寺跡を見た」と記しますが、将来はまるで邪馬台国話になるかもしれません。
 紫香楽宮を作り出してから廃都になるまで、わずかに数年の都ですから、残っている物も少ないし、未完成の宮だったのでしょう。当時の人も、総てを照覧していた人は、ごくわずかではないでしょうか。現代でも、一応東京が首都といわれていますが、関西の者には東京駅と皇居が認識できるくらいで、どこに国会議事堂があって首相官邸があって、どこに都知事が居るのか、よくわかりません。まして、どこに国分寺があって、靖国神社がどのあたりかさえ、わからないものです。もちろん、これは聖都を別の箇所と強くイメージしている私だけの錯誤かもしれませんが。
 だから続日本紀(しょくにほんぎ)を書いていた人達も、途中でなにがなんやら分からなくなったのかも知れませんね。

 そういうわけだったのです。
 私も一応、物事について、論理的一貫性を保とうとする生き方をしていますから、上記二つの問題を前にして、首を傾げるだけで、夜間に考え、朝に目覚めても「そうだったのかぁ~!」と、なかなか爽快な、快哉をあげられなかったわけです。それは、今も変わりません。

5.紫香楽宮(甲賀寺)跡

5.紫香楽宮跡:矢印
5.紫香楽宮(甲賀寺)跡:案内板・全体説明
5.紫香楽宮(甲賀寺)跡:案内板・CGと伽藍配置図
5.紫香楽宮(甲賀寺)跡:案内板・東大寺との比較

 奈良市の東大寺大仏さんよりも先に、この紫香楽で大仏さんが作られ始めたわけです。
 大仏建立については様々な書籍、絵本、漫画、ビデオ、小説があり、それだけで長い物語になりますから、ここでは、大仏さんが紫香楽で作られかけたとだけにしておきましょう。とはいうものの、「どこで?」と興味がわきあがりますから、一応、訪れた甲賀寺の金堂跡、くらいにしておきます。話は、どこかに基点をおかないと宙に漂ってしまいます。

6.甲賀寺金堂跡への道

6.甲賀寺跡前のRS君
6.甲賀寺跡前のJo翁・出発
6.甲賀寺・金堂跡への道
6.甲賀寺・金堂跡へ歩むJo翁

 写真の道のりで分かるように、現地は整備されていました。公園として機能しています。小高い丘になっていて、この丘に大仏さんが半身を表していたのかも知れないと、想像しながら歩いていました。
 大仏さんは大きな金銅仏ですから、地形を上手につかって、骨組みを作って回りに土をかぶせて、銅(錫との合金?)を流し込んで、冷めたら土(粘土でしょうか?)を取り去って、金を水銀に溶かしてぬって、回りで火をたいて水銀を蒸発させて、金メッキするわけです。想像するだに壮大で危険な作業を伴います。もちろん多数の専門技術者が働いたと思います。
 この紫香楽で、どこまで進んだかは分かりませんが、恐らく大仏さんの型枠を作った頃に、工事は中断したのだと思います。
 そんなことを考えて、Jo翁の姿を撮っておきました。

7.甲賀寺復元図

7.甲賀寺金堂跡の神社
7.甲賀寺金堂の案内板
7.甲賀寺(甲可寺)復元図:奈良国立文化財研究所原図

 小高い丘が整地されて、さらに一段上がったところが金堂跡でして、そこに神社がありました。有徳の方の寄進と思いますが、「神社」を建てるのは大抵なにかを鎮める意味がありますから、単純な記念神社とは思いませんでした。しかし現地にも、手元にもこの新しい神社(昭和だと想定しました)の由来資料がなく、詳細は分かりません。
 この近くの案内板では、奈良国立文化財研究所が考えた原図がありました。案内の文章については文責が不明です。「甲可寺」という表記が目につきますね。この寺と今立っている寺跡とが同値なのかどうか、また迷路に入り込むような記事が、他の資料では幾つかありました。しかし、そのことを調査するほど気力が充実していないので、このあたりで止めておきます。

