小説木幡記:2008/06/08(日)箱庭(療法)とジオラマの地続き
最近卒業生に、わが「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」を見ていただき、論議した。公共図書館と大学図書館で司書歴十年に近いので、視点は鋭く、深い示唆を得た。
有益なことだったので、理由はすぐには分からない点もあったがメモしておく。仮にX氏としておく。
1.一般に女性は鉄道模型を好ましく思わない事例が多い。
X氏の場合は不明だった。
ただし、Nゲージ図書館列車が線路を走り、電池ではなく、コンセントから線路に電気が流れていることを知り、そしてその速度や方向を制御出来ることには気付いた。
このことから、基本的な科学知識はあるが、そういう工夫(電気制御)には関心が見て取れなかった。すなわち、何故か分からないのだが、X氏の場合も、「電動・鉄道模型」のような機会仕掛けには興味が薄いと判別した。
おそらくこれは、余がファッションには殆ど興味を持たないのと同じなのだろう。余は他の男性に比べても、幼少より機械仕掛け、模型、自動車やPC、ロボットに強く惹かれてきた。
文化的男女差の中での個々の差であろうか。
2.箱庭療法ですね。
X氏が最初に発した言葉だった。X氏は大学では心理学を学んでいるから、心理実験や講義でその言葉や概念を余よりもしっかり把握している。
余も以前、大学のオープンキャンパスで、若い臨床心理学の先生に、余興として「箱庭療法」を観察してもらった。
一般には「療法」の場合、専門家の前で箱庭を作らないと効果がないようだ。ただし箱庭療法を定義したユングは自分自身で無意識にそれを始め、学としてまとめた。己を己で知ることが学になる事例だと思った。ユングについては、余も学生時代から、文学の一種として親しんできたので、違和感はまったくない。
で、観察してくださった先生は、余興だと思うが(笑)、余のことを「守りの強い人に見えますね」と言われた。明言されなかったが、強い自閉傾向があるのだと、自覚している。余の作った箱庭は、家の回りに三重の塀を取り回したものになっていた。川や柵やブロックで鉄壁の要塞化をほどこしていた。作業時間は短時間だったが、短時間だからこそ無意識、深層の心が理屈抜きで表出され、そういう結果になったのだろう。
そして「療法」の成果は、自閉を自閉としてあるがままに客観視し、充足し安定したことだった。それが治療成果なのか、重篤化なのかは、余興だからその先生も余も、分からなかった(笑)。
X氏が屯所のドアを開けて「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」を見て最初の一声が「箱庭療法ですね」だった。
多分、余も無意識にそれを感じてきた。正解の一種なのだろう。一種というのは遁辞ではなくて、現象は多くの視点から解がそれぞれに導かれ、統一解は「人の営為」であるかぎり、無いと考えているからだ。
3.箱庭とジオラマ。
(鉄道模型の場合は線路を主に見るとレイアウト)
日本では類似概念に盆石がある。しかし後者は芸術志向やルールが強く、時空間と人智の制約が強い。ジオラマは時空間の制約だけがあり(つまり地球の重力と、電気や鉄道工学という歴史的科学の成果)、人智の制約が少ない。ジオラマ製作には「こうしなければならない」というルールが見あたらない。
箱庭は、箱のような小さな空間に想像や創造の風景を織り込み楽しむ「遊戯」だから制約は少ない。そしてジオラマも、実車志向に走らない限り、「らしく」見せるだけで統一理論も制約も極めて少ない。
「箱庭療法」としての箱庭は、知る限り単純素朴な素材を使って短時間で作る事例が多い。砂とか木片とか、小石だけでも事足りる。もちろん専門誌を捜したら、長時間の制作を含む試みもあるかもしれないが。
