恭仁京と紫香楽宮 (1)恭仁宮跡
8世紀の遷都概略年表
710年 平城京(宮:奈良県奈良市佐紀町)→
740年 恭仁京(宮:京都府木津川市加茂町)→
742年 紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町黄瀬&宮町)→
745年 平城京
1.恭仁宮(大極殿)跡の案内
古風な木造の恭仁小学校横(東)に大極殿跡の案内板があって、そこで立ち止まりました。大極殿土壇は小学校の北に位置していたのです。ところで、そこは歴史的には、山城国分寺の金堂跡でもあって、遺跡が多重だと調査が難しいと思いました。もちろん飛鳥の多重多層宮跡(飛鳥の考古学図録4)のあたりに比べると少し楽かも知れませんが。
2.恭仁宮大極殿(山城国分寺・金堂)跡の風景
実際に大極殿・金堂跡の土壇に立って写真を撮りました。礎石がごろりと転がっていました。
つい横(南)が小学校ですから、もしかしたら小学校の地下にもいろいろ埋まっているのだろうと想像しました。恭仁小学校の木造校舎は昭和11年に建てられたようです。当時のことをいろいろ想像していました。
3.山城国分寺(七重塔)跡
小学校の東側に、まるで学校グランドのような広場がありました。その隅に石柱といくつもの礎石がありました。案内板によると、七重塔跡のようです。別途情報では、国分寺の規格として丈六仏と、塔は七重塔だったようです。だから想像図も七重塔になっているのでしょう。
このあたりと木津川とは指呼の間ですから、別荘があった頃から船での往来があったのだろうと、想像していました。風光明媚と言われているのは、北の穏やかな山並みと、南の木津川の風景のことだと思いました。
4.恭仁宮跡の様子
人っ子一人いなかった恭仁宮の様子を点描しておきます。全天候型調査探検車RSは当日も快調に走りました。不思議なことに小学校からの子供たちの声は聞こえませんでした。授業中だったのでしょう。
ふと気がついて北の山を写し、帰ってから拡大しましたら、海住山寺の看板が見えました。このあたりは、南の浄瑠璃寺など、いずれも聖武天皇が発願(ほつがん)した由緒ある有名寺院が多いのです。
さてこの後、同行二人は道を東北にとって信楽(しがらき)の紫香楽宮(しがらききゅう)関係の甲賀寺跡に向かったのでした。
附録
附録1.恭仁「宮」と恭仁「京」:くにきゅう と くにきょう
専門的にはいろいろ考察する必要があるのですが、京都で言うと京都御所が「宮」にあたり、「京」とは都(みやこ)、すなわち京都市全体をさすと考えれば大きな間違いはないはずです。
すると、今回の恭仁京と恭仁宮の関係は次のようになります。
まず私とJo翁が尋ねたのは現在は史跡・恭仁宮跡と言われ、以前は史跡・山城国分寺跡と言われた地域です。京都府の南部で、奈良市までは直線で10キロ程度のところにあります。要するに「宮跡」であって、恭仁京全体を見たわけではありません。
『歴史考古学大辞典 吉川弘文館:磯野浩光「くにきょう」中の、恭仁京復元図/足利健亮説』によると、京域は東西に約6.1km、南北に約4.8kmとありますから、6キロx5キロもの規模になります。地図で言うと、宮跡を右上にして、木津川が東西から南北に向きを変える付近を越えた長方形になります。
同辞典によると、これは推定で、京に関する遺構発見はあまり進んではいないようです。
附録2.国分寺
恭仁宮は廃都とともに山城国分寺に提供され、七重塔が建てられ、大極殿跡は金堂(寺の中心)になりました。その跡地が現在の恭仁宮跡となっています。つまり二重遺跡なのです。
そこで国分寺のことですが、国分僧寺と国分尼寺(にじ)と二種類あって、聖武天皇と光明皇后とが二人して鎮護国家のために、諸国に寺と仏を造ることを願ったわけです。収めた仏は丈六仏とありますから、一丈六尺の背丈ですが、この時代の度量衡は調べないと正確には分かりませんが、そのままに考えると4.85mで大体5mもの高さになります。しかしこれは立ち姿なので、座像だとその半分の2m強の仏様になります。
最近(2008.3)の『平城京遷都/千田稔.中公新書1940番』では、藤原不比等の娘だった光明皇后は、父親の遺産を使って諸国の国分寺に寄進し丈六仏の費用とした、と解説があったので、聖武天皇夫婦は相当に国分寺創成に力をそそがれたようです。
そして、この国分寺(尼寺を含む)を全国に造るという「勅」は、741(天平13)年にこの恭仁宮で発せられたのです。この前後の話はもう少し複雑ですが、われわれは「恭仁宮で国分寺、丈六仏を造る勅命が下った」と、理解して間違いではないです。後日、全国の国分僧寺代表が東大寺(総国分寺)、国分尼寺の代表が法華寺(総国分尼寺)となりました。
