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2008年5月21日 (水)

恭仁京と紫香楽宮 (0)はじめに

写真上段・恭仁京(くにきょう・くにのみやこ)
写真下段・紫香楽宮(しがらきのみや)の甲賀寺跡
Kunisigaraki

はじまり
 先週、横浜住まいのJoさんが帰京したので、いっしょに懸案の遷都巡りをしました。
 早朝8時半ころに落ちあって、約一時間で京都府南部の恭仁京に着き、その後北東に進路をとって、また一時間で滋賀県の紫香楽宮跡に行ったのです。

 帰りは紫香楽宮からすぐの、この二月に開通した新名神高速道路「信楽IC」から大津ICまで15分程度走り、そこでJoさんから、案内・運転慰労なのでしょうか、近江牛を御馳走されました(笑)。葛野に着いたのが午後すぐでしたから、比較的手頃な調査旅行・フィールドでした。

 いつもですと早速記事をとりまとめ、MuBlogのデータベース記録として掲載するわけですが、事情で今回はまず全体を説明することにします。
 事情とは簡単なことでして、恭仁京も紫香楽宮も、まだまだ不明瞭なことが多くて、「これだ!」と言い切れない面があるのです。

恭仁京と紫香楽宮
 たとえば恭仁京跡ですと場所は一応地図の通り分かっているのですが、「京」なのか「宮」なのか混乱もあります。
 「京」と言うのは完全に整備された首都と言えるわけですが、「宮」だと天皇が住んでいたところとか、政治を一時期行っていた所、くらいの違いが出てきます。恭仁京は最近も領域が拡大指定されたようですが、現地表示は「恭仁宮」となっていました。

(京都府木津川市加茂町例幣)

 また紫香楽宮は、さらにややこしく、現地の紫香楽宮跡は「甲賀寺跡」で、本当の宮跡は北へ二キロの宮町と言われています。私達は、宮町には行かず甲賀寺跡だけを探索して帰路につきましたが、実はこの地で制作されかけた大仏建立跡が、今の甲賀寺跡あたりではないかと、想像しているのです。

(滋賀県甲賀市信楽町黄瀬)

重なる遷都
 発端は平城京にあったのです。
 聖武天皇は、一時期に数カ所の都うつりをなさった方で、平城京→恭仁京(740年)、難波宮、紫香楽宮→平城京(745年)、と五年の短期間で都を次々に代えようとされました。その事情がなかなか分かりにくく、記事も書きにくいわけです。以前は、単純に聖武天皇は気弱でいささか鬱な方かと想像していたのですが、今回もJoさんと話していて、なにしろ民衆代表の行基の力をかりて奈良の大仏さんを造られた方ですから、なかなかの人だったんだなと認識を改めると、逆にますますこの都遷りの事情が混沌としてきたわけす。

まとめ
 以上の事情のもとで、しばらく時間はかかると思いますが、現地で撮った写真を整理して、二つの宮を考察していくつもりです。JOさんは手持ちのビデオを使っていましたが、私はカメラだけにしました。JoBlogとMuBlogとを相互参照されれば、より分かりやすくなると思います。

 長年京都市、そして宇治市に住んでいる私にとって、身近なところに日本の首都、都があったという事実を再確認するのは大切なことと思ってきました。そういう事実を確認もしないままで終わることに耐えられない焦燥感を味わい出したのです。
 自分が育った地域を、時代を超えて確認していく作業は、今後も継続するつもりです。
 以前、長岡京を一日経巡りましたが、一日で済む話ではありません。平安京も長岡京も平城京も、飛鳥の藤原京もまだまだ確認し終わっておりません。
 (最後は卑弥呼・邪馬台国の宮跡にたどり着くことでしょう

 そして、恭仁京、紫香楽宮。とくに後者の滋賀県は他にもいろいろあるのです。このことで「都」とか「遷都」のことを学ぶことができるとおもうと、楽しみです。

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コメント

Muの旦那

 大変お世話になりました。子供の頃に泳いだ木津川を遡上し恭仁京、紫香楽と楽しい旅が出来ました。

 現在、熊野古道の記事に謀殺されていましたが、次に、葵祭りもありますし、恭仁京に辿りつくのは少し先の様子です。申し訳ありません。

 ビデオは未だチェックしょていませんが、大丈夫と思います。天武天皇の皇子である文武天皇の皇子として平城京では一体何があったのでしょうか。

 度重なる天然痘の流行や、長屋王の変、藤原4兄弟の天然痘による死去、藤原弘嗣の乱、唐と渤海の戦争、国際情勢も国内情勢も多難の時代であったと想像されます。

 平城京を捨て、難波と山背の国に遷都されたのには大きな理由があったのでしょうね。あまり、解明されていない歴史事実です。

さて、どこまで迫ることが出来るか、面白いですね。

投稿: jo | 2008年5月21日 (水) 11時23分

そうですねぇ、Joさん。
予断は許しませんが、天武さん系の聖武天皇というところが話のツボでしょうかぁ(笑)

有名な事実として、天武天皇が壬申の乱の前夜、ぐるりと伊勢~滋賀を回った、その故事をなぞっているという説もありますね。

オフレコでしたが、あえて漏らすと、Jo説では皇后陛下からの逃避行という説も、もっともらしくありましたね。

以前、NHKの松平さんの「その時歴史が動いた」で聖武さんをとりあげなすったので、記録を再確認しておきます。

それにしても、恭仁宮も紫香楽も、地場の人にはわるいけど、現代の田舎ですよね(笑)。両京とも、人っ子一人いなかったじゃないですか。両爺だけが、ビデオやカメラかついで、うろうろ。一緒になったり逆方向になったりで、他人が見たらきっと「不審人物!」と思うことでしょうね。

特に思ったのはね、聖武さんは続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、まさに私達が恭仁宮から紫香楽宮に向かって走った山の中に道を造ったんでしょうね。恭仁宮の近所には橘諸兄爺さんの別荘があったと、どっかで目にしました。しかし、紫香楽に何があった? 狸の置物? まさか!

まだまだ、少しあとで滋賀には保良宮(ほらのみや)とか、別の天皇さんが行ったところですから、要するに奈良市から京都山城にまず逃げて、それでも足りないからご先祖さんの苦難を偲んで、近江に逃げるのが隔世遺伝のようになっておったんかもしれませんなぁ。

見識が浅いまま言うのもなんですが、恭仁宮はたしかに木津川があるから、継体天皇の故事からも物流経済拠点の可能性はあるけど、紫香楽には何があったんでしょう。


分からない。
今回は解説書をいろいろ調べて記事を書いてみます。そのままじゃ、まるで迷路ですよね。

投稿: Mu→Jo | 2008年5月21日 (水) 19時53分

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