「療法」には、観察者の判定を伴うから、被験者が長時間精密な作業を行った場合、「無意識」→「意図。芸術的意図」に変化し、判定が難しくなり、被験者も「療法」効果が薄くなるかも知れない。後者は、余には分からない。時間をかけることが、精神のより重篤な埋没を招くかも知れない。下世話に言うなら、芸術家や素人が何かに熱中し、ますます病膏肓(やまいこうこう)の域に入ることもあるだろう。
鉄道模型ジオラマは時間がかかる。「叩きモデル」でも数ヶ月はかかり、雑誌に載るような著名な作品は数年から10年のオーダーに及ぶ物もある。この間を「ジオラマ療法」の期間と見るかどうかは、専門家の判断を待たねばならないだろう。
元来箱庭療法とは、世界をわが眼前で、把握することに治療要素があると考える。人は世界との連携を失ったところに精神の黄昏や喪失感を味わい、失調する。両の手で世界を創ったとき、その世界の一員として自由に振る舞い、また、世界創造主としての自信を回復する。失調とは単純にバランスを欠くと思えばよかろう。バランスの回復が箱庭やジオラマを作ることで得られる。
RPG(ロール・プレイング・ゲーム)も、PCで扱う物は、箱庭、ジオラマの一種と考えている。人は冒険に目を向けるが、余は「世界」を旅する、またRPG実作は「世界を創る」意味があると考えて来た。
4.司書X氏が見た「鉄道図書館」理論。
X氏は、鋭く本質を突いてきた。このことは、余の晩年の教材研究として定着するつもりなので、真摯に受け止めた。
☆なぜ図書館世界が嵯峨野であり、邪馬台国周遊図書館なのか。
ジオラマは空間を限定するので、汎用性を持たせるのか、なぜ地域限定なのかを説く必要がある。
X氏の感想では、北海道・札幌から沖縄・那覇まで、途中海底トンネルも掘って運行させる方が、図書館列車の場合は自然に思える、との感想だった。
余の現在の解は、「個別から取り組むことで問題が先鋭化する」、である。
☆なぜ鉄道図書館列車なのか。
この点では議論がより深く進んだ。
なぜ図書館があって、そこに読書や研究に人が訪れるのか。過去事例では日本の公共図書館は貸出に重きを置き、図書館が館としてあることの意義を持たなかった時代があった。それは現在でも、図書という物体を借り、自宅や好きな所で読めば、館が無くても良いという考えにつながる。
それならば、インターネット、電子図書館が発達すれば、紙図書の存在も図書館の存在も不要になると、論が一挙に加速する。
何故、図書「館」なのか。
であるなら、なぜ「図書館列車」なのか。
余は丁度十年前に『電子図書館の諸相』を記した。そこでの一番の課題は、何故インターネットなのか、何故電子図書館なのか、だった。ところが、実はコインの表裏課題として、同時に「何故、図書館なのか」も、合わせて解かねばならなかった。
人類史において少なくとも千年の実績を持つ「紙メディア」が容易に「ディジタルメディア」へ一斉にメディア変換する可能性はないし、またそれほどディジタルメディアが万能であるわけもない。
万能ではないのに、なぜ電子図書館なのかという第一課題を解くのは難事だった。しかし答えは最初からあった。つまり、時空間の制約を、紙図書以上に乗り越える能力をディジタルメディアは持っていたからである。
(実際には紙図書も時空間の制約を逃れる記録媒体として生まれた)
さらに、紙メディアつまり図書=図書館の必要性という第二課題は、ディジタルメディアが時空間の制約を突破する限りにおいて、実際には時空間の制約に生きる人間にとって、時空間という「枠」「制約」をもたらす点で図書館存続の意義があると解いた。これは「図書館空間療法」と考えれば、より説明が容易だろう。
そして今、X氏との論議にもどると、「何故鉄道図書館なのか」と、問いがあった。
答えは。
表層的にはMuBlogで出してきたが、深層的には未だまとまっていない。それを、時間をかけて解き明かす楽しみが、余のジオラマ療法なのだろう。
★研究研修図書館列車。