8.講堂と経楼:堂宇の跡

8.甲賀寺講堂跡の案内板
8.甲賀寺講堂跡の石碑と花
8.甲賀寺経楼(きょうろう)跡の案内板
8.甲賀寺経楼跡の石碑とJo翁

 数えたわけではありませんが、七堂伽藍というように、一通りの建物跡の礎石と案内板がありました。このうち、講堂跡と経楼跡の写真を掲載しておきます。全体像についてはJo翁のビデオを御覧下さい。それにしても講堂跡石柱に花がそえてあったのが不思議でした。

9.帰路の近江肉

9.帰路:甲賀寺金堂跡からの帰り道
9.帰路:琵琶湖遠望
9.帰路:大津で近江肉・陶板焼き

 帰路はとても気楽でした。すぐそばに信楽ICがあって、約15分程度で大津ICに着きました。ここはレストランも美味しいし、絶景ですし、昔から名神高速道の名所ですね。
 Jo翁は、太っ腹というのでしょうか、近江肉の陶板焼きを御馳走して下さりました。お腹がすいていたのと、美味しことで、あっという間に無くなりました。さすがに高速道路だからでしょうか、ビールがなくてJo翁はお困りでした。

★.これで終わりではないのです
 この日の翌週でしたか、紫香楽宮跡(宮町遺跡)で、万葉集、歌木簡が解明されたとのニュースが流れました。あえて「発見・発掘」じゃなくて、「解明」としたのは、以前から木簡が出土していて、それらを長期間研究調査した結果として、「歌木簡」の解明があったように、見受けられるからです。突然ぱっと出土して、「これこそ親魏倭王・金印!」というような事例は、少ないのだと思います。つまり、ニュースに出たときは大抵の関係専門家はおおよそを、過去に知っていたことなのでしょう。

 それについては、身近なところに万葉集研究者がおられて、私に新聞記事のコピーや見どころ考えどころをチェックして下さったので、次回は「紫香楽宮の歌木簡」というテーマで一文記し、それで今回の旅を終えたいと思います。

|

« NHK篤姫(23)慶福(よしとみ)と慶喜(よしのぶ) | トップページ | 邪馬台国周遊図書館ジオラマ(1)レール・レイアウト »

遺跡」カテゴリの記事

コメント

お疲れさまでした

 楽しかったです、有難うございました。次回も宜しくお願いします。

 ところで、このあたりの甲賀と山を挟んだ三重の伊賀は忍者のルーツですよね。伊賀は信長に滅ぼされたそうですが、信長が本能寺で身罷ると家康を助けて逃しますね。

 その功績で服部半蔵から江戸時代、徳川の御庭番として活躍。甲賀はそのかわり信楽焼を発展させました。

 問題は彼らのルーツです。どうも鉄、火薬、薬品に通じ兵法に詳しい人々ですよね。大陸、朝鮮半島の香りがするのですが・・・。

 厳しい朝鮮半島の動乱を生き抜いたプロ集団のような気がします。今後の調査が必要ですね。

 家持はやはり、蘇我氏や藤原氏に滅ぼされた大伴氏の滅びの美学が漂っているのが気になりますよね。

投稿: jo | 2008年6月10日 (火) 13時36分

「厳しい朝鮮半島の動乱を生き抜いたプロ集団」
 そうですか。卓見ですね。伊賀甲賀忍法の源流は、百済、新羅にあるというわけですか。

 なぜ紫香楽宮まで聖武さんは来られたのか、まだ定説は見つかりません。研究者、関係者も「わからない」と書いて居るのを見かけました。

 大仏=仏教聖都と考えると宗教関係氏族かともおもったのですが。
 あるいは、近所に石塔寺もあるし、百済難民の村もありますから、やはり、半島からの実力者が呼んだのでしょうか。

 まだまだ、勉強が足りませぬ。

投稿: Mu→Jo | 2008年6月10日 (火) 18時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 恭仁京と紫香楽宮 (2)紫香楽宮(甲賀寺)跡:

» 紫香楽宮、恭仁京紀行 (1) [JoBlog]
 紫香楽宮、甲賀寺遺跡探訪記録編  昨夜のテレビニュースで又、本日、読売新聞朝刊 [続きを読む]

受信: 2008年6月10日 (火) 11時45分

« NHK篤姫(23)慶福(よしとみ)と慶喜(よしのぶ) | トップページ | 邪馬台国周遊図書館ジオラマ(1)レール・レイアウト »