附録3.Jo翁の記事
同行したJo翁・JoBlogの「紫香楽宮、恭仁京紀行 (2)」では、(諸兄の実権と藤原氏 時代背景について)の年表が整備されています。当時の権力者にして反藤原氏であった「橘諸兄」を軸にした年表です。
当時は、自然災害や疫病は神仏に祈るしかなく、また天平十二(740)年・九州での藤原広嗣(ひろつぐ)の乱は恭仁京遷都の契機となったようです。
そして744年の、聖武天皇皇子・安積(あさか)親王の死が、恭仁京廃都の原因の一つだったこを示唆しています。もちろん、政治的・経済的要因は歴史を動かす原動力ですが、人が作る歴史ですから、人の気持ちがどれほど大きく作用したかは確定的に推量できます。
この時代の前後、若き大伴家持が安積親王の内舎人(うどねり)・側近だったわけです。歴史は深いですね。
さらに同 (山背の地はもっと注目すべきでは)では、Jo翁流の「面として歴史を見る視点」が色濃くでています。大和・平城京から北の後背地に位置するのが山城(山背)国です。そこには木津川という巨大な河川があって、後の長岡京や平安京に結ばれています。
また恭仁宮からは東北に道をつけて信楽(しがらき)に至り、仏国聖地(大仏造営)の紫香楽宮を作り、さらにすぐ北西には大津京のあった琵琶湖があります。
これらをまとめて考えると、大和面から山城面への流れが明瞭にうかがえます。恭仁京に引っ張ったのは、聖武天皇寵臣橘諸兄であり、諸兄は藤原氏が跋扈する平城京よりも、諸兄の経済基盤であり別荘のあった京都府井手町近くの、風光明媚な恭仁宮(以前から天皇家の別荘があったようです)が良いと誘ったのでしょうね。
橘諸兄(たちばな・もろえ)墓
大きな地図で見る
(京都府綴喜郡井手町)
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コメント
Muせんせ おはよう御座います
流石に、水も漏らさぬ綿密・正確な記事ですね。私の大雑把な記事とは異なります。
ところで、白鳳時代の仏教ですが、新羅の影響が大きいのと違いますか。何故かと言うと、この前、新羅を訪問し仏国寺とか石窟寺院を見学してきたんですが、東大寺の大仏開眼と同じ時期に同じ盧舎那仏が開眼してるんです。
開眼法要には新羅から200人とも700人とも来朝しているのが気になります。新羅とは30数回も交流があったそうですよ。
仏国寺を訪問し、その類似性に随分と驚いた印象を持ちました。今後、調べる必要があるのではないでしょうか。正倉院には数多くの新羅から頂いた物があるようです。
さて、木津川流域と宇治川、淀川、桂川、水運の動脈流域の歴史をもっと掘り下げたいですね。
投稿: jo | 2008年5月30日 (金) 12時08分
ちょとJoさん、大仏開眼のころは朝鮮半島には、統一・新羅しかなかったのと違いますか?
百済も高句麗も滅びてしまっている。
開眼供養の時に坊主を呼ぶとしたらまず隣国新羅ですよね。
唐僧はどうだったんでしょうね。
追伸
つまり奈良の大仏っつあんは、新羅の影響甚大だという説を深めるわけですね。ふむ。わかりました。
投稿: Mu→Jo | 2008年5月30日 (金) 18時27分
言葉不足
統一新羅の事です。ややこしいね。
7世紀中葉から8世紀、頭までは唐と連絡が取れていないのですね。
僅か4~5年の短い期間でしたが、恭仁京、紫香楽の宮と平城京を離れていた時代は激動の時代だったのでしょうね。
どうも今まで学んだ平城京の平和なイメージはどうも違うようですね。激動の平城京100年だったようですよ。
明治100年も過ぎましたね、そろそろ遷都ですかね。
投稿: jo | 2008年5月30日 (金) 22時27分
もうすぐ平城京遷都1300年祭があるようですね、平成22年。
天平の空は青いと思いますよ。
けれどJo翁がおっしゃるように、激動の時代だったわけです。
私は聖武天皇さんのことと、あわせて長岡京まで縁のある大伴家持卿のことを、余生に勉強しておきたいです。
話変わって、
Joさん、次の調査探検旅行は難波宮かな!
さらに舞台が回って、
次の遷都は京都はそれほど佳いと思っておりません。
三重県や滋賀県の隣接地帯がよいでしょう。
あのあたりは無人(原住民に怒られる!)地帯で、温暖で、良き土地が一杯余っておりまする。
名古屋、大阪、京都にも近いから宮を作るのに最適です。その上に、伊勢神宮も間近です。
遷都は伊賀甲賀忍者都市に決定ですね。
東京都知事は経済・スポーツ・軍事を任せて、派遣都知事としておけば良いでしょう。
投稿: Mu→Jo | 2008年5月31日 (土) 10時55分