先に地域限定によって要件を先鋭化しうると述べたが、そこでX氏との合意が一つ成り立った。つまり、図書館種を特定することで、「鉄道図書館列車」の利点や意義をより分かりやすくできるのではないかという結論だった。
余は経歴として、公共図書館よりも大学図書館、いやそれよりも「専門図書館」の経験が深い。
その事情はおくとしても、専門図書館なら分野限定で文献資料の選書、図書館列車におくべき蔵書構成も精密に考えられる。なによりも、利用者動向がつかみやすい。
昔、電子図書館研究会(インターネット上での仮想図書館機能の構築)とか、NDK:日本文学データベース研究会(源氏物語など古典文学のDB化)に参加していた。その時の印象や経験をもとにして、研究研修図書館列車の環境や編成、もろもろを考えれば、意義がより分かりやすくなると思った。
寝台特急は恰好のモデルとなるだろう。
5.鉄道図書館列車考。
鍵は、密室移動途上での読書、知識獲得、瞑想、思考。
たとえオープンカフェが2階にあっても密室拘束状態であることにかわりはない。
まだ深層解は得られないが、形ある「人」が空間移動することで、その途上において「知識」を獲得し、文書芸術を楽しみ、「瞑想、思考」に入る、そういう異空間が「鉄道図書館」にはあるのだと考えている。
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コメント
私は夜に乗物に乗って移動するとワクワクする人間です。
夜汽車なんて言葉はもう現代では過去の遺物になってしまいましたが、
たとえば寝台特急や、夜間就航のフェリーに乗るにしても、
自分が運転して何百キロもの夜の高速を走るにしても、
宇宙へ向かってむき出しになった闇の中を移動するスリルと、
乗物という甲冑に守られた安心感のなかで、
空間を移動している究極感を味わえるからでしょうか。
夜間移動は、人間の生きているということ自体が、
魂における時間と空間の旅のプロセスであることを、
まざまざと思い至らせてくれるシチュエーションなので、
私はきっと夜間移動が好きなんでしょう。
ですからジオラマ図書館は夜も走ってほしいと思うのです。
煌々と照る月明かりの下で、
手元の薄ら明かりはオレンジ色。
分厚い本の栞をはさんだそのページから、
夜の読書を始める・・・
う~ん考えただけでワクワクしてきます。
嵯峨野の物の怪たちが草木の陰から覗く中を、
静かに図書館列車は今宵も静かに
走り抜けてゆくようです・・・
投稿: 伽羅 | 2008年6月14日 (土) 08時36分
未知伽羅さん、お久しぶりです。
いつも卓見をいただいた深謝。
伽羅さんがコメントでイメージされたことになんの違和感もありません。
世の中には似たような夢というか精神世界を彷徨する人が幾人かいるようで、安心しました。
夜間運行ですが。
このコメントでほぼ腹をくくりました。
ただ、教材として、電飾関係は出費がかさみ、よほど、その資金投下に見合った論説を自分の中で組み立てないと、途中放棄する可能性もあるので、しばらく待ちます。
わが「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」ですと、第四期になります。二期、三期はすでに決まっておりますので。今夏の「邪馬台国周遊図書館」ですと、第二期工程に繰り上げます。
どうであれ、
「嵯峨野の物の怪たちが草木の陰から覗く中を、静かに図書館列車は今宵も静かに走り抜けてゆくようです・・・」
このイメージを陰とするなら、陽は「煌々と照る月明かりの下で、手元の薄ら明かりはオレンジ色。」となることでしょう。
陰のワクワク感を長年人前では漏らさなかったきらいもあるのです。なにか、そういう超絶におもしろいことを、他人様に伝えるのができなくて(笑)。陽のイメージなら、日常に溶け込ます話として、語り易いです。
というわけで、「夜間運行」これは、またしても要件追加ということで、適切に取り扱います。
では
投稿: Mu→未知伽羅 | 2008年6月14日 (土) 18時14分